徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡31 セイレーンの歌声について

 1. 今や僕は君を認めています、親愛なるルキリウス君。君はかつて約束していた人物になりつつあります。大衆が賞賛するものを足元に踏みつけ、最善を尽くすよう促す君の衝動に従って下さい。僕は君がかつて計画していた以上に、立派にも豊かになることも望みません。君の場合は既に、基盤の大部分が地面を覆っているのですから。設計していたものを全て完成させ、君が心に描いていた理想を手に入れて下さい。2. 要するに、君は耳を塞げば賢者になれます*1。蝋をつめるだけでは不十分です。オデュッセウスが仲間に使ったと言われているものよりも、もっと強い栓が必要です*2。彼らが恐れていた歌はとても魅惑的でしたが、至る所で聞こえてきた訳ではありませんでした。ですが、君が恐れなければならない歌は、ただ一つの岩礁からではなく、世界中のあらゆる場所から君の周りに鳴り響きます。したがって君は、危険な快楽のために君が用心する一地域だけでなく、あらゆる都市を通って航海せねばなりません。君を一番に愛する人達には耳を塞いで下さい。彼らは善意のつもりで、君にとって悪いことを祈ります。そして、幸福になりたいのであれば、君に対する彼らの好意的な願望が決して実現しないよう、神々に祈って下さい。3. 彼らが君の上に積み上げようとしているものは、本当の善いものではありません。幸福な生の要因となり支柱となる善はただ一つ―—自分自身への信頼です。しかしこれに到達するには、労苦を軽蔑し、善でも悪でもないものと見做さねばなりません*3。というのも、一つのことが、ある時は善く、ある時は悪い、ある時は軽微で耐えられるが、ある時は恐怖の原因になる、ということはあり得ないからです。4. 労苦は善ではありません。では、何が善なのでしょう?労苦を軽視することだと、僕は言います。そうであるからこそ、無益な労苦に携わる者を、僕は非難せねばなりません。その一方で、ある人物が立派なことに向けて奮闘している時には、その人が自分をますます奮い立たせ、打ちひしがれたり立ち止まったりすることがなくなるにつれて、僕は彼の行動に賞賛を叫び、次のように言います。「君の方がはるかに優れている!立ち上がり、息を吸い込み、できれば一駆けで、あの丘を乗り越えよ!」

 5. 労苦は高貴な精神の糧になり得ます。ですから、君の両親の古い誓願に沿って、君の元にどんな幸運が訪れることを願うか、何を祈るべきかなどの選択に迷う必要はありません。その上、最高の地位を歩んできた人が、まだ神々にしつこくねだるのは見苦しいものです。こうした祈りが必要でしょうか?君自身の力で、君を幸福にして下さい。それは可能なことです。美徳の混ざったものは全て善であり、悪徳の結びついたものは全て悪であることを理解すれば。光の存在なしに輝くものは何もなく、闇を抱えるか、何か薄暗いものを自分自身に引き付けるのでなければ何も黒くはないように、火の助けなしには何も熱くはなく、風の助けなしには何も冷たくはありません。したがって、あることを立派あるいは卑劣なものにするのは、美徳と悪徳との関りです。

 6. それでは善とは何でしょう?物事を知っていることです。悪とはなんでしょう?物事に無知なことです。かの賢者——(人生の)名匠でもあるその人——は、状況に応じて、様々なことを拒絶または選択します。しかし、屈強で打ち負かされない魂があれば、拒絶するものを恐れたり、選択するものを賛美したりすることはありません。僕は君が意気消沈したり打ちのめされることを禁じます。労苦にひるまない程度では十分ではありません。自ら進んでそれを求めて下さい。7. 「しかし」君は言われる。「それは些細で余計な仕事、見栄えの悪い動機のために求められる、避けるべき類の労苦ではないのですか?」いいえ、それは高貴な目的のために費やされる努力と変わりありません。なぜなら、労苦に耐え、厳しく困難な努力に自らを奮い立たせることこそ優れた精神の資質であり、それは次のように言います。「なぜ弛んでいるのだ?汗を恐れるのは男子にふさわしくない。」8. そしてこれに加えて、美徳が完全であるためには、均整の取れた気質を保ち、人生において調和した目的を持たねばなりません。そして、こうした成果には、物事への知識、人間的なことと、神的なことの理解を可能にする学問*4なしには到達できません。それこそが最高善です。もしこの善を掴むことができたら、君は神々に縋る者ではなく、神々の仲間になり始めます。

 9. 「しかし」君は言われる。「どうやってそこに達するのですか?」ポエニーウスやグライウス*5の丘陵を越えたり、カンダーヴィアの荒野*6を横断したり、シュルティス*7やスキュッラやカリュブディスを通る必要はありません。君はささいな地方官職の見返りに、これら全ての場所を通りはしましたが。自然が君のために用意してくれた旅は、安全で楽しいものです。自然は君にそのような贈り物をしてくれたので、君がそれを捨て置かなければ、君は神と同等になれるでしょう。10. しかし、金銭は、君を神と同等にはしません。神は財産を持ちませんから。君の高官服もそうです。神は何も着ませんから。また、君の評判も、君が自分を顕示することも、君の名が世に広く知れ渡ることも同様です。誰も神について知らず、多くの人は神を低く見ていますが、そのせいで苦しむこともありませんから。街の大通りや異国の地で君の駕籠を担ぐ奴隷の群れも、君を運んではくれません。僕が言うところの神は、至高にして最高の権威を持つ存在でありながら、全てを自分の肩に担いで運んで下さります。美しさや強さも、君に祝福をもたらすものではありません。そうしたものはどれも、老年には抗えないからです。

 11. ですから、われわれが探し求めるべきものは、日々ますます抗えぬ力の支配下に置かれていくようなものではありません。では、それは何でしょう?魂——それも、誠実で、善良で、偉大な魂です。そのような魂を、人間の肉体に宿る神と呼ぶ以外に、何と呼べばいいでしょう?このような魂は、ローマの騎士にも、解放奴隷にも、奴隷にも同じように下ります。そもそも、ローマの騎士とか、解放奴隷とか、奴隷とは何でしょう?それらは名誉欲や侮蔑から生まれた、ただの名前です。貧民街からでも、天に飛び上がることはできます。ただ立ち上がり、

そして君自身を、

神々に近しいものに作り上げよ*8

 しかしこれは、金や銀によって作り上げられるのではありません。神に似た像は、そのような材料で作ることはできません。人々に恵み深かった頃、神々は粘土で作られていたことを思い出して下さい*9。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 31 - Wikisource, the free online library

・解説

 簡単にいうと、金や名誉といった世俗的な快楽を目的として無益なこと携わるのではなく、キツくても立派な目的(哲学)の為の善の労苦(努力)を行え、ということ。この書簡での労苦は、専ら後者の意味で使われている。哲学のための苦労は、いいものだとセネカは言っているのだ。

 書簡の最後のほうにある、「そもそも、ローマの騎士とか、解放奴隷とか、奴隷とは何でしょう?それらは名誉欲や侮蔑から生まれた、ただの名前です。」というフレーズは、僕がセネカの言葉の中で最も好きなものの一つである。この時代にあって、魂の高貴さに社会的な身分が関係ないことを、宗教なしに理性と哲学で認識していた人がいたということは、本当の意味で素晴らしいことなのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

*1:世俗的な成功には早く見切りをつけろ、という意味

*2:オデュッセウスはセイレーンの住処の近くを通る時、部下の耳に蝋を詰め、自身を帆に縛り付けさせることでその歌声から逃れた

*3:ここでの労苦は哲学に従事するために必要な苦労の意味。死と同様、労苦はそれ自体は善でも悪でもない中間的なもので、それに関わる心の在り方が、それを善にも悪にもする、という思想。哲学に邁進するための、善い苦労をしろ、という意味。セネカの哲学の中で今後も頻繁に登場する。ストア派の概念では、ギリシャ語のアディアポラ〔ἀδιάφορα〕…無関心なもの、という言葉で用いられる。

*4:哲学

*5:いずれもアルプスの地名

*6:アドリア海東岸の山岳地帯。内乱時にはポンペイウスの軍が超えた

*7:アフリカ北岸の大砂州で船の難所

*8:アエネイアス8.364~365。書簡18にも登場

*9:いわゆるギリシャ神話の「黄金時代」。クロノスが神々を支配していた