徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡72 哲学の敵としての実務について

 1. 君が僕にお尋ねの問題は、以前は僕にとっては明確なことで、深く考える必要はなく、僕は全くそれに通じていました。ですが、しばらく僕はその記憶を試していないので、すぐに思い出すことはできませんでした。僕は、長く開かれなかったため中がくっついてしまった本のような気持ちでした。僕の心も開かれる必要があり、そこに保管されているものは全て、必要な時はすぐに使えるよう、時おり点検されねばなりません。ですから、この問題は当面の間延期しましょう。それは多大な注意と労力を必要としますから。同じ所に長く滞在することが望めるようであれば、すぐにこの質問について答えさせて頂きましょう。2. というのも、馬車で移動中に取り組める問題もあれば、勉強椅子や、静かで人里離れた場所が必要な問題もありますから。しかし、このような日々の中でも、成し遂げなければならないことはあります―—それも朝から晩までこき使われる、本当に忙しい日にも。新しい雑務が舞い込んでこない瞬間は一時もありませんから。われわれが種をまくと、そこから沢山の仕事の芽が湧き出ます。そしてわれわれは、自分自身への訴状*1を延期し続け、こう言います。「この仕事が終わればすぐに、私は大切なこと*2に懸命に取り組むつもりだ。」または、「この厄介な問題が片付いたら、私はすぐに勉学に没頭するつもりだ。」

 3. しかし哲学の勉強は、暇ができるまで先延ばしにしてよいものではありません。哲学に専念するために、他の全てのことを軽視すべきです。たとえ少年時代から、人間に与えられた寿命の限界までわれわれの人生が延長されても、哲学にかける時間は多すぎることはありません。哲学の勉強を完全に放棄するか、それとも中断するかに、大した違いはありません。連続性が途切れてしまうので、中断したままの状態で留まることなく、あたかも強く張られたものが切られた時に跳ねるように、元の場所に戻ってしまうからです。われわれは、時間を奪う物事に抵抗せねばなりません。解きほぐすのではなく、払い除けるべきです。じっさい、有益な勉強に不向きな時間というものはありません。しかし、まさにその状況が勉強を必要とする中にあっても、多くの人は勉強を怠っています。4. 彼は言います。「何か私を邪魔することが起こるだろう。」いいえ、仕事が何であろうと、精神が快活で機敏な人の場合は、そんなことはありません。快活が打ち砕かれる可能性があるのは、まだ完全に達していない人たちです。一方、賢者の喜びはしっかり編み込まれた織物であり、偶然の出来事や運命の変化によって引き裂かれることはありません。何時でも、何処でも、彼は平穏です。なぜなら、彼の喜びは外部に何も依存しておらず、他者や運命からの恩恵を待ち望んでいないからです。彼の幸福は、彼自身の内にあります。もしそれが外から入るものならば、彼の魂を離れて出て行くこともあったでしょう。彼の喜びは、彼の魂から生まれるのです。5. 時おり外部の出来事が、賢者に死すべき運命を思い出させることがありますが、それは軽いもので、皮膚の表面をかすめる程度に過ぎません。繰り返しますが、風の一吹きのような何らかの問題が彼に影響を与えることがあっても、彼の最高善は揺らぐことはありません。僕が言いたいのは次のことです。たとえば吹き出ものやおできのように、通常は健康な体に生じる表面的な欠陥がありますが、それらは深く根を張った病気ではありません。6. 僕が思うに、完全な英知を持つ人と、英知への進歩の途上にある人との違いは、健康な人と、長引いた重篤な病気からの回復の途中にある人との違いと同じで、後者にとって「健康」とは、病気の発作が軽いことのみを意味します。彼は気を付けないと、すぐに病気が再発して、以前と同じことに苦しめられます。しかし賢者は逆戻りすることも、より深刻な病にかかることも決してありません。というのも、肉体の健康は一時的なものであり、たとえそれを回復させた医師であっても、その後も健康であることを保証することはできません。それどころか、以前に呼ばれたのと同じ患者を診察するために、しばしば寝台*3から呼び起こされます。しかし心は、一度治療が成功したら、永遠に健康であり続けます。

 7. 僕のいう健康とはどういう意味かをお教えしましょう。もし心が自分自身に満足し、自分自身を信頼し、人が願うあらゆること、求められ、与えられるあらゆる恩恵は、幸福な人生において何ら重要ではないことを理解するならば、そのような状態を健康というのです。なぜなら、付け加えることができるものは不完全ですし、何か損失を被る可能性のあるものは永続きしませんから。しかし、幸福を永続させたい人は、真に自分自身のものを喜ぶべきです。さて、群衆が口を開けて欲しがるあらゆるものは、不安定で、移ろいやすいものです。幸運はわれわれが本当の意味で所有できるものを、何一つ与えてはくれません。しかし、これらの幸運の贈り物でさえ、理性によって制御され、われわれの求めに応じて調整されると、われわれを喜ばせることができます。余りに貪欲に求めれば、用いるのも不快になる外的な幸福ですら、理性はわれわれが受け入れられるものにするのです*48. アッタロス*5はよく次のようなたとえを使っていました。「君は犬が、飼い主が放り投げたパンの一切れや肉の一かけらに、大きく開いた口で食いつくのを目にしたことがあるだろう?その犬は咥えたものを何でも丸呑みにし、さらに何かを期待して、ずっと口を開けている。われわれもこれと同じだ。われわれは期待のもと、幸運がわれわれに投げ与えるものなら、本当の喜びを与えてくれなくても、何にでもすぐ飛び掛かり、さらに別のものが得られないかと、必死に血眼になって立っている。」しかしこれは、賢者には当てはまりません。彼は満ち足りています。たとえ何かが降りかかっても、彼は大して気にも止めず受け取り、脇へ置いておくだけです。彼が楽しむ喜びはこの上なく偉大で、永続する、彼自身のものです。9. ある人が善き意志を持っており、進歩はしていますが、まだ高みには程遠いとしましょう。その結果、交互に続く浮き沈みが生じ、ある時は天に引き上げられたり、ある時は地に突き落とされたりします。経験や訓練が不足してる人にとって、後退には下限がありません。そのような者たちは、エピクロスの言う混沌——空虚で無限の―—に陥るのです。10. 第三の種類の人たちもいます。彼らはまだ英知と戯れる程度の人びとで、まだ実際に英知に触れてはいませんが、視界には入っており、言うなれば英知の射程距離にはある者たちです。彼らは進歩することはありませんが、退歩することもありません*6。ですが、陸地にはおらず、すでに港に入ってはいます。

 11. ですから、高所にいる者と低所にいる者には大きな違いがあり、また、中間の者もその状態に特有の浮き沈みに振り回され、さらにより低位に退歩するという大きな危険に追われていることを考えれば、われわれは自分の時間を奪う事柄に、身を預けていいわけはありません。それらは締め出されるべきです。それらはもし一度入り口を見つけると、他の仕事をも引き連れてくるでしょう。最初のうちから、それらに抵抗しましょう。途中で止めるよりも、最初から始めさせないほうがよいのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 72 - Wikisource, the free online library

・解説

 最近職場で仕事(それも9割はどうでもいい下らない仕事)を押し付けられることが多く、ストレスを感じることが多かったから余計にこの書簡が刺さった。この翻訳の作業にも支障が出ないかと心配していたところだが、セネカは「他の全てを無視しても哲学に専念」しろ、と言っているし、実際訳していたら仕事の嫌なことも忘れる、どころか楽しい気持ちになってくる。それほど哲学とは人間にとって大切で、切実な存在なのだろう。教育現場でも職場でも、偉そうな人生訓や哲学もどきを語る輩が多いが、彼らのどれだけが、真の意味での「哲学」を知っているのだろう?セネカがこれだけ知名度の低い国で語られる人生訓とは、地獄のそれと言って何ら差し支えないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

*1:閑暇に過ごすべきだという自分自身への約束

*2:哲学

*3:医者が自分が寝ている

*4:金銭や権力を度を過ぎて求めると、結局本人ですらそれらに嫌悪感を抱くようになるか、理性はそんなものすら有用にするということ

*5:ティベリウス帝時代のストア派の哲学者にして、セネカの師。書簡9,書簡63参照

*6:退歩するほども進んでいない