徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡38 静かな会話について

 1. 僕たちが手紙での互いのやりとりをもっと増やすべきだという君の意見はごもっともです。しかし、もっとも有益なものは会話から得られます。それは少しずつ魂に入り込んでいきますから。事前に準備され、大勢の前で行われる講義には、沢山の音声はあるかも知れませんが、親密さは欠いています。哲学はよき助言になりますが、誰も声を大きくするだけでは助言を与えることはできません。もちろん、まごついてる者に拍車をかける必要がある時には、こうした長演説も有用です。しかし、その目的が人に学ばせること、あるいは学びたいと思わせることであれば、われわれは控えめな会話に頼らねばなりません。そうした言葉はより円滑に受け入れられ、心に残ります。われわれは多くの言葉を必要としているのではなく、効果的な言葉を必要としていますから。

 2. 言葉は種のように撒くべきです。どんなに小さな種でも、ひとたび好適な土壌を見つけたら、その真価を発揮し、取るに足らない存在から最大の成長を示す存在へと育っていきます。理性もこれと同じように育ちます。外側から見ただけでは大きくありませんが、その働きを示すにつれて大きくなっていきます。語られる言葉が少なくても、心が本当にそれらを捉えた場合、それは力となり、大きく伸展します。そうです、助言と種は同じ性質を持っています。それ自体は小さいにも関わらず、それらは多くのものを生み出します。僕の言う通り、ただ好適な心にそれらを受け入れ、同化させて下さい。そうすれば、今度は心も自分自身が豊かに生み出し、受け取った以上のものを返します。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 38 - Wikisource, the free online library

 大勢の前で語られる仰々しい抗議や説教よりも、親密な間柄で交わされる静かな会話の中の言葉のほうが、深く心に染み込むというもの。学校の先生がドヤ顔で語ることなど心に響かないが、親密な先輩などがぽつりぽつりと優しく語ってくれる言葉は、よき助言になりやすい、みたいな感じだろう。