1. より安全に暮らすために、君が注意すべきことをお教えしましょう。しかしこれは、あたかも君がアルデア*1の土地で健康を守るためにすべきことについての忠告のように思って聞いて欲しいと思います。
他者を害するよう人を駆り立てるものは何かについて、考えてみて下さい。それは希望や嫉妬、憎悪、恐怖、そして軽蔑であることがお分かりになるでしょう。2. これらの内で最も害が少ないのが軽蔑であり、多くの人は治療法(対処法)として、軽蔑そのものを隠れ蓑にします。ある人に軽蔑されても、わすかな損害を被るだけで、軽蔑した人はそれで通り過ぎます。軽蔑した相手を執拗に、明確な敵意をもって害する人は誰もいません。戦場においても倒れた兵士は顧みられず、立ちはだかる兵士と戦いは行われます。3. そして、君が他人の邪な欲望を刺激するものを何も持たず、また目立つものを何も持たなければ、劣悪な人々の希望を躱すことができます。たとえわずかなものでも、それが人目をひくものであったり、珍しいものであれば、欲望の的となりますから。
公の場で去勢を張るようなことをしたり、自分の財産を自慢したりせず、自分の内だけで物事を楽しむことを知っていれば嫉妬も避けることができます。4. 憎悪は他者を攻撃することから生じますが、これは誰も刺激したりしなければ、避けられます。そして謂れのない憎悪は、良識がそれから君を守ってくれます。もっとも後者のこの憎悪は多くの人にとって危険なものであり、敵もいないのに、憎悪を受けたという人々もいます。また君が人から恐れられないためには、ほどほどの繁栄と穏やかな気質が、それを保証してくれることでしょう。君は気分を害しても危険な人物にはならないと、人々に知ってもらうべきです。君は容易に、しかし確実に和解をする人でなければなりません。しかし、恐れられるということは、家の中でも外でも厄介なことであり、市民相手でも奴隷相手でも危険なことです。というのも、誰でも君を害するのに、十分な力を持っているのですから。加えて、恐れられる人は恐れもします。他人に恐れを感じさせておいて、自分は安心して暮らせる、などという人は誰もいません。
5. 軽蔑についてはまだ、言い残していることがあります。軽蔑をうまく扱える人というのは、軽蔑されるべくしてではなく、軽蔑されんとしてされた人であり、その程度を自分で制御することができるのです。軽蔑がもたらす不利益は、立派な仕事ぶりと、優れた人々との友情によって打ち消されます。この友情は有益なものではありますが、治療費の方が高くつくこととならないように程々に保つべきであるという点には、気をつけて下さい。6. しかし、最も有益なことは、静かに過ごすことであり、他人とあまり会話をせず、できる限り自分自身と語り合うことです。というのも会話にはある種の魅力があり、それはたいへん巧妙に惑わすものであり、酩酊や愛欲と同じように、われわれの心の奥を引き出すからです。聞いたことを黙っていられる者はいません。聞いた程度にだけ話すという人もいません。人に話す時には、誰から聞いたかまでも話すでしょう*2。人には誰しも、自分が託されたものを、そのまま託す(ほど親しい)相手がいます。自分自身のおしゃべりに警戒して、ただ一人の相手に聞かせるだけで満足していても、その相手は全ての人に知らせて、つい先ほどまで秘密であったことを今や周知の事実とするでしょう。
7. 心の平静において最も重要なのは、不正なことは何もしないことです。自制心のない人は、混乱した、騒々しい人生を送ることになります。彼らの悪行は恐怖心に裏打ちされたものであり、彼らは決して安らぐことはありません。というのも、彼らは行った後に恐れおののき、当惑するのです。彼らの良心が他のことで気を紛らすことを許さず、絶えず良心に応えるよう苛み続けます。罰を待つ者はそれを甘受しますが、罰に値する者はそれを待たされるのです*3。8. 良心の中にやましいものがある場合、何らかの安全を得ても、安心は決して得られません。なぜなら、たとえ今捕われることはなくとも、いつかは捕われると考えますから。安心して眠ることもできず、他人の罪について話すたび、自分の罪のことを思い出します。それを十分に消し去れたとも、隠しおおせたとも思うことができません。悪行はたとえ隠すことができても、隠し通すことを保証できるものは何もありません。お元気で。
・英語原文
Moral letters to Lucilius/Letter 105 - Wikisource, the free online library
・解説
「罪はそれ自信の内に罰をもつ」というセネカ哲学の中心的な考え方。自分の良心の声に従うことが、心穏やかに生きるための秘訣である。