徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡118 高い地位を求めることの虚しさについて

 1. 君は僕に、もっと頻繁に手紙を書くよう求めています。しかし収支を比較すると、君はまだ借りている側です。確か君の側が先で、君が手紙を書いて、それに僕がお返事をするという約束を結んでいたはずです。とはいえ別に僕はかまいません。君は信用して大丈夫だと僕は知っていますから、前払いをすることにしましょう。もっとも、かの雄弁なキケローがアッティクスに命じたようなことは求めません。「書くことがなくても、思いついたことを何でも書きたまえ*1。」2. というのも、キケローが手紙に添えたあらゆる類の知らせを省いたところで、僕は書くに事欠くことはありませんから。どの候補者が苦戦しているだとか、誰が他人の威を借りて、誰が自分自身の力で戦っているだとか、執政官の選挙において誰がカエサルを頼り、誰がポンペイウスを頼り、誰が自分の金庫を頼っているだとか、あるいは高利貸しのカエキリウス*2はいかに無慈悲で、たとえ彼の友人であっても、月に一分以下の利息では、びた一文も借りることはできない、だとかいった〔どうでもいい〕知らせです。

 他人の事情よりも自分の事情を気にかけましょう。自分自身を品定めし、自分がいかに多くの空虚な事柄の立候補者になっているかを自覚して、票など求めないようにしましょう。3. ルキリウス君、これは立派なことであり、安心でき、自由のあることです。〔どうでもいいことに〕立候補などせず、運命が主催するあらゆる選挙活動を無視することです。何と楽しいことでしょうか、居住区ごとに人が集められて、候補者たちが壇上に上がり、ある者は金銭の贈答を約束し、ある者は代理人を通じて交渉し、ある者はもし当選したら手に触れさせることすらしないだろう人々の手に、くり返し接吻をし、誰もが伝令官の〔選挙結果の発表の〕通知を、やきもきしながら待ち受けている時に、何を買うことも売ることもなく*3、のんびりと立ち止まって、この競り市場を眺めていることは。4. そして何と大きな喜びでしょうか、法務官や執政官の選出のみならず、ある者が年毎の顕職を、ある者が永続の権力を、ある者が戦勝の勝利とその戦利品を、ある者が富を、ある者が結婚と子孫を、ある者が自分自身と親族の繁栄を求めているのを、平然と眺めることは!何も求めず、誰にも嘆願することなく、次のように言うことは、なんと偉大な魂の為せる業でしょうか。「運命よ、私はあなたとは何の関わりもない。私が仕えるべきはあなたではない。カトーのような人物があなたには拒否され、ウァティーニウス*4のような人物があなたによって作られることを私は知っている。私はあなたに、何も請い求めない。」これが運命を、その高い地位から引きずり降ろす方法です。

 5. ですからわれわれは、こうしたことを互いに手紙に書くようにしましょう。そして、こうしたことは常に〔お手紙の〕新鮮な題材であり、これによりわれわれは、あの落ち着きのない多くの連中の様子を見て取ることができます。彼らは何かを得ようとして悪徳から悪徳へと奮闘し、すぐに逃げ去るか、そうでなくてもすぐに嫌気が差すものを求めるのです。6. というのも、願っている時には大きく見えていたものでも、それを得た後で、満足した人がいるでしょうか?幸福とは、多くの人が考えるように求めるに値するものではなく、取るに足らぬものです。それゆえ幸福は、決して人の貪欲を満足させることはできません。君は自分が望んでいるものが遥かな高みにあると信じています。それは君が遠く離れたところに立っているからですが、そこに到達した人から見れば、大したことはありません。その人がさらに高く登ろうとしていないと言えば、それは嘘になります。君が頂上と思っているものでも、一つの段階に過ぎませんから。7. そして全ての人は、真実への無知ゆえに苦しんでいます。普通一般に言われることに騙されて、あたかもそれが善であるかのように思ってそこにつき進み、そして、願いを果たした結果多くの苦しみを味わった後で、それが悪であり空虚なものであり、思っていたほど大したものではなかったことに気づきます。多くの人々は、遠くから自分の目を欺くものを賞賛し、大衆にとって善いものは、自分にとっても善いものだと考えるのです。

 8. さて、われわれ自身もそうなることがないように、ここで何が善かについて考えてみましょう。これについては様々なやり方で説明がなされ、多くの人々が、多くの主張をしてきました。ある人たちは次のように定義しました。「善とは魂を招き寄せるもの、自らに近付けるものだ。」しかし、これには直ぐに反論できます。招き寄せるにしても、破滅に導くとすればどうでしょうか?いかに多くの悪徳が魅力的かは君も知っての通りです。真実のものと真実らしいものは互いに異なります。そして、善は真実なものと結びついています。ですから、それが真実なものでなければ、善ではありません。ところが、人を招き寄せ、魅了するものは、真実らしいものに過ぎません。それは君の注意を掠め取り、関心を煽り、それ自身に引きずり込みます。9. したがって、ある人たちは次のように定義します。「善とはそれ自体への希求を喚起するもの、あるいは、それ自体へ向けて奮闘する魂の衝動を駆り立てるものだ。」これにも同様に、直ぐに反論することができます。なぜなら、多くのものが魂の衝動を駆り立てますが、それで求められるものは、結局彼らに有害となるものですから。次のような定義がより優れているでしょう。「善とはそれ自体に向かう魂の衝動を自然に即して駆り立てるものであり、求めるべきにものになって初めて、求められるものだ*5。」これにより、善は立派なものとなり得ます。立派なものとは、最も求められるべきものですから。

 10. この題材を取り上げたからには、僕は善なるものと立派なものの違いを述べねばなりません。それらは互いに混ざり合っており、分け隔てることができない性質があります。立派なものが含まれていない限り、何事も善なるものにはなり得ず、立派なものはいかなる場合でも善なるものです。それでは、この両者の違いは何でしょう?立派なものは完全な善であり、それによって幸福な人生は成り立ち、それに触れることで他のものも善になります。11. 僕が言っているのは、次のような意味です。たとえば、軍務や外交や裁判といったことは、それ自体は、善でも悪でもありません。これらが立派に行われると、善となり始め、「中間的な」ものから善へと移行します。善は立派なものとの交友関係から生じますが、立派なものは、それ自体でも善です。善は立派なものから作られますが、立派なものはそれ自体ですでに存在しています。善なるものは、悪であることもありました。しかし立派なものは、善なるもの以外ではあり得ませんでした。

 12. ある人たちは次のように定義しました。「善とは自然に即したものだ。」では、僕の言うことを注意して聞いて下さい。善なるものは自然に即していますが、自然に即したものが直ちに善なるものとなる訳ではありません。というのも、多くのものは自然と調和していますが、それらには善と呼ぶには相応しくないほどつまらないものもありますから。それらは大して重要ではない、軽蔑されて然るべきものです。ところがいかなる善も卑小な、軽蔑されるべきものではありません。なぜならそれが些細なものならば、善ではないからです。善であり始めれば、それは些細なものはなくなります。では、そうすれば善と認めらるのでしょうか?それは完全に自然に従うことによってです。

 13. 人々は言います。「あなたは、善なるものは自然に即していると言った。それが善の特性であると。またあなたは、自然に即していても、善ではないものもあると言った。それでは、どうして前者は善であり、後者は善ではないのか?どちらも共通の特性として、自然に即するという性質を有しているのに、それらはどのように異なる性質に移行するのか?」14. もちろん、その大いさそのものによってです。或るものの性質が、それが大きくなることに伴って変化するのは、珍しいことではありません。ある幼児が少年時代を経て、青年となりました。すると彼の性質は変化します。なぜなら、幼児は非理性的ですが、青年は理性的だからです。或るものは大きくなると形が変わるだけでなく、別のものへと変化します。15. 反論する人々がいます。「しかし、大きくなったからといって、必ずしも別のものになる訳ではない。ぶどう酒を瓶に注ごうと樽に注ごうと、何の違いもない。いずれの容器においても、ぶどう酒はそれに特有の性質を保っている。蜂蜜にしても、少量であろうが多量であろうが味に違いはない。」しかしこれらは、問題となっていることとは別の事柄です。というのも、ぶどう酒も蜂蜜も、その性質は均一ですから、どれだけ量を増やしたところで、性質が変わることはありません。というのもこれらのものは、その大きさを拡張しても、元の種類と特性に留まり続けますから。

 16. しかし或るものは、多くの追加を経てからの最後の付加によって変化します。それには、これまでとは異なる新たな性質が刻印されます。一つの要石が弓門を完成させます。この石が両側に並べられた石の楔となり、中央に配置されることで全体を支えているのです。そして最後に付加されるものがこれほど小さなものなのに、大きな変化をもたらすのはなぜでしょう?それは増やすものではなく、満たすものだからです。17. また或るものは、成長することによってそれまでの姿を脱ぎ捨て、新しいものへと変化します。心が長きに渡って或ることに対する思索を続け、その偉大さを追いきれないほどにまでになった時、それは「無限」と呼ばれ始めます。そしてこれは、偉大ではあるが有限であったものとは、遥かに異なるものになったのです。これと同様に、われわれはそれ以上には分割できない或るものを見出します。或るものを分割していって、それがますます小さくなって〔分割するのが〕難しくなると、それは「分割不可能〔原子〕」となることが分かります。同様に、われわれはやっとのことで、かろうじて動かせるものからどんどん進んで、「不動のもの*6」へとたどり着きます。これらと同じ道理により、或るものは自然に即したものですが、それが大いになることにより、別の特性、すなわち善へと変化したのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 118 - Wikisource, the free online library

・解説

 前半の顕職を求めることの虚しさを説く箇所では、ここでも少なからずセネカの強がりのようなものが見られて面白い。そして後半の「善なるもの」への論理遊びへと繋がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:キケロー「アッティクス宛書簡集」1.12.4

*2:アッティクスの伯父。「アッティクス宛書簡集」1.12.1

*3:投票をすることもされることもなく

*4:前55年の法務官の選挙で、カトーが落選し、ウァティーニウスが賄賂により当選した。書簡94.25も参照。また「賢者の恒心について」17.3「摂理について」3.14でも、セネカはウァティーニウスを非難している。

*5:求めたい時ではなく、求めるべき時に求めるものが善である、という意味。

*6:運命や事物や不安定なものから、「不動の精神」へとたどり着く、といったイメージか。