徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡121 動物の本能について

 1. われわれが長い間考え続けてきたこの小さな問題について、今日たっぷり時間をかけて説明するとしたら、君が訴訟を起こすであろうことは、僕は分かっています。君は叫びます。「こんなことが道徳〔人格〕と何の関係があるのでしょう?」好きなだけそう言って下さい。しかし、君が訴訟を起こすべき他の人々をまず対置させて下さい。ポセイドーニウスやアルキデモス*1といった人々に、裁判を受けて貰いましょう。それから僕は、道徳に関するあらゆる議論が、必ずしも道徳的な人格を作る訳ではないと言いましょう。2. 人が必要とするものは、食事において、運動において、衣服において、教育において、娯楽において、それぞれ異なります。しかし、これら全ては必要なものではあっても、人格を改善するものではありません。人格についても、様々なものが様々な方向から関わってきます。あるものは人格を矯正し、秩序づけ、あるものはその本質と起源を精査します。3. そして僕が、なぜ自然は人間を生み出したのか、なぜ人間を他の動物よりも上位に置いたのかを探究する時、君は僕が、人格〔道徳〕の問題を後回しにしたと思いますか?そんなことはありません。なぜなら、何が人間において最善のことであるか*2を理解せずして、どんな人格を求めるべきかを、どうして知ることができましょうか?あるいは、人間の自然本性を理解せずして。君が何を求めるべきで、何を避けるべきかを知ることができるのは、君自身がどれほど自然本性に負っているかを理解した時をおいて他にありません。

 4. 君は言われる。「私が知りたいのは、どうすればより欲望を少なくし、恐怖を少なくすることができるかです。私の愚かさを取り除いて下さい。幸福と呼ばれるものは移ろい易い空虚なものであり、この言葉には一つの音節が容易に付け加えられる*3ことを、私に教えて下さい。」君のご要望にお応えして、君の美徳を激励し、悪徳を叱責しましょう。この点について人々は、僕があまりにも過激で、限度を越えていると思うかも知れません。しかし僕はどこまでも悪事を糾弾し、最も荒々しい感情を抑えつけ、結局は苦痛をもたらす快楽の力を弱め、人々の〔悪しき〕祈りを𠮟りつけましょう。それも当然のことです。なぜならわれわれは最悪のもののために祈り、それに祝いの言葉を述べている時点ですでに、慰めが必要となっているのですから*4

 5. ところで、今問題になっていることから離れたいくつかの事柄に関して、少しの間検討することを僕にお許し下さい。われわれ〔哲学者〕はこれまで、動物は自分の「構造*5」について何らかの意識を持っているかということを議論してきました。これが事実であることは、とりわけ次のことから証明されます。つまり動物は自分の身体を、その目的のために訓練したかのような滑らかさと機敏さをもって動かすことができるということです。全ての存在が、その割り当てられた領域において巧みさを発現します。熟練の職人は、経験により道具を易々と扱いますし、舵手は船を上手く操る術を知っています。画家は対象を再現するために、用意された様々な色を素早く選び取り、蝋と作品の間を、手と視線を素早く行き来させます。これと同じように、動物はあらゆる身体の使用において機敏です。6. われわれは優れた踊り手に驚嘆しますが、その理由は、身振りが作品の主題とそこにあらわれるべき感情に見事に一致し、言葉の素早さに動作が完全に調和しているからです。しかし、技術が人に与えるものは、動物の場合は自然が与えます。四肢を動かすのに〔踊りの練習のような〕苦労をする動物はいませんし、身体の使い方に戸惑う動物もいません。動物はこれらの機能を、生まれてからすぐに発揮します。彼らは生まれつき、これについての知識を備えているのです。完全に訓練された状態で、この世にやってきます。

 7. しかし、ある人々は反論します。「動物が四肢を巧みに扱うのは、もし間違った動かし方をすると痛みを感じるからだ。あなた方の学派が言うように動物はそう動くことを〔生まれつき〕強制されている。したがって、動物を然るべき方向に動かすのは恐怖心であって、〔自然に備わった〕意思ではない。」この考えは間違っています。強制された動きはぎこちないものですが、自発的な動きは機敏だからです。動物を駆り立てるものが痛みへの恐怖でないことは、たとえ痛みに妨げられても彼らが自然な動きをしようとすることから明らかです。8. 同じように、立ち上がるために、自分の体の重みに慣れようとする幼児は、自分の力を試し始めると、何度も転んでは涙を流しながら起き上がり、遂には奮闘努力の果てに、自然の求めるところにまで自分自身を訓練するのです。また、硬い背中を持ったある種の動物は、ひっくり返されると、元の状態に戻るため体をよじったり、手足をばたつかせたり横に伸ばしたりします。亀は仰向けになっても痛みを感じませんが、自然な状態を希求してじっとしておらず、再び起きるために体を動かすことを決してやめません。

 9. ですから、これらの動物全てには、自分の身体構造についての意識があり、そのため彼らは四肢を容易に動かせるのです。また、彼らが生まれつきこうした知識を備えていることの証として、体の使い方が不自然な動物はいないということに勝る事実はありません。10. しかし、また反論があります。「あなた方の意見によると、身体構造〔への意識〕とは、肉体に何らかの形で影響を及ぼす魂の主導的原理からなる。しかし、あなた方にも殆ど説明できないこの複雑で精妙な原理を、どうして幼児が理解することができようか?そのような、大多数のローマ市民にとっても定義が曖昧なものを理解するためには、全ての生き物が論理学者として生まれついてくる必要があるだろう!」11. もし僕が「構造〔原理〕そのもの」ではなく「構造の定義」についての理解と言っていたならば、この反論は正しかったでしょう。自然については説明することよりも、理解することの方が容易です。ですから、僕が先に述べた幼児も、「構造」が何であるかは説明できなくても、構造そのものについては理解〔意識〕しているのです。動物も「生き物」が何であるかは説明できなくて、自分が生き物であることは理解しているのです。12. さらに言うと、動物は自分自身の身体の性質については、漠然と、大まかに、曖昧にしか知りません。またわれわれにしても、その本質や構成*6については知らなくても、自分たちが魂を持っていることは理解しており、同じように全ての動物も、自分の身体の性質についての意識を持っています。なぜなら、彼らが他のことを感覚する機能を有していることと同様に、この〔身体に対する〕感覚も有していなければならないからです。彼らはそれに従い、それによって制御されるところのこの原理についての感覚を、持っていなければなりません。13. われわれは誰しも、自分の衝動を駆り立てる何かがあることを理解していますが、それが何であるかは知りません。われわれは努力の意志があることを知っていますが、それが何であるか、どこから来るのかは知りません。ですから幼児にしても動物にしても、自分の主導的原理についての意識はあるのですが、それは定義が明確にされたり、説明されたりすることはありません。

 14. 反論者は言います。「あなた方は次のように主張している。つまり全ての生き物は生まれつき自らの身体構造に適応しているが、人間の〔魂の〕構造は理性的なものなので、人間は生き物としてではなく、理性的な存在として自ら〔の魂の構造〕に適応しており、人間は人間であるという点において自らに親しむ、というのだね?であれば、まだ理性が備わっていない幼児は、どのようにして理性的な存在としての自分自身に適応するのか?」15. しかし、それぞれの年齢においてそれぞれ特有の原理があり、それは幼児の場合と、少年の場合と、青年の場合と、老人の場合とで異なります。彼らはみな、自分の年齢に相応しい構造に適応します。幼児に歯はありませんが、その身体構造に幼児は適応します。歯が生えてきたら、その状態にも適応します。やがては穀物や果実へと成長する植物も、畝間から生えてきたばかりの時にはそれに特有の構造があり、それが力強く育ち、自分の重みを茎で十分に支えられるようになった時にも、黄色く変わることで脱穀の季節を告げ、穂が固く実った時にも、それに特有の構造があります。どのような構造〔原理〕になった時にも、植物はそれを保ち、それに適応します。16. 幼年期、少年期、青年期、老年期はそれぞれ異なります。しかし、幼児、少年、青年であったわれわれは、今も変わらずわれわれ自身です。ですから、それぞれの時期においてそれぞれ異なる構造があっても、その構造に適応するという点では同じです。なぜなら自然は、少年期や青年期や老年期を僕に委ねるのではなく、僕自身をそれに委ねさせるからです。ですから幼児は、その現在の幼児期の身体構造に適応するのであって、将来の青年時代の構造に適応するのではありません。なぜなら、たとえ幼児の中には将来そうなるであろう状態が存在したとしても、生まれた時の状態もまた、自然に即したものなのですから。17. 生き物はまず最初に、自分自身に適応します。なぜなら、それにより他の全ての事柄を探究できる、基準がなければならないからです。僕が喜びを求めるとすると、それは誰のためでしょう?僕自身のためです。ですから僕は自分自身に注意を払う〔適応する〕のです。僕が苦痛を避けるとすると、それは誰のためでしょう?僕自身のためです。ですから僕は自分自身に注意を払うのです。もし僕が全てのことを僕への糧として考慮したいなら、僕自身への配慮が何よりも優先されます。この〔自分自身への〕配慮が全ての生き物の中に存在し、それは後天のものではなく、生まれついてのものです。

 18. 自然は自らが産み落とした子孫〔人類〕を、見捨てることはありません。ですから、最も身近なものが最も確かな安全となるように、すべての人々を自分自身に適応させたのです。したがって、以前の手紙*7でも述べたように、母親の子宮や卵から生まれたばかりの幼い動物であっても、自分にとって何が危険であるかを直ちに知って、死に繋がるようなことは避けるのです。頭上を飛び交う猛禽類の影に、生後すぐに怯える生き物もあります*8

 どんな動物も、生まれつき死の恐怖を備えています。19. 人々は尋ねます。「生まれたばかりの動物が、どのようにして有益なものと危険なものを理解できるのか?」しかし、先ず尋ねるべきは「理解できるかどうか」であり、「どのようにして理解できるか」ではありません。そして、それらの動物が理解できているということは、彼らが最初に行った以上に余計な行動をすることはない*9という事実から明らかです。どうして雌鶏はクジャクやガチョウからは逃げないに、あれほど小さく、また馴染みもない鷹からは逃げるのでしょう?どうしてひよこは猫を恐がるのに、犬は怖がらないのでしょう?これらの鶏たちは危険な事柄についての〔本能的な〕知識を有していますが、それが実際の経験から得られたものではないことは明らかです。なぜなら彼らは経験するより前に、それを避けるのですから。20. さらに、君がこのこと*10を偶然の結果であると考えることのないように申しますが、これらの動物は、彼らが恐れるべきである動物以外を恐れることはないし、〔恐れるべき動物に対しての〕警戒や注意を怠ることもありません*11。彼らは皆、危険なものを避ける能力を、同等に有しています。さらにはその恐怖心が、成長に伴って増大することもありません*12

 したがって、動物が実際の経験を通してその状態に達したのではないことは明らかです。それは生まれつき備わった、自己保存欲求によるものですから。経験が教えることは、遅くて、ばらばらです*13。しかし、自然が教えることは全ての人に同等であり、しかも速やかに伝わります。21. しかし、もし君が説明をお求めであれば、あらゆる動物が、どのようにして有害なものを理解するかをお話ししましょう。動物は自分が肉から成り立っていることを感じています。ですから動物は、肉を切り裂いたり、焼いたり、押し潰したりするものは何か、肉を害する武器を備えた動物は何か、といったことを意識します。そのような動物から、好ましくない、敵対者の姿を想像します*14。これらの過程は互いに密接に関連し合っています。というのも、それぞれの動物は自身の安全について考える際、自分の助けになるものを求めるのと同じように、自分の害となるものを避けるからです。有益なものへの衝動も、反対のものへの嫌悪も、どちらも自然に適ったものです。そうした想像へと教え諭す思索や配慮がなくとも、自然が定めたこととして執り行われるのです。

 22. 蜜蜂がいかに精密に巣を作るかを、君はご覧になりませんか?その分業と労力の割り当ては、いかに完全に調和していることでしょう?蜘蛛がいかに、人の手では真似できないほどの見事な巣を編んでいるかを、君はご覧になりませんか?その糸の配置は、なんと難しい労働でしょうか。糸の柱となるため真っ直ぐ中央に向かって張られる糸もあれば、内側は密に、外側は疎になるように、円を描いて張られる糸もあります。小さな昆虫を捕らえるために蜘蛛が張るこれらの糸は、まるで小さな罠の仕掛けです。23. これらの技術は生まれついてのものであり、教わったのではありません。ですからどんな動物でも、その技術が他の動物よりも優れている、ということはありません*15。ご覧のように、蜘蛛の巣の緻密さはどれも同じですし、蜜蜂の巣の部屋も、全て同じ形〔六角形〕をしています。人の技術が教えるものは何であれ、不正確で不均一ですが、自然は常に、同一なものを配分します。自然が伝えたのは、自分自身を護ることとそのための術のみです。ですから生きることは、学ぶことと同時に始まるのです。24. 生き物が生まれた時、それがなければ生まれてきたこと自体無駄になってしまうような能力を備えて生まれてくるのは、不思議なことではありません。これらは生命を維持するために最初に自然が与えた手段です。すなわち、適応力と自己愛です。これを望むことによってのみ、生命を保つことができました。この望みによってのみ生き物は繁栄した訳ではありませんが、これ無しには何も繁栄しませんでした。どんな生き物でも、自分を軽んじたり、ないがしろにすることはありません。もの言わぬ動物でさえ、他のことには愚かでも、生き抜くことには長けています。ですから、他者にとっては無益な生き物でも、自分自身は大切にすることができるのです*16。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 121 - Wikisource, the free online library

・解説1

 動物の本能について、とても2000年前とは思えないくらい鋭い洞察をしている。

 

・解説2

 さてここでは、動物の魂と人間の魂の若干の違いについて説明する。動物と人間とでは、その思考力や記憶力という意味において、やはり大きく存在が異なってくる。そのことを解説したルドルフ・シュタイナーの書籍から、二つほど引用をさせて頂く。

 

引用その①…動物は人間のような記憶力を持たない

 

 動物に人間のような記憶力がそなわっているかどうかを知ることなどできない、というのは、偏見である。こう考えるのは、観察が不十分だからである。動物が体験を通してどのような態度を示しているかをよく観察してみれば、人間と動物における体験の仕方の違いに気がつくであろう。動物の態度は、記憶が存在していないことをあらわしている。超感覚的な観察は、このことを直接感得するが、超感覚的な観察によらなくても、動物の態度を見れば、感覚的な知覚とそれに基づく思考とによって、同じ結論に至ることができる。

(つまりはセネカも洞察していたように、動物は〔経験に基づく〕記憶ではなく、生得の魂の本能〔正確には動物種ごとの集合意識〕によって意識活動を行っている)

 人間は記憶を、自分の魂の内的観察によってのみ知ることができるが、動物の内面は観察できない、という主張の根底には、決定的な誤謬が存している。人間は、みずからの記憶力を、魂の内観によって知るのではなく、外界の諸事象に対する態度〔関わり方〕の中に見てとることができるのである。どの人間も、この態度を自分に対して、他の人間に対して、また動物に対して、まったく同じ仕方で示している。

 記憶力の存在を内観によってのみ知ることができるというのは、幻想である。記憶の根底に存する力は、内的な力であるが、この力についての判断は、人生と外界との関連に目を向けることによってのみ獲得される。そしてわれわれは、この関連について、動物の場合をも知ることができる。

(つまり動物は自分の人生と外界の出来事との関連を、時間軸を超えて結び付けることはなく、あくまで反射的に過去の経験に起因した行動を取っているということ。例えばペットの飼い主に対する態度や、カラスの賢い行動もそうだとシュタイナーは言っている。)

 

ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」P67~68。「人間性の本質」より。(ちくま学芸文庫 高橋巖訳)

 

 

引用その②…人間の魂の運命と、動物の種〔の集合魂〕について

 

 動物界にはもちろん多種多様な動物たちがいます。自然研究者は、それらの種を近い種とはなれた種に分けます。高次の、より進化した動物は、種の性質を祖先から受け取っただけでなく、祖先たちの諸器官を次第に現在の諸器官にまで変化させてきたことを知っているからです。

 しかし私たちは動物の何に関心をもつのでしょうか。その種としての性質以上のことにではないでしょう。ライオンについては、ライオンの種としての性質が述べられたとき、私たちはそれで十分だと思います。(このあたりは、セネカが述べた「自然は常に、〔動物に〕同一なものを配分する」を思い出させる。)ライオンが一般にどのような生き方をし、どういう行動をとるかを理解したとき、私たちはライオンのことが分かったと思います。その時の私たちは、その同じ性質が同じライオンの父にも子にも孫にもあてはまる、と思っています。動物界にも存在する個々の相違には、それ程注意を向けません。個々の動物を相手にして研究する限りでの注意しか向けません。自然研究者としての私たちにとって、動物研究の基準になるのは、父、子、孫が共有している性質なのです。或るライオンを理解することは、ライオンという種を理解することなのです。この事実を最後まで考え、そのことの意味をはっきり理解しなければなりません。

 このことをふまえた上で、人間の場合には事情がまったく違うことに注意するなら、人間と動物の違いがはっきり見えてきます。どんな自然主義的な研究者も否定できないようなこの違いを知ることによってはじめて、人間の魂の本質がはっきり見えてくるのです。(もちろん偶然だが本書簡121の3節でセネカが述べたことに応えてくれている。)このことは次のように単純化して言うこともできます。―—「人間には伝記がある。しかし動物には伝記がない。」

 

 

ルドルフ・シュタイナー「魂について」P61~62。「人の魂とは何か」より。GA52 1904年ベルリン 。(春秋社 高橋巖訳)

 

 面白いことに、セネカもシュタイナーも、動物の魂と人間の魂は、その記憶や理性の在り方について全く異なると述べている点だ。この手の哲学者は動物は人間以上に賢いとか、人間以上に尊いとかの極端な思想に陥りがちなのだが、そうならないところがやは両者とも素晴らしい。そうであっても、両者とも動物に対する自然な愛情を忘れている訳ではない。むしろセネカとシュタイナーの著作をよく読めば、人間のみならず動物に対しても、真の意味でも博愛心を抱いていた哲学者であることは十分に感じられるのである。

 

*1:前2世紀のタルソス出身のストア派の哲学者

*2:動物と比較した際の人間のアレテーは何か

*3:「felicitas(幸福・成功)」に一音節「in」を付け加えることで、「infelisitas(不幸)」になるという意味。つまり、簡単に不幸になり得るということ。

*4:成功や繁栄といったものは得られたその時点で、すでに苦痛が始まっているという意味。

*5:身体感覚のこと。

*6:つまり細かい「定義」

*7:不詳

*8:じっさいこうした恐怖心は、多くの動物に本能として備わっている。

*9:「人間のように」という皮肉があるかも知れない。

*10:動物が本能的に危険を避けること

*11:動物が見知らぬ天敵を恐れることが偶然ではないのは、鶏がクジャクを恐がったりしないことから明らか、という意味。

*12:人間のように

*13:生まれつきではないし、偶然性が強すぎる。

*14:観察から導かれる可能な限り論理的な説明だが、解説2において動物の本能についてルドルフ・シュタイナーの意見を借りて、詳細に説明する。

*15:当然人間との比較においてこう述べている。

*16:自分を大切にしろ、という意味か。