徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡41 われわれの内なる神について

 1. 君が手紙に書いてくれたように、君が健全な理解に向かって努力しているのなら、君は君自身のためになる素晴らしいことをしているということです。その理解は君の手で得られるのですから、それを祈るのは馬鹿げたことです。天に向かって両手を上げたり、願いがもっとよく聞き届けられるようにと、神殿管理人に頼み込んで神像の耳の近くに寄らせて貰う必要もありません。神は君の近くに、君と共に、君の中にいます。2. 僕が言いたいのは次のことです、ルキリウス君。聖なる魂がわれわれの内に宿り、われわれの善行と悪行を見張り、監督者となります。われわれが精神をそのようなものと見做せば、そうした精神もわれわれを聖なるものと見做します。じっさい、神の助けなしに、誰も善き人になることはできません。神に引き上げられることなしに、誰が偶然を越えて立ち上がることができるでしょうか?高潔で誠実な忠告を与えてくれるのはまさに神です。どんな善き人の内にも、

神が宿っている。その名は知らねども。*1

 3. もし君が、古い木々が生い茂り並々ならぬ高さまで成長して、複雑に組み合わさり絡み合った枝の覆いで空が見えなくなるような森の中に立ってみれば、森の高さそのもの、人里離れた状態、虚空にあって途切れることのない深い暗闇への驚嘆が、君に神の存在を示すことでしょう。あるいは、岩が奥深くまで崩れてできた洞窟が、そのへりで上にある山を支えており、そのような場所が人の手によって作られるのではなく、自然の原因によってそれほどの広大な空間がくり抜かれたのだとしたら、君の魂は神の存在を確信させるものに深くゆり動かされるでしょう。われわれは大河の水源を崇めます。隠れた水源から突如として巨大な水流が湧き出る場所に祭壇を建てます。われわれは温泉の湧く場所を神聖なものとして崇拝し、ある湖に、その水の暗さや計り知れない深さのために奉献します。4. 危険のただ中にあっても恐れることなく、欲望に惑わされず、逆境にあっても幸福で、嵐の中にあっても平静を保ち、より高い所から人々を見下ろし、同じ立ち位置から神々を眺める人を目にすれば、君はそうした人物に対する畏敬の念に包まれませんか?君は次のように言うのではないでしょうか。「こうした資質は、このちっぽけな肉体にそれに似たものが宿っていると見做すには、あまりに偉大で、崇高すぎるだろうか?神聖な力が彼を通じて顕現したのだ。」5. 魂が他の魂よりも高い所に立ち、正しく制御され、あらゆる出来事を些細なこととして経験し、われわれの恐れや祈りをあざ笑う時、そうした力は天によって与えられます。こうしたことは神によって支えられない限り、不可能なことです。したがって、神の力の大部分は、それが地上に顕現したその場所*2に留まるのです。太陽の光が実際に地上に届いてもその源は変わらないように、われわれが神性をより身近なものとして知ることができるようにとわれわれに下った偉大で崇高な魂は、われわれと固く結びついてはいても、今なおその始源にあり、魂はその源に依り、そこに目線を据えそこに向かって奮闘し、自分自身をより優れたものにしようとすることにおいてのみ、自分自身に関心を持っています。

 6. では、そのような魂とはどんなものでしょうか?外的な力によらずに、それ自身で輝くものです。人の中にある資質のうち、外からくるものを賞賛するほど愚かなことがあるでしょうか?そして、直ぐに別の誰かに受け渡されるような性質のものに驚嘆するほど狂ったことがあるでしょうか?手綱を黄金にしても、馬はよくなりません。たてがみを金に染めたライオンは、訓練を受け、装飾を我慢し疲れはてることを強いられる内に、精神が懐柔されていない野生のライオンとは全く違った風に、闘技場へ送られることになります。実際、後者のライオンは、自然が彼に命じるままに、勇猛に攻撃し、その獰猛さを人々に印象付け―—誰も恐怖なしに見ることができないのが、彼らにとっての栄光です―—、無気力で怠惰な獣となった前者のライオンよりも、優れたものとして好まれます。

 7. 誰も自分自身のもの以外を誇るべきではありません。われわれがぶどうの木を称賛するのは、その実を沢山実らせ、その実の重さで枝が地面の近くまで曲がるような時です。黄金のぶどうと黄金の葉がついているからという理由で、ぶどうの木を喜ぶ人があるでしょうか?ぶどうの木に特有の美徳とは、豊潤に実ることです。人においても、われわれはその人自身のものを称賛すべきです。ある人が器量のよい奴隷の付き添い人と、美しい家と、広大な農場と、莫大な収入を持っているとします。これらの内のどれも、その人自身のものではなく、全て外側にあるものです。8. 与えたり奪ったりすることのできない資質、つまりその人に特有の資質を称えて下さい。それは何かとお尋ねですか?それは魂であり、その魂の中で完全なものとなった理性です。人は理性的な存在ですから。したがって、人が生まれた時に自然が授けた善を完全なものとしたならば、人間は最高善を達成したことになります。9. そして、この理性が人に求めるものとは何でしょう?それはこの世界において最も容易なこと―—彼自身の自然本性に即して生きることです。しかし、これは人間に当たり前に見られる狂気によって、困難なものとなっています。われわれは互いを悪徳の中へと押しやっています。そして、人々を制止するものが何もなく、悪徳へと自らを駆り立てているのに、どうして救われることができるでしょうか?お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 41 - Wikisource, the free online library

・解説

 「われわれの内にこそ神がいる」という部分は非常にキリスト教的で、キリスト教がローマ人に受け入れられていった背景には、確実にセネカのこうした思想が下地にあったと思う。また、人は神を宿し、その始原に向かっているという考えも、非常にキリスト教的・スピリチュアル的な思想で、それもかなりの確信を持ってセネカは語っている。セネカは哲学においても自然科学においても優れた思想家でありながら、神を敬うことを決して疎かにしなし。それでいて無責任な神頼みや占いに頼るといった非科学的なこともしない、キリスト教徒よりもキリスト教的で、下手なスピリチュアルよりも正しいスピリチュアルな精神を持っている、真の意味で優れた哲学者なのである。

 

 

 

*1:「アエネイアス」8.352

*2:われわれの内