徒然なる哲学日記

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日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡97 時代の堕落について

 1. 君は間違えています、ルキリウス君。もし贅沢な生活や道徳の軽視、あるいは各人が非難する、自分たちが生きている時代の悪徳が、われわれの時代に特有のものだと考えているのなら。それらは人類の欠陥であって、時代の欠陥ではありません。非難に値しない時代など、存在しませんでした。さらに、各々の時代における放縦さを評価し始めるならば、口にするのも恥ずべきことですが、カトーの眼前において公然と罪が犯されていた時代以上に堕落していた時代はないでしょう。2. クロディウスがカエサルの妻との秘儀の場での姦通によって、民衆のために行われ、全ての男性が聖域から厳しく追い払われ、動物の雄の絵にすら覆いが掛けられる神聖な祭儀を冒涜した罪で被告となった時、裁判で金銭の遣り取りがあったことを、誰が信じられましょう*1?しかし、裁判官たちには金銭が渡され、さらにはそれらの取り引きよりもいっそう恥ずべきことに、有夫の女性たちや名家の青年たちとの淫らな行いが、追加報酬として要求されたのです。3. クロディウスは無罪となりましたが、そのために、姦通罪よりもはるかに重い罪が犯されました。というのも、姦通の罪で告発された被告人が姦通を手配し、裁判官たちを自分と同等の罪人にするまでは、自身の安全を確信できなかったからです。これら全てが、カトーが証人となった(彼が関わったのはこの役割でだけですが)裁判で行われたのです。

 事実はとうてい信じ難いものなので、僕はキケロの言葉*2をそのまま引用します。4. 「彼は(裁判官たちを)呼び寄せ、(金銭を)請け負い、与えた。そのうえさらに、——ああ善き神々よ、なんと嘆かわしいことか!——多くの裁判官たちに、彼らへの報酬の総仕上げとして、或る人妻との姦通や、名家の青年との密会が贈られたのだ。」5. 賄賂のことを嘆くには及びません。追加報酬のほうがもっと悪しきものだったのですから。「あなたはあの厳格な主人の妻をお望みですか?差し上げましょう。あの金持ちの妻をお望みですか?夜の楽しみを保証しましょう。性交が不首尾であれば、私を有罪にして下さい。あなたが憧れていたあの美人が、あなたの元にやって来ます。あなたが彼女と過ごす一夜をお約束しますし、お待たせもしません。私の約束は法廷の判決日、つまり三日後までの間には果たされるでしょう。」姦通の罪を犯すよりも、それを分配する方が大切なのです。しかしこれは、家庭のある女性を脅迫することに他なりません。6. クロディウスの審理における裁判官たちは、自分たちに護衛をつけるよう、元老院に求めました。これは、被告人に有罪判決を下そうとする時のみ必要とされるはずのものです。しかし、この要求は認められました。ですからクロディウスが無罪判決を下された時に、カトゥルス*3は次のような皮肉を言ったのです。「諸君らはなぜわれわれに護衛を求めたのだね?受け取った金を、奪われないようにするためかね?」しかし、こんな冗談が交わされている中にあって、クロディウスは裁判の以前には姦通を行い、裁判中は仲介を行い、当の姦通よりも遥かに恥ずべき行いによって、裁判後は有罪判決から逃げおおせたのです。

 7. これ以上の道徳が堕落があると君は信じますか?色欲が宗教儀式によっても法廷によっても妨げられることなく、元老院の決定により特別に開催されたまさにその裁判において、審理の対象よりも遥かに多くの罪が犯されたのです。審理されていたのは、姦通の後には無罪であり得るのか、ということでしたが、明らかになったのは、姦通が犯されなければ人は無罪にはなり得ない、ということでした!8. これら全ての取り引きが、ポンペイウスカエサルキケロとカトーの眼前で行われました。そうです、彼が出席している時には、人々はフローラの祭日に遊女たちに裸になるよう囃し立てるのを控えたと言われるほどの、あのカトーの眼前で!もっとも、人々は法廷においてよりも、祭りにおいてのほうが節度があったと信ずるならばの話ですが*4。こうしたことは過去に行われ、今後も行われるでしょう。そして都会の人々の性的放縦は、規律や恐怖によって時おり鎮まることはあっても、それ自体で治まることは決してないでしょう。

 9. それゆえ、今の時代のわれわれが、最も多く情欲に従い、最も少なく法律に従っていると、信じる必要はありません。なぜなら、今日の若者は、あの時代の人々よりも、遥かに節度ある生活を送っているからです。つまり、姦通罪の被告人が裁判官たちの面前で無罪を主張し、裁判官は被告人の面前でそれを承認し、確実に判決を下すために恥ずべきことが行われ、クロディウスが自ら犯した悪徳の同罪者たちからの支持を得て、審理の真っ只中に、売春の斡旋屋をしていたあの時代よりも。こんなことが信じられるでしょうか?一つの姦通で罪を問われていた男が、多くの姦通のおかげで無罪となったのです。10. いつの時代にもクロディウスのような男は生まれるでしょうが、カトーのような人物は、どんな時代にも現れるわけではありません。われわれが容易に堕落してしまうのは、悪徳において指導者や助力者に欠けることがなく、またたとえ指導者や助力者がなくとも、悪徳とは自ずと前進するものだからです。悪徳への道はただの下り坂ではなく、断崖です。そして、他のあらゆる技術においては過ちは優れた技術者にとって恥であり、当人に不快感を与えるのに対し、生の技術における過ち*5は、喜びの源となるという事実が、堕落した人々が立ち直ることを妨げるのです。11. 舵手は自分の船が転覆することを喜ばず、医者は自分の患者を埋葬することを喜ばず、弁論家は自分が弁護した被告の敗訴を喜びません。しかしこれとは反対に、人は自分の犯した罪を喜びます。ある人は姦通に喜びを感じますが、それは姦通を遂行する難しさ自体に惹きつけられるからです。ある人は詐欺や盗みに喜びを感じますが、彼が不満を感じるのは、自分の犯罪が不首尾の時だけです。そしてこれらは皆、倒錯した習慣の結果です。

 12. しかしながら、君に理解してほしいのは、最も堕落した道へと導かれた魂の中ですら、善の意識は心の奥底に在り、悪徳について無知なのではなく、無関心であるだけだということです。僕は言います、人は誰しも、たとえ自分の罪を隠して事が上手く運んでも、(自分の中で)罪を押し殺してその結果を楽しむのです。しかし、良心は外に現れて人々に承認されることを望みます。悪はまさに自分が潜む影を恐れるのです。13. ですから僕は、エピクロスの次の言葉は最もだと考えます。つまり、「罪を犯した人は隠れることはできるが、隠れ通せると確信することは出来ない。」あるいは、次のように言い直すことで、意味をより明確にできると思います。「悪人にとって隠れ続けることが何の益にもならないのは、たとえ運よく隠れることができたとしても、それが続くという保証はないからだ。」つまり僕が言いたいのは、犯罪は安全に護られても、人は安全ではいられない、ということです。

 14. 以上の見解は、そのように説明されても、われわれの学派の教えには矛盾しないと、僕は言います。なぜでしょう?それは、罪人に対する最初にして最大の罰は、罪を犯したことそれ自体だからです。そして犯罪は、たとえ運命の恩寵によって飾り立てられ、その中で守られようとも、罰せられないことは決してありません。なぜなら、犯罪の罰とは罪それ自体の中にあるからです。しかしそれでもなお、この最初の罰の後には、第二の罰が続きます。つまり、絶え間ない恐怖、尽きることのない不安、自身の安心が常に脅かされることです。

 それでは僕は、どうして悪徳を、それらの処罰から解放せねばならないでしょうか?どうして彼らを、不安なままにしておかないのでしょうか?15. われわれは、エピクロスが正しいことは自然には生じず、犯罪はそこから生じる恐怖から逃れることができないから避けるべきだという時、この意見に関しては同意することを控えましょう。他方でエピクロスが、悪行は良心の鞭で打たれ、良心は絶え間なく襲い来る不安の波に苦しみ、良心は自分の安全を保証すると言われても、それを信じることができないという時、この意見には同意しましょう。とういうのも、エピクロスよ、たとえ安全な状況になっても不安を感じない人はいないことこそ、われわれは自然本性として罪を犯すのを忌避する証だからです*616. 幸運のおかげで罰を逃れる人は沢山いますが、恐怖を逃れる人は誰もいません。そして、自然が厭うものに対する嫌悪感がわれわれの内に備わっていないならば、どうしてこうであり得ましょう?ですから、自分の罪を隠している人たちも、隠し通せるとは決して期待できません。なぜなら彼らの良心が有罪の判決を下し、彼ら自身に罪を知らしめるからです。しかし恐れは罪に付随します。もし自然に基づく厳格な罰金が即座に支払われることなく、処罰として苦痛の代わりに恐怖が生じることもなかったら、法の処罰と定められた刑罰を逃れる多くの犯罪により、われわれは遥かに悪しき存在になっていたことでしょう*7。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 97 - Wikisource, the free online library

・解説

 クロディウスという人物の姦通罪の流れが面白い。セネカの著作はこうした生々しい描写が多いことから、説得力があるのである。また、「罪はそれ自体の中に罰を含む」というのはスピリチュアルでいう「カルマの法則」の真の意味でもある。悪人はその愚かさにより、既に自分で自分を罰しているのである。だから、良心の声を聞かないものが、安全であることはあり得ない。たとえあの世に逃げっ切っても、今度は死後の魂が良心に苦しんで懲罰を望み、それに相応しい来世を自ら望むのである。

 

 

 

 

 

*1:プブリウス・クロディウスは貴族出身の厚顔無恥の人物で、カエサルの妻と不貞を続け、前62年の12月4日の夜、男性禁制のボナ・デアの秘密の祭儀の場で事に及ばんとし、冒瀆神罪で裁判となった。しかし後述の通り裁判官を味方につけ無罪になった。

*2:キケロ「アッティクス宛書簡集」1.16.5

*3:前78年の執政官で、前65年の監察官。後述のような皮肉を述べたのは、自分も同じ形で篭絡されたことを誤魔化すためとも言われている。

*4:姦通がばら撒かれた法廷は、裸を喜ぶ祭りにすら遥かに劣るとセネカは言いたい

*5:道徳の堕落

*6:エピクロスは正しいことは自然に生じないと言っているが、セネカは人間は自然本性として良心を持っており、それが犯罪を自ずと裁くと言っている。

*7:もしも良心の呵責がなければ、われわれは本当に救いようがない存在だっただろう、という意味か