徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡48 哲学者にふさわしくない詭弁について

 1. 旅の途中で君がくれた手紙への回答は―—旅と同じくらい長いものですが―—また後日お返しすることにしましょう。僕も引きこもって、君にどんな助言をするべきかを考えなければなりません。僕に相談する君の方でも、相談すべきかどうか長い間考えていたのですから、僕はなおのこと熟慮せねばなりません!問題を提起する時よりも解決する時のほうが、より多くを考えなければなりませんから。これは、君にとって有益なことと、僕にとって有益なことが異なる場合は、いっそう真実です。2. 僕はまたエピクロス派のように話していますか*1?しかし実際のところは、同じものが、君にとっても僕にとっても有益になります。君に関係のある問題が僕に関係がないというなら、僕は君の友人ではないことになりますから。友情は、われわれの全ての関心事の間に連帯を生みます。幸運も不運も、個々人のものではなく、われわれは共に生きています。そして、自分のことのみを考え、全てを自分個人の有用性に関連付けて考える人物が、幸福に生きることはできません。もし君が自分のために生きたいなら、他人のためにも生きねばなりません。3. こうした連帯は誠実に保たれることで、われわれを友として互いに交わらせ、人類には共通の法があることを教えてくれます。そして、友情の上に成り立つ信頼を、より親密で、深いものにしてくれます。仲間と多くの共通点を持つ人は、多くのものを友人と共有していることになりますから。

 4. そしてこのことについて、僕の優秀なルキリウス君、僕はあの細かい弁論術を披露する連中に、「友人」という言葉は何通りの使い方があるか、「人間」という言葉には幾通りの意味があるのか、といったことではなく、僕は友人のために何をすべきか、人間のために何をすべきかを教えて欲しいと思っています。そら、英知と無知は反対の側に立っています。僕はどちらにつくべきでしょう?どちらにつけと、君は命じますか?片や、人は友人のために生きますが、片や、友人は人のために生きません*2。前者は友人の利益のために自分を役立てますが、後者は自分の利益のために友人を役立てます。君は僕の言葉を歪め、音節を壊しています。5. 非常に巧妙に問題を定義し、真実から導かれた虚偽の理論を付け加えない限り、求むべくことと避くべきことを区別することが不可能なのは明らかです*3!僕は恥ずかしく思います!重要な問題を扱っているのに、われわれのような老人が、それをからかいの種にしているのですから!

 6. 「ネズミ(という言葉)は音節である。ところで、ネズミはチーズを齧る。ゆえに、音節はチーズを齧る。」この問題を解決できないとして、こんな馬鹿げた理屈の結果僕の身にどんな危機が訪れるでしょうか!どんな難儀に巻き込まれるでしょう!間違いなく僕は、いつかネズミ捕りで音節を捕まえることや、うっかりして本(に書かれた音節)にチーズをつまみ食いされることを心配せねばならなくなります!次の三段論法が、さらに鋭いものでなければの話ですが。「ネズミ(という言葉)は音節だ。音節はチーズを齧らない。ゆえに、ネズミはチーズを齧らない。」7. なんという子供じみた戯言でしょうか!われわれはこんな類の問題のために、眉を寄せるのでしょうか?こんなことのために、われわれは髭を長く伸ばしたのでしょうか?こんなことをわれわれは、蒼白した悲壮な表情をして教えなければならないのでしょうか?

 君は、哲学が人類に何を約束するか、知りたくはないのですか?それは助言です。死はある人を呼び寄せ、貧困はある人を苛み、別のある人は、他人の財産または自分の財産に不安を抱かされます。ある人は不運を恐れますし、ある人は自分の幸運から逃れ去りたいと思っています。人に苦しめられる人もいれば、神に苦しめられる人もいます。8. であれば、どうして君は僕に先のようなお遊びを持ちかけるのですか?こんな児戯をしている場合ではありません。君は不幸な人達の助言者として雇われているのです。君は難破した人々、捕虜になった人々、病や貧困に苦しむ人々、まさに振り下ろされる斧の下に首がある人々の、助けになると約束しました。君はどこで油を売っているのですか?何をしているのですか?

 君が遊んでいる相手には、恐れているものがあります。彼を助けて、首にかけられた縄を外してあげて下さい。四方八方から、君に懇願する手が伸びています。破滅した、あるいは破滅の危機に瀕した人生が、助けを求めています。彼らの希望も、彼らの恃みも、君にかかっているのです。彼らは君が、全ての動揺から彼らを解放し、移ろい彷徨っている彼らに、真実の全き光を明らかにしてくれることを望んでいます。9. 彼らに教えてあげて下さい、自然は何を必要なものとし、何を余分なものとしたのかを。自然が定めた法則はいかに単純であるか、それに従う人にとって、人生はどれほど喜ばしく困難の少ないものになり、自然よりも個人の見解に信を置くものにとって、どれほど苦しく混乱したものになるかを。

 あのような論理遊びにも、いくらか気晴らしになる点があることは承知しています。もちろん気晴らしであることを予め教えて頂ければの話ですが。これらのお遊びの内に、われわれの欲望を追い払うものはあるでしょうか?欲望を制御するものはあるでしょうか?それらはただ無益で、有害なものに過ぎません!君がお望みとあれば、僕はいつでも全く明らかにしてあげるのですが、こうした緻密な屁理屈に関わると、高貴な精神は弱められて、損なわれます。10. 彼らが、戦いに赴く運命にある人々にどんな武器を提供しているか、それはどれほど貧弱な装備であるか、口にするのも憚られます!これが、最高善へと至る道だというのでしょうか?法律の解説者*4にとっても不名誉であり非難の対象となるような、そういったふざけた言い回し*5や屁理屈によって、哲学を進歩させることができるでしょうか?君たちのしていることは、問いをかけられた相手が、自分は法律の解釈の過ち故に敗訴したと思い込むよう罠にかけること以外の何だというのでしょう?しかし、裁判官がこんなことで敗訴した人に再審を認めたのと同じように、哲学はこれらの屁理屈の犠牲者たちを元の状態へと復活させました。11. どうして君たちは、偉大な約束を放棄するのですか?僕が黄金の輝きも刀剣の輝きも恐れないようにしてくれると、全ての人が望むものも全ての人が恐れるものも、僕が不動心を持って踏みつぶせるようにしてくれると、高尚な言葉で誓ってくれたのに、どうして覚えたての衒学者のような存在になり下がるのですか?君たちは何と答えますか?

これが、星へと至る道だろうか?*6

 じっさい哲学は、僕を神と同等にすると約束してくれました。このために僕は招かれ、このために僕は来たのです。哲学よ、約束を守って下さい!

 12. ですから、愛するルキリウス君、きみは自称哲学者たちのこれらへの異論や反論からは、できる限り身を遠ざけて下さい。真の善に相応しいのは、率直さと簡潔さです。たとえ何年もの時間が残されていても、必要なことに十分に時間を費やすためには、君は節約するべきです。しかし実のところ、君に残された時間はわずかなのに、余計なことを学ぶとは何と狂っているのでしょう!お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 48 - Wikisource, the free online library

・解説

 下らない言葉遊びや用語のどうでもいい解釈に無駄な時間を費やしていないで、本当に大切なことを説け、ということ。なまじ豊かになって暇になった分、現代人もどうでもいい言葉遊びに時間を費やすようになった。特にツイッターのように短文で言葉の脊髄反射的なやりとりがなされる場では、意味のあるやりとりを探す方が難しい。ツイッターなんかやってる暇があったら、一行でも多く本を読んで、一文でも多く文章を書く方がいいだろう。匿名掲示板のほうが、まだ生産性のあるやり取りが期待できる。

 

 

 

*1:エピクロス派は友の利益を自分の利益と同一視しなかった。

*2:前者=ストア派では、友人をしっかり選び、その人のために生きるが、後者=エピクロス派では、友人と呼ばれる人ですら、互いを利用しあってるだけだという意味

*3:「友人」とは素晴らしく、求むべきものだが、それを証明するために、エピクロス派のように、「友人は人のために生きない」という、本来あってはならない逆説的な論法を用いらざるを得ない、ということ。一文前の「言葉を歪め、音節を壊す」という意味は、「友人」という言葉を誤って使わない限り、エピクロス派の悪い点が説明できない、ということ

*4:いわゆる弁護士

*5:「そうであるなら、あるいはそうでないなら」というふざけた言い回しは、法律文書にあり論理学者に当たり前のように使われていた。

*6:アエネイアス9.641