徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡45 屁理屈の多い議論について

 1. 君は今いる所では、書物が充分にないとこぼしています。しかし、読書はその量ではなく質が重要です。これと決めた書物を読むことは有益ですが、色んな種類の本を雑多に読むことは、気晴らしにしかなりません。目標とした地点に到達することを望む者は、多くの道を彷徨うのではなく、一つの道を辿らねばなりません。君の言うそれは道を歩むことではなく、片手間に通り過ぎることです。

 2. 「しかし」君は言われる。「頂きたいのは忠告ではなく本なのですが。」もちろん、僕は持っている全ての本を君に送るために、書庫をくまなく探しています。可能であれば、僕自身もそちらへ送りたいと思っています。そして、君がもうすぐ任期を終えるのでなかったら、僕は自分自身に老身での旅を課していたことでしょう。スキュッラやカリュブディス、あるいはそれらがあるかの名高い海峡も、僕を怖気づかせることはできなかったでしょう。僕はそれらの水域を、ただ渡るだけでなく、泳いででも渡りたいと思ったでしょう。君を抱擁でき、君の精神がどれだけ進歩したかを直に判断することができるというなら。

 3. 君は僕の本をお望みのようですが、僕は自分を著名な文筆家だとは思っていません。僕の肖像に、何ら美術的価値がないのと同じように。それが君の判断力のためではなく、僕への好意のためであることは分かっています。たとえ判断力のためであった所で、君にそのような判断を強いたのはひいき目です。4. しかし、僕の本を読む際には、それがどんな出来であっても、僕がまだ真理を探し求めており、それを見つけられずとも、未だにしつこく探し回っていることを忘れないで下さい。僕はまだ誰にも僕自身を〔奴隷として〕売り渡していませんし、誰を師〔主人〕と仰ぐつもりもありません。僕は偉大な人々の判断力に大いに信を置いていますが、自分自身に判断力を求めます。なぜなら、これらの人物も、明確な答えがなく、解決が未だに得られていない問題を、われわれに残しているからです。余計なことを求めていなければ、おそらく彼らも解決に必要なものを見つけていたことでしょう。5. 彼らは用語についての口論や、屁理屈だらけの議論に多くの時間を費やしました。そういったことは全て、英知を無意味に疲弊させるだけです。われわれは結び目を作り、言葉に二重の意味を持たせて結びつけ、それをほどこうとするのです*1

 われわれにこんなことをしてる暇があるとお思いですか?われわれは既に、どのように生きればよいか、どのように死ねばよいかを理解したと言うのですか?むしろ、事物や用語に惑わされないことを責務とできるようになるまで、魂全体を進歩させなければなりません。6. どうして君は類似の言葉の区別を僕に求めるのですか?議論の対象にでもしない限り誰も欺かれはしないのに。われわれを惑わせるのは実際の事柄です。君は事柄の間を、区別せねばなりません*2。われわれは善い事柄よりも、悪い事柄を好みます。過去に祈ったこととは正反対のことを祈ります。われわれの祈りは自分でぶつかり合い、われわれの計画も自分でぶつかり合います。7. 阿りは友情と何とよく似ていることでしょう!それは友情を真似るのみならず、打ち負かし、足蹴にします。篭絡されただらしのない耳から喜んで受け入れられ、心の奥深くを捉え、害を及ぼす対象を的確に喜ばせます。こうした類似を見極める方法を教えて下さい!友人を装った敵が僕のところに来て、お世辞を言うのです。悪徳は美徳に名の下にわれわれの心に忍び込み、無謀さは勇敢さという呼称に身を潜め、節制が怠慢と言われ、臆病さが賢明さと見做されます。こうした事柄に関してわれわれが道を見誤ると、大きな危険に晒されます。ですから、これらははっきり区別すべきです。

 8. ところで、頭に角があるかと尋ねられて、自分の頭を触って確かめるほど愚かな人などいません。また、相手がその事実(角を持っているという)を知らないだけだという緻密な論法に騙されるほど*3、愚かで神経質な人もいません。こうした屁理屈はいかさま師のカップやサイコロのように無邪気にわれわれを欺きますが、単に仕掛けが面白く見えるだけで、ひとたび種明かしをされると、僕はもう興味を失います。そして、同じことが先ほどの小賢しい言葉遊びにも言えます。そうした屁理屈を、他のどんな名前で呼べばいいでしょう?こんなことは知らなくても害はなく、習得していても何の益にもなりません。9. いずれにせよ、君がこうした曖昧な議論をふるいにかけたいのであれば、幸福な人とは、大衆が幸福だと見做す人つまりは、莫大な財産が金庫に流れ込む人ではなく、次のような人であると教えて下さい。自らの所有物は全て魂の中にあり、誠実で高潔で、一貫性を持ち、自分と地位を交換したいと思うような人を探すこともなく、人の価値を人そのもので判断し、自然を師と仰ぎ、自然の法則に従い、命じた通りに生き、いかなる権力も彼のものを奪うことはできず、悪を善へと導き、判断を誤ることなく、落ち着きがあり動揺することなく、何らかの力に動かされることはあっても、決してそれに惑わされることはなく、運命がもたらしうる最も恐ろしい矢に最大の力で射らても、それは彼をかすめるだけで、傷を負うことはなく、負ったとしても稀であるような人物です。また、運命の他の種類の矢は、普通の人はそれに打ち負かされるのですが、彼のような人物には跳ね返されます。ちょうど屋根を打ちつける雹が、住む人に害を与えることなく溶けてしまうように。

 10. どうして君は、君自身が「噓つきの」誤謬と呼んでいる論法*4で、僕をうんざりさせるのですか?そうしたことを書いている本は沢山あるのに。さあ、僕の人生全てが嘘だとしてみて下さい。それが嘘であることを証明し、君が充分に賢ければ、それを真実のものに戻してみて下さい。今や、重要だと思われているものの大部分は、不要なものです。そして、不要でないものでさえ、人を幸福にして豊かにすることに関しては無力です。あるものが必要不可欠であっても、それが善いものということにはなりません。もしそうではなく、われわれがパンや大麦粉や、その他の生活に必要なものにその名を冠するなら、「善いもの」という意味が損なわれます。11. 善はいかなる場合でも必要なものですが、必要なものが必ずしも善ではありません。実際、必要だけれど無価値なものがありますから。「善い」という言葉の高貴な意味を、これらのありふれた生活必需品の地位まで貶めるほど無知な人などいません。

 12. では、どうでしょう?君はむしろ、余計なことを求めることは多大な時間の浪費を意味し、多くの人が単に人生に必要なものをかき集めるだけで人生を終えたことを、多くの人に示すことに注力すべきではないでしょうか?個々の人々について、全体の人々について考えてみて下さい。誰も明日に目を向けない者はありません*513. 「それに何の害があるのですか?」君は言われる。限りない害があります。そのような人は生きているのではなく、生きる準備をしているからです。彼らはあらゆることを先延ばしにします。細心の注意を払っていたとしても、人生はわれわれを追い越していきます。しかしわれわれは人生において、あたかも他人のそれが側を通り過ぎているかのように、ぐずぐずしています。そして、人生は最期の日に終わりますが、われわれは毎日死んでいるのです。

 しかし、僕は君の左手をいっぱいにすることのないよう、手紙の限度を超えないようにしましょう。そこで僕は、あの屁理屈屋たちとの議論は、後日に引き延ばすことにしましょう。細かすぎるこの連中は、議論に熱中しても、議題に熱中することはありません。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 45 - Wikisource, the free online library

・解説

 用語の意味をいじくり回す、無益な問答論法は時間の無駄だし慎め、ということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:後述の、A=B,B=Cだから、A=Cという屁理屈。実際は=ではなく⇒である場合が多い。少なくとも「AはBである」は「A=B」とは表記できない。書簡48にある一例では、「ネズミという言葉は音節である。ネズミはチーズを齧る。故に音節はチーズを齧る」

*2:後述のように、例えば友情と親しみの言葉の意味の違いを細かく詮索するのではなく、友情と阿りという似て非なるものをしっかり見極めろ、ということ

*3:メガラ派のエウブリデス〔前4世紀〕の有名な詭弁。「君の失わなかったものは、これを持っている。君は角を失わなかった。それゆえに君は角を持っている」

*4:エウブリデスの論法で、「君が嘘をついていると自分で言うなら、『俺は嘘をついている』という君の発言も嘘ということか」という永遠に終わらない屁理屈

*5:「生きるうえでの最大の障害は期待である。期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。」人生の短さについて9.1