徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡80 世の中の欺瞞について

 1. 今日僕は、自分自身のおかげというよりは、全てのうるさい人々を惹きつける拳闘競技*1の試合のお陰で、ゆったりと過ごしています。誰も僕を邪魔したり、思索の流れを阻む者はありません。僕の思索はその自信のゆえ、より大胆に進んでいるのです。戸が開く音がすることもなければ、カーテンが引きあけられることもありません。僕の思索は安全に歩むことができます。そしてそれは、独りで立って、自らの道を行く者にはいっそう必要なことです。それでは僕は、先駆者たちの後を追わないのでしょうか?いいえ、追います。しかし僕は何か新しい発見をしたり、変更したり、拒んだりすることを自分自身に許可します。僕は彼らに賛同することはあっても、奴隷にはなりません。

 2. とはいえ僕は、自分自身に、静かで妨害されることのない閑暇な状態を過ごすと言ったのですから、大胆なことを言ってしまいました。というのも、ほら、競技場から大歓声が聞こえてきても気が散ることはありませんが、この騒音が示唆する対象に、僕の思考は移されるからです。僕は自分で問いを立てます―—肉体を鍛えている人は多いのに、精神を鍛えている人は何と少ないのか!と。どれほどの大衆が、単に娯楽のために用意された、見せかけだけの競技に群がるのか!そして優れた学芸が教えられる場は、どれほどの寂しさが支配していることか!われわれが賞賛する筋肉と肩を持つ競技選手は、なんと薄弱な精神を持っていることか!3. 僕が最もよく考える問題は、次のようなものです。もし肉体を、同時に何人もの殴りや蹴りに耐えられるほどに、あるいは熱された砂塵の中で灼熱の太陽に耐え忍び、血まみれになりながら一日を過ごせるほどに、鍛えることが出来るというならば、精神はどれほど容易に強靭にすることができ、運命の打撃を受けても打ち負かされず、投げ飛ばされたり低く踏みつけられることがあっても、再び立ち上がることができるでしょう*2

 というのも、肉体を強くするには多くのものが必要ですが、精神は自己の内から成長し、自分で自分に栄養を与え、自分で自分を鍛錬します。かの拳闘競技者たちには、沢山の食事、多量の飲み物、多量の油、そして沢山の訓練が必要です。しかし、美徳を獲得するためには、設備も費用も必要ありません。君を善くするための全ては、君自身の中にあります。4. そして君が善くなるために必要なことは何でしょう?それは、善を望むことです。しかし、この奴隷状態——つまり、われわれ全員を抑圧し、最下層の地位に生まれた人々ですらあらゆる手段で取り去ろうと努める奴隷状態——から抜け出す以上の、善いことを望むことができるでしょうか?彼らは空腹に耐えてかき集めた貯蓄を支払って、自由を買い取ります*3。君は、自由を生得の権利として主張しているのに、どんな大金を支払っても、(真の)自由を得たいとは望まないのですか*45. どうして金庫に目を向けているのですか?自由は買うことはできません。帳簿に「自由」と記入しても無意味です。自由はそれを買った人も売った人も、所有することはできません。君はこの自由という善を自分自身に与え、自分自身に求めねばなりません。

 まず第一に、死の恐怖から自分自身を自由にして下さい。死はわれわれの頭に軛を課しているからです。次に、貧乏の恐怖から自由になって下さい。6. 貧乏の中には悪がどれほど少ないかを知りたければ、貧乏な人の顔と金持ちの顔を比べてみて下さい。貧乏な人はより頻繁に、心から笑顔でいます。彼らに深刻な悩みはありません。たとえどんな不安が襲いかかろうと、一時の雲のように通り過ぎます。しかし、人々には幸福だと言われる金持ちの陽気さは見せかけだけのもので、彼らの悲しみは深刻で化膿しており、時にはその悲しみを表に出すことも許されず、自己の心臓をも蝕む悲惨の中にあって幸福を演じなければならないため、さらに深刻なものになります。7. 僕はよく次の例えを用いる必要を感じるのですが、それは、われわれがこれほどの不幸を演じる役割を与えられている人生の演劇を、これ以上に上手く表現している例はないと思えるからです。そこには、尊大な態度で頭を後ろに逸らして、舞台の上を闊歩し、このように語る人物がいます。

見よ、私はアルゴス*5に主として歓迎される者であり、

ペロプス王より広大な土地を相続した者であり、

そこはヘレスポントゥス*6イオニア海から、

イストミア海峡*7にまで及ぶ*8

そして、この(演じている)人物は誰でしょう?彼はただの奴隷です。彼の報酬は、五モディウス*9穀物と、五デーナーリウス銀貨です。8. また、傲慢で横柄で、自己の権力に自信を持って思い上がっている彼*10は、こう言います。

静かにしろメネラオス

さもないとこの手でお前を殺すぞ!

彼はわずかな日銭を受け取り、ボロ切れの上で寝るのです。駕籠に乗って人々や群衆の頭上を行くだて男たちについても、同じことが言えます。どんな場合でも、彼らの幸福は役者が被る仮面のようなものです。それが剝がれれば、君は彼等を軽蔑するでしょう。

 9. 馬を買う時、君は覆う布を取り去るよう命じるでしょう。売られている奴隷の衣服を脱がせるのは、身体の欠陥を見逃さないようにするためです。君が人を評価する時、何かを装っている人を評価するでしょうか?奴隷商人は、買い手の気分を害するような可能性のある欠陥を衣服で隠そうとしますが、まさにそのこと自体が、購入者に疑念を抱かせます。布が巻き付けられた腕や脚を見ると、それを取り除いて、そのままの身体を見せることを求めます。10. かのスキタイ*11やサルマティア*12の王が、頭にその官職を示す飾りをしてるのが見えますでしょうか?彼らを評価し、彼らの真価を全て知りたいのであれば、頭上の飾りを外してみて下さい。その下には多くの悪徳が潜んでいます。しかし、なぜ他人について話しているのでしょう?もし君自身の真価を見定めたいのであれば、金銭も家も名声も捨てて、自分自身の魂を見つめてみて下さい。現在君は、君についての他人の評価をそのまま受け入れてしまっています。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 80 - Wikisource, the free online library

・解説

 人間に真価は魂にあるということ。金銭や地位や肉体に関するセネカの評価は、相変わらず手厳しい。

 ここまででセネカ哲学全集の5巻、つまり全体の半分です。後半6巻の書簡は、より内面の話が増えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:原文は「sphaeromachia」で、革袋に入った鉄球を使う拳闘の一種(メリケンサックのイメージ)。古代ローマでは剣闘競技に次ぐ人気の見世物だった。

*2:肉体をそのように無駄に鍛えるくらいなら、精神を鍛えることはどんなに容易か?という意味。

*3:奴隷に生まれた人が、自由民となるために空腹に耐えてお金を貯めるということ

*4:奴隷ですら空腹に耐ええて貯めた金銭で自由を買い取るのに、生まれつき自由人の君は、なぜ金への執着を捨てて自由を得ようとしないのだ?という意味

*5:ペロポネソスにあったアルゴリスの首都

*6:ダーダネルス海峡

*7:コリントス海峡

*8:前180~85年頃のローマの詩人アッキウスの、「アトレウス」の一節とされる。アトレウスはギシリャ神話におけるペロプスの子でミュケナイ王。アガメムノンとメネラオスの父。

*9:一モディウスは、約8.7リットル。

*10:同じく演じている人物。役として。

*11:黒海北岸の騎馬民族の国。

*12:現在のロシア東部にいたスラブ族