徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡42 真の意味で価値のあるものについて

 1. 君はかの友人に、彼が善き人物であるとすでに信じ込まされてしまったのでしょうか?しかし、人はすぐに善くなることも、善き人物として知られることもできません。僕が「善き人物」という時、どんな人物のことを意味してるかお分かりですか?君の友人のような人物は、第二級の意味です。というのも、第一級の人物は、おそらく不死鳥フェニックスのように、500年に一度しか現れないからです。偉大さが長い期間をおいてのみ発展するということも、驚くには及びません。運命はしばしば、大衆を喜ばせるために生み出されるありふれたものをもたらします。しかし、それが稀にしか見られないものである場合、運命は真に価値のあるものをわれわれに推賞します。

 2. しかし、君の話すこの人物は、そのような高みに到達したと公言するにはほど遠い状態にあります。もし彼が「善き人物」とはどんな意味かを知っていれば、自分自身をそうだとは見做さないでしょう。そしておそらく、自分が善き人物になれるかということに、絶望すらするでしょう。「しかし」君は言われる。「彼は悪い人物を悪いと考えています。」まあ、そんなことは悪い人物たち自身も思っています。そして、自分自身とその全ての仲間を気に食わないと思うこと以上に、悪徳に対する大きな罰はありません。3. 「しかし彼は、たまたま手に入れた大きな権力を乱用する者を非難しています。」彼が同じような権力を手にしたら、同じことをするでしょう。多くの人の場合、彼らが無力であるが故に、悪徳は隠れています。しかし、そのような人が持てあますほどの権力を手にすると、成功が既に明らかにしたのと同じ程度に、彼の悪徳は限度を知らないものになるでしょう。これらの人々は、彼らの邪悪さを明らかにするための手段を欠いていただけです。4. 同じように、寒さで動けない毒蛇にも、触ることはできますが、毒がなくなった訳ではなく、凍えて不活発になっただけです。多くの人々の場合、彼らの残忍さや野心、放蕩は、最悪なものになりうる犯罪を敢行させるほどの、運命の援助を欠いているというだけです。彼らの望みが同じ類のものであることは、次のようにすればすぐに分かるでしょう。即ち、彼らの望むままの力を、彼らに与えてみて下さい。

 5. ある人物*1が君の影響下にあると君が言っていた時、彼は気まぐれな渡り鳥で、君は彼の脚ではなく翼を掴んでいるに過ぎないと僕が言ったことを覚えていますか?僕は間違っていました。君は彼の羽を掴んでいるに過ぎませんでした。彼は君の手に羽毛を残して去りました。その後彼が君にどのようなことを演じて見せて、やがては彼自身に返ってくるようなことをどれだけ沢山企てたかご存じでしょう。彼は、他人を危険に晒すことで、自分自身が没落へと向かって転がっていることに気づきませんでした。彼は、たとえそれが不要なものではなかったとしても、自分が獲得したいと思っていたものがどれほどの重荷になるかよく考えることをしませんでした。

 6. したがって、われわれが追い求め、多大な努力を払って獲得せんとするものに関しては、次の真実に気づかねばなりません。すなわち、それらには望ましい所など何もなく、むしろ望ましくない所のほうが多いということです。ある部分は余計なものですし、別の部分はわれわれが求めるに値しません。しかしわれわれはこのことをしっかり理解せず、われわれに高くつくものを、無料のものだと思っています。7. われわれの愚かさは次の事実から明らかになります。すなわち、われわれは「買う」とは金銭を支払って物を買うことだと考えていますが、まさにわれわれ自身を売り渡す必要があるものは、無料と考えていることです*2。もしわれわれが、家や、人気で収穫が豊かな土地を支払いにあてないといけないなら購入を控えるようなものであっても、不安や危険を伴い、信頼や、個人の自由と時間を犠牲にしてでも、われわれはそれらを得ることを切望します。ですから、誰も自分自身より安いものはないと思っているのは真実なのです*3

 8. それゆえわれわれは、あらゆる計画や行動において、商品を売り出している行商人に近づくときにわれわれがいつもしているように振る舞いましょう。すなわち、われわれが求めるものが、どれだけの支払いに値するかを見極めるのです。費用がかからないものが、最もわれわれに高くつくということがしばしばあります。それを追い求め、獲得することでわれわれの手から自由を奪った多くのものを君に示すことができます。これらのものがわれわれのものでありさえしなければ、われわれは自分自身のものだったでしょう。

 9. ですから、僕は君が、何かを獲得する時だけでなく、何かを損失する時にも、このように考えて欲しいと思います。「これらのものは必ず滅び去る。」本当に、それらは単なる余計なものでした。それらがなくとも、今まで容易に生きてこられたのと同じように、生きていくことはできます。君が長い間所有していたなら、君はそれに満足した後に失うことになります。君がそれを所有して間もないなら、君はそれに執着する前に失うことになります。「金銭が少なくなるでしょう。」ええ、厄介事も少なくなるでしょう。「他者への影響力も少なくなるでしょう。」ええ、そして妬まれることも少なくなるでしょう。10. 君の周りを見回して、われわれを狂気に駆り立てるものに注意して下さい。われわれはそれらを失う時に洪水のように涙を流しますが、こうした事柄に関してわれわれを害するのは、損失そのものではなく損失への概念であることがお分かりになるでしょう*4。損失を実際に感じる人など誰もいません。ただ心の中で、損失を思い描くだけです。自分自身を所有する者は、何も失うことがありません。しかし、自己に所有権を認めることのできる人は、何と少ないことでしょう!お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 42 - Wikisource, the free online library

・解説

 われわれは物事の価値を正しく見極めることを知らないということ。「人生の短さについて」で「時間」を「自己」と置き換えて読むと、本書簡の内容がよりしっくり理解できると思う。

 

 

 

 

*1:おそらくはルキリウスが目をかけて立派な人物にしようとしていた人か

*2:「自分の金銭を他人に分け与えようとする者など、どこを探しても見あたらない。なのに、だれもかれもが、なんとたくさんの人たちに、自分の人生を分け与えてしまうことか。ひとは、自分の財産を管理するときには倹約家だ。ところが、時間を使うときになると、とたんに浪費家に変貌してしまうーーけちであることをほめてもらえるのは、唯一このときだけだというのに。」人生の短さについて3.1

*3:「わたしはいつも驚いて見ているのだが、だれかが時間をくださいとお願いすると、求められたほうは、いとも簡単に与えてしまう。どちらも、時間が求められた理由は気にするくせに、時間そのもののことは気にしない。時間は、どうでもいいもののように求められ、どうでもいいもののように与えられる。あらゆるものの中で最も高価なものを、もてあそんでいるのだ。彼らがそんな間違いを犯すのは、時間が形を持たず、目に見えないからだ。だから、時間はとても安く見積もられている。いな、それどころか、ほぼ無価値なものとされているのだ。」人生の短さについて8.1

*4:事実そのものではなく事実に対して抱くわれわれの考えが苦痛の原因であるという、ストア派の基本的な思想