徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡59 快楽と喜びについて

 1. 君の手紙は僕に大きな快楽*1をもたらしました。ストア派的な意味ではなく、通常の意味でこの言葉を使うことをお許し下さい。というのも、われわれストア派は快楽を悪と考えていますから。確かにそうかも知れません。しかし、心が楽しい状態にあることを表現したい時、普通はこの言葉を使います。2. われわれの広報板*2に照らし合わせれば、快楽という言葉は悪名高いものであり、賢者のみが喜びに到達することが出来るということも、僕はよく分かっています。なぜなら、「喜び*3」とは自らの内にある善と真理に信頼を置く精神の高揚だからです。ところが、一般的な用いられ方は、友人の執政官への就任や、結婚、子をもうけたことに、われわれは大きな「喜び」を抱くというものです。しかしそれらは喜びではなく、将来の悲しみの始まりであることが多いのです。そうではなく、終わりがなく、反対のものに転ずることがないのが、真の喜びの特徴です。

 3. ですから、われらがウェルギリウスが次のように言うとき、

心の悪しき喜び*4

その語り口は雄弁ではあっても、厳密には適切ではありません。「喜び」は悪徳にはなり得ませんから。彼は快楽に「喜び」という名を冠して、自分が言わんとすることを表現したのです。つまり彼は、人は自分の悪徳を喜ぶということを伝えたのです。4. しかし僕が、君からの手紙で大きな「快楽」を感じたと言ったのは、悪い意味でではありません。未熟な人であっても、立派な原因から「喜び」を得ることはあるでしょうが、そうした人物の感情は気まぐれであり、直ぐに別の所へ向かう可能性が高いので、僕はこれを「快楽」と呼びます。というのも、それらは善に対する偽りの見解に触発されたものであり、制御されずに、過剰につき進むものだからです。

 しかし、本題に戻り、君の手紙の何に僕が喜びを抱いたのかをお話させて下さい。君は自分の言葉を制御できています。君の言葉は、君の意図を超えて、誇張されたり、引き延ばされたりすることはありません。5. 多くの作家は、彼らが議論の対象として自ら設定した主題から外れて、魅力的な言葉の心地よさに捉われます。しかし、君の場合はそうではありません。君の言葉は全て簡潔で、主題に適ったものです。君は自分が語りたいだけのことを語り、語っていること以上の意味を持たせます。これは、君の扱う主題が重要な事柄であることの証です。言葉だけでなく、君の心にも、余計なものや大げさなものは何もないということを示しています。

 6. しかし、いくつかの比喩は見受けられます。もっともそれは、奇抜なものではなく、堅実に使用されています。直喩も見られました。もし誰か、その特権*5は詩人のみが持つとして、われわれにその使用を禁じる人がいたら、おそらくその人は、未だ拍手喝采を得るために文体をいじることを知らなかった、古代の散文作家たちの作品を読んだことがないのでしょう。簡潔に語り、自分の考えを伝えることのみを心がける作家は、喩えを多く用います。僕はそれらを、詩人にとって必要なのと同じ理由からではなく、語り手と聞き手の両方を議論の主題に集中させるために、われわれの弱さを支える道具として用いる必要があると考えます。7. 例えば、僕はちょうど今セクスティウス*6を読んでいます。彼は鋭い人物で、ギリシャ語で書きますが、ローマの哲学に沿った考え方をします。彼が用いた喩えの一つは特に僕の目に留まりました。それは、敵がどこからでも現れ、戦いが起こることの予測できるところを、方陣を組んで進む軍隊についてでした。「これこそ」彼は言います。「まさに賢者がすべきことだ。彼は全ての戦う力を、あらゆる方向に向けて配備せねばならない。それにより、どこで脅威に晒されても、彼の武器は既に手元にあり、怖気ることなく命令に従うことができる。」これはわれわれが、立派な指揮官の軍隊に所属することで気づくことですが、軍の全員が、指揮官の命令をどのように同時に知るのかを理解することができます。というのも、一人の人間が下した合図が、歩兵にも騎兵にも同時に伝わるよう、的確な陣を組んでいるからです。これは、われわれのような人間にはいっそう必要なことだと、セクスティウスは言っています。8. つまり、兵士はしばしば理由もなく敵を恐れますが、最も危険かのように思われた進軍が、実は最も安全であることがあります。しかし愚かさは何ら安全をもたらさず、恐怖が上にも下にも付きまとい、右にも左にも混乱があります。愚かさは危険に晒され、それに直面させられます。愚かさは全てにたじろぎ、何ら準備もなく、自分の援軍にすら恐れを抱きます。しかし、賢者はあらゆる襲撃に対して備えができています。彼は用心深く、貧困や、悲しみや、不名誉や、苦痛の攻撃に晒されても、後退することはありません。そうしたものの中にあっても、恐れることなく歩みを進めます。

 9. われわれ人間は、多くの悪徳に縛り付けられ、弱められています。われわれは長い間悪徳に浸かっていたので、清めるのは困難です。われわれはただ汚れているのではなく、染まりきっているのです。しかし、ある喩えから別の喩え*7に移ることを控えるために、僕が時おり心の中で考えている問題を提起しましょう。なぜ愚かさはこれほど執拗に、われわれを捉えるのでしょうか?それは第一に、われわれが救われるために全力で、愚かさと奮闘するということをしていないため、第二に、われわれが賢者の探究に十分な信頼を置いておらず、開かれた心で彼らの言葉を受け入れていないためです。われわれはこの重大な問題に、あまりに矮小な精神で取り組んでいるのです。10. しかし、もし人が悪徳の傍らに残った時間しか学習に充てないというなら、どうして悪徳と奮闘するのに十分なだけの量を学ぶことができるでしょうか?われわれの誰も、深く探究することをしません。われわれは表面だけをすくい取り、多忙な人にとっては、英知の探究にはわずかな時間を費やすだけで十分だと考えます。11. 何より妨げとなるのは、われわれ自身が、あまりに容易に自分に満足してしまうということです。もしわれわれを立派な人物とか、聡明な人物とか、聖人とか呼ぶ人に出会ったら、われわれは自分のことを、その人の言う通りの人物だと見做します。適度な賞賛では物足りず、歯の浮くようなお世辞がわれわれに積み上げるもの全てを、あたかも当然のことのように受け取ります。われわれのことを人類の中で最も賢く、最も優れていると言い張る人に、われわれは同意します。たとえ彼が多くの嘘をつく人物だと知っていても。そしてわれわれは、或る行為についてそれとは正反対のことをしている時ですら、その行為について賞賛されたいと思うほど自分を甘やかします。あの人は拷問を加えている最中に自分は「最も優しい人物」だと、略奪に夢中になっているときに「最も懐が深い人物」だと、酔っ払って色欲に耽っている最中に「最も節度のある人物」だと、そう呼ばれることに耳を傾けます。したがって、われわれは自分が最も優れた人物であると信じているので、自分が改変されることを望まないのです。

 12. インドにまで侵攻したアレクサンドロス大王は、近隣にすら殆ど知られていなかった部族をも、荒らし回っていました。とある都市を包囲してる時に、城壁を偵察し、要塞の弱点を探していたところ、一本の矢により負傷しました。それでも彼は長い間包囲を続け、始めたことは完遂しようと考えていました。しかし、傷口が渇き、出血が止まると、彼の傷の痛みは増していきました。馬に跨っていると、彼の脚は徐々に麻痺してきて、そしてついには、撤退を余儀なくされ、次のように言いました。「全ての人が私をユピテルの息子だと言うが、この傷は私が死すべき人間であると叫んでいる!」13. われわれもこのようにしましょう。人はそれぞれ、人生における自分の立場に応じてへつらいに骨抜きにされます。われわれはおべっかを言う人物に、次のように言わねばなりません。「君は私を聡明な人物だと言うが、私は自分がいかに多くの無価値なものを、自分の害となるものを切望しているかを知っている。私は満腹が動物にすら教える、食べたり飲んだりするのに適切な量というものを知らない。どれだけ摂ったらいいかも分からない。」

 14. では、どうすれば自分が賢くないことを知ることができるかお教えしましょう。賢者は喜びに満ち、幸福で、穏やかで、不動です。彼は神々と同等に生きているのです。さて、自分自身に問いかけて下さい。もし君が決して悲嘆することなく、やがてくることを予期することによっても君の精神はいかなる不安にも悩まされず、昼も夜も君の精神が弛まずに同じ道を歩み、高潔で、自分自身に満足しているならば、君は人間の最高の善を所有しているのです。しかしもし君が、あらゆる方面にあらゆる種類の快楽を求めるならば、君には英知も喜びもないことを知らねばなりません。喜びは君が到達を望む目標ですが、もし君が富と高い地位の最中にあってそこに至ることを望むなら、君は道に迷うことになります。つまり、君が気苦労の中にあって喜びを求めるなら。あたかも幸福や喜びを与えてくれるもののように君が熱心に追い求めるこれらのものは、悲痛の原因に過ぎないのです。

 15. こうした人々はみな、喜びを求めてつき進むのですが、偉大で永続的な喜びがどこで得られるかを知らないと、僕は言いましょう。ある人は饗宴や放蕩の中にそれを求め、ある人は名誉や大勢の子分に囲まれることの中に求め、ある人は愛人の中に、ある人は無益な教養の見せびらかしや、何の力も持たない文学の中に求めます。こうした人々は皆、偽りの刹那的な快楽に欺かれているのです。たとえば酩酊は、一時の陽気な狂乱の代償に、何日もの病的な状態を生ぜしめますし、人々のもたらす拍手喝采や熱狂的な賞賛は、大きな不安を払わなければ、あるいは犠牲にしなければ、得られないのと同じです。

 16. ですから、英知の効用は、絶えることのない永続的な喜びであることを熟慮して下さい。賢者の精神は月のはるか上方の天空のようなもので、その領域は永久の静寂で満ちています。ですから、賢者が決して喜びを奪われることがないとすれば、賢者になることを望むのは当然のことです。この喜びは、自らの内に美徳を認めることによってのみ生じます。17. 勇敢で、公正で、自制心のある人だけが、喜びを感じることができます。そして君が、「どういう意味ですか?愚か者でも悪人でも、喜びを感じるのではないですか?」と尋ねるなら、それはライオンが獲物を捕まえた時に喜ぶようなものだ、とお答えしましょう。酒食と色欲で疲れ果てた時、道楽の最中に夜が明けた時、持ちこたえるにはちっぽけ過ぎる肉体に積み上げられた快楽が膿み始めた時、そうした時に、彼らは惨めな口調で次のウェルギリウスの言葉を言うのです、

汝は知っているか。いかに偽りの絢爛の喜びの中に、

われらが最後の夜を過ごしたかを。*8

 18. 快楽の愛好者達は毎晩、偽りのきらびやかな喜びの中で、まるでそれが最後の夜であるかのように過ごします。しかし、神々や、神々に従う者にもたらされる喜びは、損なわることも、絶えることもありません。外からもたらされるものならば、確実に終わりを迎えますが。他人に授けられるものではないので、他人の気まぐれに左右されることもありません。運命は、自分が与えなかったものを、奪うことはできないのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 59 - Wikisource, the free online library

・解説

 書簡23でも、「真の喜びとは、厳粛なものです。」と言っていた。快楽が決して幸福(喜び)でないというのは、セネカ哲学の一貫した主張である。とかく資本主義社会では快楽の追及こそが人生の目的であり他の何にも勝る重大事のように思われがちだが、そんな社会だからこそ、真の喜びを説くセネカの教えを大切にしたいものだ。

 

 

 

 

*1:原文は「voluptās」で意味は「喜び、楽しみ、満足」だが「性交」の意味もあり、快楽というニュアンスが近いか。

*2:法務官の布告が掲示された白い板。ここではストア派的な意味での布告の意味

*3:原文は「gaudium」で「喜び、楽しみ」の意味。辞書的には「快楽」というニュアンスはなかった。

*4:アエネイアス11.278

*5:比喩や直喩、つまり喩えを多く使う権利

*6:前1世紀のローマのストア派の哲学者。セネカの師であるファビアヌスの師。

*7:「縛り付けられる」から「染まりきる」に

*8:アエネイアス6.513~514