徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡66 徳の諸側面について

 1. 僕はつい先日、かつての学友であるクララヌス*1と数年ぶりに再会しました。彼が老齢であることは、言うまでもなくお分かりになるでしょう。しかし、虚弱で儚い肉体と闘いながらも、彼の精神は確かに健康で、力強いものだったと言いましょう。というのも、自然は不公平に振舞い、そのような類まれな魂に貧しい住居を与えたのです。あるいは、卓越的に強靭で幸福な精神は、いかなる外貌の下にも隠れ住むことができることを、自然はわれわれに示したかったのかも知れません。いずれにせよ、クララヌスはこれらの全ての障害を克服し、自分自身の肉体を軽蔑することで、他のものも軽蔑できるまでに至りました。2. 詩人が

美しい身体から生まれる、より好ましい美徳*2

と歌ったのは、僕に言わせれば、間違いです。美徳は自らを引き立てるものを何も必要としませんから。美徳はそれ自体で誉れ高いものであり、宿るところを、自らの手で神聖なものにします。とにかく僕は、クララヌスを別の観点で眺めるようになりました。僕には彼は美しく、心も体も整っているように見えました。3. 偉大な人物はあばら屋からでも現れます。同様に、美しく偉大な精神は、醜いちっぽけな肉体からも生まれ出ます。自然が彼のような人物を生むのは、美徳がどのような場所からでも生ずるものであることを証明するためだと、僕は考えます。もし自然が、魂を裸のままの状態*3で作り出すことができたなら、そうしたでしょう。しかし実際は、自然はより偉大なことを行います。つまり自然は、肉体に支障があっても、その障害を乗り越えることが出来る人物を生み出すのです。4. クララヌスはそうした人物の模範の一人として生まれたと、僕は思います。つまり、肉体の醜さによって魂は損なわれるのではなく、反対に、魂の美しさによって肉体は飾られるということを、われわれに理解させるためにです。

 さて、僕がクララヌスと共に過ごした日数はほんのわずかでしたが、それでも僕たちは多くの言葉を交わしました。僕はすぐにでもその内容から取り出して、君にお贈りしましょう。5. 最初の日、われわれは次のことについて考えました。すなわち、善が三種類あるとき、それらはどのように等しいものになりうるか?というものです。われわれストア派の信条によると、それらの内のある種のもの、すなわち喜びや平和、自国の安泰といったものは、第一の善です。他のものは第二の善で、それらは苦痛に耐えることや、重篤な病の際の自制心といった、不幸な事情から生み出されるものです。われわれはまず第一の善のために祈り、必要が生じた場合のみ、第二の善のために祈ります。更に、第三の種類の善もありますが、それは例えば、穏やかな足取り、控えめで実直な顔立ち、賢者に相応しい態度などです。6. さてもし君が、ある善を祈り求め、他の善は避けるべきだと言うのなら、これら三つの善を比較するとき、どうして互いに等しいと言うことができるでしょう?もしこれらを区別しようと思うなら、第一の善に戻って、その性質について考えるべきでしょう。真実を見つめ、何を求めるべきで、何を避けるべきかを熟知し、俗見ではなく自然に従って価値判断の基準を確立する魂——全世界を透徹し、思慮深い眼差しをあらゆる現象に向け、想いと行いに厳格に注意を払い、強大であると同時に偉大で、苦難や陰謀よりも上に立ち、極度の幸運にも惑わされることなく、あらゆる苦難も幸運も克服し、絶対的な美しさを持ち、完全な優美さと強壮さを持ち、健全で力強く、冷静で狼狽えることなく、どんな暴力にも打ち砕かれず、偶然の出来事に高揚も落胆もしない―—このような魂こそ、美徳そのものです。7. もし美徳が一つの視野の下に来て、自らの完全性を一度見せしめたら、そこに美徳の外貌が現れます。しかし、その外貌には多くの側面があります。生活の多様さや、行動の違いに伴って、美徳は自らを展開させます。しかし美徳そのものは、小さくも大きくもなりません。最高善が減少することも、美徳が退歩することもあり得ませんから。そうではなく、ある時はある性質に、ある時は別の性質に変化し、演じるべき役割に応じて自らを形作るのです。8. 美徳は触れたものが何であっても自らに似たものを与え、徳の持つ色に染めるのです。それはわれわれの行いや友情、そして時には自ら入り込んで秩序をもたらした全ての家庭を、美しく飾ります。ひとたび美徳が取り扱ったものは何であれ、好ましく、誉れ高く、称賛に価するものとなります。

 したがって、美徳の力強さと偉大さは、それ以上に大きくなることはありません。極めて偉大なものは、さらに増加させることはできないからです。真っ直ぐなもの以上に真っ直ぐなものはなく、真実なもの以上に真実なものはなく、適切なもの以上に適切なものはないことが、お分かりでしょう。9. あらゆる徳には、程度というものはありません。程度とは、明確な尺度に依存するものですから。節制は、それ以上に進むことがありません。忠誠や、誠実や、実直と同じように。完全なものに何を付け加えることができるでしょうか?何もできません。あるいは、つけ加えるものがあったなら、それは完全ではなかったのです。同様に、美徳にも、何かを付け加えることはできません。もし何かつけ加えることができたなら、そこには欠陥があったに違いありません。誠実さも、何かの追加を許しません。それらは僕がまさに述べたことのために*4、誉れ高いのですから。それではどうでしょう?礼儀や正義や適法も、同じ種類の美徳に属し、特定の範疇に収められているとは思いませんか?増大することができるということは、不完全であることの証です。

 10. 善は、あらゆる場合において、これらと同じ法の下にあります。国家の利益と個人の利益は結びついています。実際、これらが不可分のものであるのは、称賛に値するものを望ましいものから引き離すことができないのと同じです。したがって、美徳は互いに同等で、美徳の働きもまたそうであり、これらの美徳を備えた全ての幸福な人々もそうなのです。11. しかし、植物や動物の徳は滅しやすいものであり、もろく儚く、不確かなものです。それらは高く上がったかと思うと、また沈みます。ですから、それらは同等に評価されません。ですが、人間の美徳には、ただ一つの基準が用いられます。正しい理性とは単一のものであり、唯一のものですから。神聖なもの以上に神聖なものはなく、天的なもの以上に天的なものはありません。12. 死すべきものは腐敗したり堕ちたり、すり減ったり増長したり、消耗したり補充されたりします。ですから、こうしたものにおいては、それらの運命は不確かなものと見做され、そこにあるのは不均衡です。しかし、神聖なものにある性質は一つです。そして理性とは、人間の体に宿る神的な魂の一部に他なりません。理性が神聖なものであり、善には決して理性が欠けることがないとすれば、あらゆる善は、神聖なものです。そしてさらに、神聖なものの間には、いかなる差異もありません。それゆえ、善の間にも、いかなる差異もありません。したがって、喜びを抱くことと、拷問に屈することなく勇敢に耐え抜くことは、同等の善ということになります。というのも、いずれの場合にも偉大な魂があるからです。一方は安らいで快活であり、もう一方は闘争心を持ち、行動に備えているからです。13. 何ですか?敵の本拠地に勇敢に突撃する者の美徳と、最大の忍耐をもって敵の包囲に耐え抜く者の美徳は、同等であると君は思わないのですか?ヌマンティアを包囲し、彼が自ら征服しえなかった敵の手をもって、敵が自らを破滅させるように仕向けたスキピオ*5は偉大でした。包囲と闘った人々の精神も偉大でした―—すなわち、死への道が開かれている限り、包囲は完全なものではないことを知っている人々、自由の腕に抱かれて、息を引き取ることを知っている人々です。同じように、他の種類の徳も、互いに比較すると同等なのです。冷静さ、率直さ、寛大さ、不動心、平常心、自制心も。それら全ての根底にあるのは、魂を真っ直ぐで揺るぎないものにする、ただ一つの美徳です。

 14. 「それなら」君は言われる。「喜びと苦痛に対する不屈の忍耐には、違いはないのですか?」美徳そのものに関して言うなら、全くありません。ですが、美徳が示される両方の状況には、大きな違いがあります。一方の場合には、魂の自然な安らぎと寛ぎがあり、もう一方の場合には、自然に沿わない苦痛があります。したがって、これら二つの状況は大きく異なりますが、その違いはどうでもいいことで、それぞれの状況で示される美徳は同等です。15. 美徳はそれが扱う問題によって変化を受けることはありません。問題が困難で融通の利かないものであっても、美徳を悪化させることはできません。喜びや楽しさも、美徳をよりよくする訳ではありません。したがって、美徳は必然的に同等のものとなります。いずれの場合においても、同等に正しく、同等に思慮深く、同等に誠実さをもって遂行されるからです。それゆえ、善の状態とは等しいものであり、ある人が喜びの中にあろうと、他の人が苦痛の中にあろうと、自らの善をそれらの状態からさらに超越させることは不可能なのです。そして、一方が他方より優れてると言えないなら、二つの善は同等なのです。16. というのも、美徳の外側にあるものが、美徳を減らしたり増やしたりできるのならば、立派なものとは唯一の善ではなくなってしまうからです。もしそうだと*6考えるなら、立派なものは完全に滅びてしまいます。なぜでしょう?お伝えすると、それはこういうことです。つまり、自分の意志が介在せずに、ないし強制的に行われることは、立派なことではないからです。あらゆる立派な行いは、自発的なものです。不本意、不平、臆病、怯懦と結び付けられると、立派なことの最大の特徴、すなわち自己承認が失われます。自由でないものを、立派なものとは言いません。というのも、恐れは奴隷状態を意味しますから。17. 立派さをもつ人には不安は全くなく、落ち着いています。反抗したり、嘆いたり、何かを悪いものと考えると、それは騒ぎに巻き込まれ、大きな混乱の中でもがき苦しみ始めます。というのも、一方からは正しいものに見えるものに呼び寄せられ、他方からは悪しきものの兆候に引き戻されるからです。したがって、立派なことをしようとする者は、いかなる障害があっても、それを不便と思うことはあっても、悪いものと考えてはいけません。彼はそれを不本意にではなく、自らの意志で進んで行うべきです。あらゆる立派な行いは、命令や強制の存在なしに行われます。それは純粋なものであり、悪しき夾雑物はありません。

 18. このことについて、君がどのように反論するか、僕には分かっています。「人が喜びを感じているか、あるいは拷問台に横たわって、拷問吏をくたくたにさせるかの間には何の違いもないと、私たちに信じ込ませようとしているのですか?」僕は次のようにお答えしましょう。「エピクロスもまた、このように言っている。賢者はたとえファラリスの雄牛の中で焼かれても、こう叫ぶだろう。『私は快い。こんなことは私には何の関係もない』」どうして君は、宴会で横になっている者と、毅然として拷問に耐える犠牲者が、同等の善を持っていると僕が主張するのを、不思議に思うのですか?エピクロスが、とても信じられないこと、つまりは、このように焼かれることは快いと言っているのに。19. しかし、僕の答えは次の通りです。喜びと苦痛の間には大きな違いがあり、いずれかを選ぶよう言われたら、僕は前者を求め、後者は避けるでしょう。前者は自然に沿ったものですが、後者は自然に反したものです。この基準で判断するならば、両者の間には大きな隔たりがあります。しかし、それに伴う美徳の問題となると、それが喜びによるものであろうと悲しみによるものであろうと、各々の場合における美徳は同等です。20. 悩みも苦しみも、その他のあらゆる不都合も、美徳によって克服されないものはないので、大したものではありません。太陽の輝きがあらゆる小さな光に勝るのと同じように、美徳はそれ自身の偉大さによって、あらゆる苦痛、煩悶、不正を打ち砕き、圧倒します。そして美徳の輝きが届くところではどこでも、美徳の助けなしにある光は全て消え失せます。そして不都合も、美徳の手にかかると、海上の雨雲と同じように、意味をなさないものとなります。

 21. このことは、善き人は、不本意に陥ることなく立派な行為に邁進するという事実によって証明されます。彼はたとえ絞首刑執行人、拷問吏、拷問杭に相対したとしても、何を苦しまなければならないかではなく、何をなすべきかに執心するでしょう。そして彼は、善き人に委ねるのと同じように、立派な行いに自分自身を容易に委ねるでしょう。彼はそれが自身にとって有益であり、安泰であり、好都合なことだと考えるでしょう。そして彼は、たとえそれが悲しみや苦痛に満ち溢れていても、立派な行いを、貧乏な、あるいは追放中の身であっても、善人である人と同等に見做すでしょう。22. さて今度は、有り余る富を持つ善き人と、何も富を持っていないけれど、自分自身の内にあらゆるものを持っている善き人を比べてみて下さい。彼らは不公平な運命を経験してはいても、同等に善いと言えるでしょう。僕が言ったように、これと同じ基準が、人の場合と同じように物事の場合にも適用されるべきです。美徳は、健全で自由な肉体に宿ってる時と同じように、病気や束縛の肉体に宿っている時でも、称賛に値するものなのです。23. したがって、君自身の美徳についても、運命が君に健全な肉体を与えた場合も、何らかの欠陥がある肉体を与えた場合も、君は美徳をそれ自体以上に賞賛はしないでしょう。そうでなければ、奴隷のような恰好をしているからという理由で、主人を低く評価するようなものですから。偶然が支配するあらゆるもの―—つまり金銭や、肉体や、地位——は、動的なものです。それらは虚弱で、移ろいやすく、滅びやすく、保てる期間も不確かです。反対に、美徳の働きは、自由で抑圧されることがなく、幸運に丁重に扱われても、それ以上に求める価値はなく、不運に重くのしかかられても、それ以下に減ずる価値もありません。

 24. さて、人間における友情は、物事においては欲求に相当します。僕が思うに、君は善き人物であれば、彼が金持ちであったとしても貧乏であったとしても、同等に愛するでしょう。また、強壮で筋肉質な人であったとしても、細身で虚弱な体質の人だったとしても。ですから君は、困難と労苦に満ちた物事よりも、陽気で穏やかな物事のみを、善いこととして愛したり欲求したりはしないでしょう。25. あるいは、もしそうであるなら君は、同じ程度に善良な二人の人物がいる場合、汚れていて身なりの悪い人物よりも、きちんと身だしなみの整った人物にばかり、関心を向けるでしょう。次には君は、虚弱であったり目の不自由な人よりも、四肢全てが健康で怪我一つない人に、関心を向けるでしょう。そして次第に君の気難しさは、同じくらい実直で思慮深い二人の人物のうち、髪が長く、縮れている人物の方を選り好むにまで至るでしょう!各々の美徳が同等のものであれば、他のことに関しての差異は、明らかとはなりません。なぜなら、他のことは全て美徳の部分ではなく、付属品に過ぎないのですから。26. 自分の子供らのうち、病気の子よりも健康な子により愛情を注ぎ、不公平に扱う親がいるでしょうか?あるいは背が低いか中くらいの子よりも、極めて背の高い子のほうに。野獣ですら、自分の子をえこひいきすることはありません。子供らが平等に乳を飲めるように身を横たえます。鳥も食べ物を、平等に分配します。オデュッセウスが〔故国の〕イタケーの岩礁に戻る時の気持ちは、アガメムノンミュケナイの王の城壁に急ぐのと同じです。人が祖国を愛するのは、そこが栄えているからではなく、彼自身にとっての唯一の故郷だからです。

 27. さて、これら全てに述べたことの目的は何でしょう?それは、美徳が全ての働きを自分の子供のように同等に見做し、皆に等しく親切を示し、困難に遭遇した人にはいっそう深い親切を示すものであることを、君に理解して頂くことです。親というのは、憐憫を誘う子供に対して、いっそう愛情を深く持つものです。美徳もまた、その働きが困難や重荷の下にあるからといって必ずしもよりいっそう愛するわけではありませんが、善い両親がそうするように、より多くの配慮をもたらします。

 28. なぜある善が、他の善よりも優れることはないのでしょうか?それは、接合させる以上に接合されるものはなく、水平なもの以上に水平なものはないからです。ある物が他の物以上に、特定の対象に等しいと言うことはできません。それゆえ同様に、立派であるもの以上に立派なものはありません。29. したがって、あらゆる美徳が本質的に同等のものであるなら、善の三種類の側面も、互いに同等なのです。それはつまり、こういうことです。自制心をもって喜びを感じることと、自制心をもって苦痛に耐えることは同等です。一方にある喜びは、もう一方において犠牲者が拷問吏の手中にあって、呻き声を飲み込む魂の不動さを凌駕するものではありません。前者の善は求むべきものであり、後者の善は褒むべきで、どちらの善も、同等のものです。なぜなら、後者にはどんな不都合が生じても、それをはるかに上回る善の偉大な性質で補うことができるからです。30. 誰であれそれらが等しくないと信じる人物は、美徳それ自体を見ようとせずに、単なる外見に関心を向けているのです。真の善は、同じ重量、同じ幅を持っています。偽物の善は、多くの空虚さを持っています。ですから、見た目には印象深く、壮大であるように見えても、天秤で重さを測ると、取るに足らないものであることが分かります。

 31. そうです、親愛なるルキリウス君。真の理性が認める善とは、確固たる、永続するものなのです。それは精神を強化し、高揚させ、常に高みにあるようにします。しかし、無思慮に賞賛され、大衆によいとされるものは、れわれわを空虚な喜びで膨れ上がらせるだけです。そしてまた、あたかも悪いものであるかのように恐れられているものは、人々の心に恐怖を想起させているだけです。動物が怯えるのと同じように、心は見せかけの危険に脅かされます。32. ですから、これらの両者*7が、精神の気を紛らしたり、刺激したりするのは当然のことです。一方は喜ぶに値せず、もう一方は恐るるに足りません。理性のみが不変のものであり、自らの判断を堅持します。理性は感覚の奴隷ではなく、その支配者だからです。理性が理性と等しいのは、直線がどの直線とも等しいのと同じです。ですから、美徳も美徳に等しいのです。美徳とは、正しい理性に他なりません。全ての美徳は理性です。もしそれらが正しい理性であれば、どの理性も同じ理性です。同等に正しいということは、同等の性質を持つということです。33. 理性がそうであるなら、行動もまたそうです。そうであれば、全ての行動は同等になります。というのも、それらは理性に似ているので、互いに似たものになるのです。さらに僕は、それらが立派で正しい行為である限り、全ての行為は互いに同等であると考えます。もちろん、事情の変化に応じて、大きな違いはあります。事情はある時は広い範囲のある時は狭い範囲のことで、ある時は輝かしくある時は卑しいことで、ある時は無限である時は限定的です。しかし、これら全ての状況において、最善のものは等しいのです。それらは全て、立派なものです。34. 同じように、全ての善き人は、彼らが善良である限り、同等なのです。確かにそこには、年齢の違いがあり、ある人は年輩で、ある人は若輩です。肉体についても、ある人は美しく、ある人は醜く、運についても、ある人は裕福で、ある人は貧乏です。ある人は影響力と権力を持ち、都市の人々によく知られていますが、ある人は殆ど知られていない、無名の存在です。しかし、善であるという点に関して、彼らはみな同等なのです。35. 感覚は、物事の善悪を判断することができません。何が有用で、何が無用であるかを知らないのです。〔感覚は〕事実に直面させられない限り、自分の意見を述べることができません。未来に目を向けることも、過去を思い出すこともできません。そして何が原因で、どんな結果が生じるかも知りません。しかし、そうした(因果を洞察する)知識から、一連の行為の秩序は織りなされ、人生に統一がもたらされるのです。その統一は、真っ直ぐな道を進みます。ですから、理性こそが善悪を判断するのです。理性は自分とは異質なもの、外的なものを無価値と見做し、善でも悪でもないもの*8は、単なる付属品で、取るに足らない些細なものと考えます。理性は全ての善を、自らの魂の内に持つのですから。

 36. しかし、理性が第一の善と見做し、進んで自らの内に取り入れるある種の善があります。それらは例えば、勝利、善い子供たち、自国の繁栄などです。理性が第二の善と見做してる他の種類のものは、逆境の中においてのみ現れます。例えば重病や逃亡の苦しみに、平然と耐えることです。さらにどちらでもないある種の善があります。それらは自然に従うものでも、自然に反するものでもありません。例えば、慎重に歩くことや、落ち着いた姿勢で椅子に座ることなどです。立つことや歩くことと同じように、座ることは自然に従うかどうかに関係ありません。37. 高位にある二種類の善は違います。第一の善——つまり子供の忠実な行動や国家の幸福から喜びを得ること―—は、自然に即したものです。第二の善——つまり拷問に対する不屈の精神や、病で熱がある時の喉の乾きに耐える精神——は、自然に反するものです。38. 「それでは」君は言われる。「何か自然に反する善というものがあるのですか?」もちろんありません。しかし、この善が生起するところのものは、時には自然に反するものです。例えば傷を負ったり、火に焼かれたり、不健康に苦しめられたりするのは、自然に反することです。しかし、そのような苦境の中にあって不屈の精神を保つことは、自然に即したことです。39. 僕の考えを簡潔に言いますと、善に関係する素材は時として自然に反することがありますが、善そのものは決して自然に反することはありません。なぜなら理性を伴わない善はなく、理性は自然に従うからです。

 「それでは」君は言われる。「理性とは何ですか?」自然を見習うことです。40. 「それでは」君は言われる。「人が持てる最大の善とは何ですか?」自然の意思に即して行動することです。「疑いようもなく」反論する人は言います。「平和は一度も攻撃を受けたことがない方が、沢山の血を流して取り戻されたものよりも、より多くの幸福をもたらします。」「次のこともまた疑いようがありません。」彼は続けます。「健康は一度も損なわれたことがない方が、命そのものを脅かす重篤な病に耐え抜くことによって、言うなればある種の強制力によって取り戻された健康よりも、多くの幸福をもたらします。そして同じように、疑いようがありません。喜びの方が、傷を負わされたり、火に炙られたりする拷問の果てにあるものに、不屈の精神で耐えることよりも、多くの幸福をもたらすことは。」41. 決してそんなことはありません。なぜなら、危難から生じるものには、それを経験した人の目から見た有用性に沿って評価されるので、幅広い差異が存在するからです。そして、善に関わることで、考慮されるべき唯一の事柄は、それらが自然に一致するということです。そしてこれは、全ての善について同等に言えることです。われわれは元老院の会議で誰かの意見に賛成票を投じる時、次のように言うことはできません。「あの人はこの人以上に賛同する。」誰もが同じように賛同し、投票します。僕は美徳についても同じことを言います―—それらは全て自然に賛同している。善についても同じことを言います―—それらは全て自然に賛同している。42. ある人は若くして死に、ある人は年老いてから、また別のある人は幼くして、人生の兆しを垣間見ただけで死にました。彼らは皆等しく死すべき運命にありました。死はある人には生の道を長く歩むことを許し、ある人の生を花盛りの時に切り取り、ある人の命はまさにその始まりの時に断ち切りましたが。43. ある人は食事の席で〔生から〕解放されました。ある人はいつもの眠りを、死の眠りへと延長させました。性交の最中に〔命が〕消失した人もいます。では、これらの人物と、剣で貫かれたり、蛇に噛まれることで息絶えたり、崩れた家に押し潰されたり、長時間に渡って筋肉をねじられ、ばらばらにされる拷問に遭った人たちを比べてみて下さい。ある人の死に方はより良く、ある人の死に方はより悪いと見做されるかも知れませんが、死という結末は、全てにおいて同等です。生を終える手段は様々ですが、死は同じ一つのものです。死には程度の高い低いはありません。というのも、それらはいかなる場合も、生命の終わりという、同じ限界がある訳ですから。

 44. 善に関しても、これと同じことが言えると君に申しましょう。ある善は純粋な喜びの中にあり、ある善は悲しみと苦しみの中にあることがお分かりになるでしょう。前者は運命の恩恵を制御し、後者は運命の猛攻を克服します。どちらも等しく善です。前者は平たんで容易な道を、後者は険しい道を進むのだとしても。そしてそれらの目的は全て同じです。それらは善であり、称賛に値するものであり、美徳と理性を併せ持ちます。美徳は、それが受け入れるあらゆるものを、互いに同等にします。45. これがわれわれの教義の一つであることは、驚くには及びません。エピクロスの著作*9の中にも、二つの善を見つけることができます。それら二つから、彼の最高の善、あるいは至福の善は構成されています。つまり、苦痛のない肉体と、騒がしさのない魂です。これらの善は、もし完全なものであれば、増大することはありません。完全なものに、どうして付け加えることができるでしょうか?肉体に、苦痛がないと仮定してみましょう。この苦痛のないことに、どのような増大の余地があるでしょう?魂が落ち着いて平静であるならば、この静けさにどのような増大の余地があるでしょう?46. 例えば最も純粋な輝きで澄み渡る晴天には、それ以上に澄み渡る余地はありません。それと同じように、人が自らの肉体と魂を配慮し、そのどちらからも自分の善の性質を織りなす時、彼は完全な状態にあり、また彼の魂に喧騒がなく、肉体に苦痛がなければ、彼の願いは全て成就したことになります。これら二つの善に加えて彼にもたらされる喜びは、彼の最高善を増大させるものではありません。言ってみればそんなものは、味付けに薬味を加えるだけです。人の本質における絶対的な善は、肉体の平和と魂の平和に、満足を覚えるものだからです。47. そして今、エピクロスの著作*10の中で、われわれの学派のものと同様の、善の区分をお見せしましょう。彼は、例えば不快から解放された肉体の休息や、自らの善について思いを巡らすことに喜びを見出す魂の平穏などのように、自らその運命に委ねられることを望む善もあれば、それが起こることを自ら望まないとしても、彼が称賛し、是認する善があると言っています。例えば、僕が先に述べた、病や深刻な苦しみのさ中にある時の忍耐で、エピクロスは、彼の人生最後の日、最も祝福された日にそれを示しました。彼はわれわれに語ります*11。彼は膀胱の疾患と胃の潰瘍による、それ以上大きくなる余地がないほどの甚大な苦痛に耐えなければならなかったと。「それでも」彼は言いました。「この日は幸福な日に他ならない。」そして、自らの内に最高善を持つのでなければ、誰もそのような日を幸福に過ごすことはできません。

 48. したがって、エピクロスでさえ、できることなら経験したくないことを善と言っていることが分かります。しかしこれは、状況がそのように強いたがゆえに、進んで受け入れ、称賛し、最高善と同じ地位に置かねばならないというものです。幸福な生を完成させた善、つまりエピクロスが最期に感謝の言葉を捧げた善は、最高善と同等でない、などと言うことはできません。49. 優秀なルキリウス君、もっと勇敢な言葉を、僕に言わせて下さい。もしある善が他のある善よりも優れているのならば、穏やかで魅力的な善よりも、厳しいものに思われる善を好み、それらのほうがより偉大であると言いましょう。喜びを一定の範囲内で保つことよりも、苦難を乗り越えて道を開くことの方が、優れたことだからです。50. 人が繁栄をよく制御することには、不幸に勇敢に耐えることと、同等の理性の用いられ方が必要であることを、僕は理解しています。敵が陣営を攻撃しない時に、危険を恐れずに城壁の前で歩哨に立つ兵士も、足の腱を切られてひざまづいても武器を手放さない兵士も、同じくらい勇敢であると言えるでしょう。しかし、人が「よくやった、われらが英雄よ!」と叫ぶのは、戦場から戻った、血まみれの兵士に対してです。ですから、試練に耐え、勇気を示し、運命と戦い抜いた善に、僕はより多くの賞賛を捧げるのです。51. 世界で最も勇敢な男の怪我のない手よりも、焼かれて縮こまったムキウス*12の手に賞賛を捧げることを、僕が躊躇う理由があると思いますか?ムキウスは敵も炎も軽蔑しながら、そこに立ち、自らの手が敵の祭壇の火の上に血を滴らせるのを眺めていました。ポルセンナは、自分を殺すと言い張ったこの英雄の名誉を惜しんで、生贄*13の意に反して、火を取り除くように命じました。

 52. なぜこの善を、第一の善と数えてはいけないでしょうか?そして、武器を持った手よりも失われた手で敵を打ち負かすことは類まれなことであるがゆえに、危機に晒られることも、運命の試練を受けることもなかった善よりも、はるかに偉大であると考えてはいけないでしょうか?「それでは」君は言われる。「あなたは自分自身のためにこの善を望むのですか」もちろんです。それは、人が自ら望むのでない限り、到達することができない善だからです。53. それとも、僕は奴隷に揉んで貰うために自分の手足を差し出したり、女や女のように変身した男に、指の関節を引っ張ってもらうことを望むべきでしょうか?あたかも按摩師に差し出すように平静に自分の手を炎に差し出したムキウスは、なおのこと幸福であったと僕は考えずにはいられません。彼は自分のしくじりを、なかったことにしました。彼は武器も持たず、不具の身で戦争を終わらせました。そして、不具になったその手で、二人の王*14に打ち勝ったのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 66 - Wikisource, the free online library

・解説

 美徳は幸福のための必要条件であり、理性もそうだということ。これはセネカ哲学でしつこいくらいに語られている。論集では、「幸福な人生について」にこの内容が詳しい。岩波文庫の「生の短さについて」に収録されているので、ぜひとも読んで欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:博識な注釈家

*2:アエネイアス5.344

*3:つまり、美徳がそのまま目に見える状態

*4:節制、忠誠、誠実、実直それ自身のために

*5:小スキピオのこと。紀元前133年にスペインのヌマンティアを八ヶ月の包囲の後に征服。

*6:増やしたり減らしたりできると

*7:一見すると良く見えるものや、悪く見えるもの

*8:いわゆるアディアポラ〔ἀδιάφορα〕

*9:断片434

*10:断片449

*11:断片138

*12:書簡24参照

*13:ムキウスのこと。自らを炎にくべたので

*14:ポルセンナとその盟友タルクイニウス