徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡3 真の友情と偽の友情について

 1. 君は「友人」と君が呼ぶ人に手紙を託し、僕に届けさせました。しかし君はまさにその手紙の中で、僕に彼と君に関するどんなことについても話し合ったりしないようにと書きました。君も普段そんなことはしないから、と。これはつまり、同じ手紙の中で、彼を友人であるともそうでないとも言っていることになります。もし君が、我々ストア派にとって特別な意味を持つ言葉を、世間一般で使われるように、つまり、彼を「友人」と呼んだのは、我々が全ての政務官候補者を「立派な人物」と呼んだり、普段出会うすぐに名前を忘れてしまうような人達に親しく挨拶をしたり、手紙の冒頭の挨拶に、「親愛なる~」と書いたりするのと同じようなものだというのなら、それはそれで結構です。2. しかしもし君が、君自身を信頼するように信頼できない人間をすべて友人と思うならば、君は大きな過ちを犯し、真の友情の意味を十分に理解していないことになります。実際君は、あらゆることを友人と一緒に考えなければなりませんが、真っ先に考えるべきは、彼が信頼に値するかどうかです。一度友情が結ばれたなら、彼を信じぬきなさい。それは、結ぶ前にすることではないのです。実際、判断した後で友情を結び、結んだ後で友情を判断するべきでないというテオフラストス*1の教えに反し、この順序を逆にする人たちは、なすべきことを混乱させます。誰かを友人に数え入れる時には、熟慮がなされねばなりませんが、一度友情が結ばれたなら、君は彼に心の内を全てさらけ出す必要があります。君自身と語り合うように、何でも彼と語りなさい。3. 君にも、君の敵に何一つ打ち明けられないかのように自分自身を信頼できなくなったり、しきたりゆえに人に打ち明けられないような問題が生じることがあるでしょう。そんな時はその友人だけに、心配と不安の全てを打ち明けるとよいでしょう。君が彼を誠実な人物と見做せば、彼のほうでもそれに応えてくれます。実際、裏切られることに対する恐れが、裏切りを作るものなのです。疑いの目を向けることそのものが、裏切りの権利を与えることになるのですから。友人の前で、どんな言葉を差し戻しする必要があるのでしょうか?彼と共にいるのは、自分一人でいるのと何ら変わらないと、考えていけない理由があるのでしょうか?

 4. 出会った人全てに、友人にだけ打ち明けるべき事柄を伝え、よい機会とばかりに自分を悩ませるものを何でも押し付けるような人達がいます。またある人達は、自分が親密にしている人を信頼することを恐れ、できることなら自分自身すら信頼せず、秘密を心の奥深くに隠してしまいたいと考えます。どちらもよろしくありません。全ての人を信頼することも、誰一人信頼しないのも、どちらも間違いだからです。前者は率直さゆえ、後者は堅実さゆえの過ちと言えるでしょうけれども。5. 君は、このような人物のどちらの態度も非難するようにしましょう―—休息が欠けている人も、休息が過ぎる人も。忙しなさを愛することは勤勉ではなく、駆り立てられた心の落ち着きのなさです。真の休息とはあらゆる活動を煩わしさとして非難することではありません。それは休息ではなく弛んだ怠慢な心です。したがって、君は僕が読んだポンポニウス*2の次の言葉を心に留めて下さい。「ある者達はあまりに暗い場所に逃げ隠れたので、日中ですらあらゆるものが暗闇に閉ざされている。」これらは互いに混ぜ合わされなければなりません。休息が過ぎるものには活動が、活動が過ぎるものには休息が必要です。自然に問うてみると彼女はこのように言います―—自分は昼と夜を作った―—と。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 3 - Wikisource, the free online library

・解説

友情に関するセネカの哲学は、この後の書簡でも奥深いものが多い。

 

 

*1:アリストテレスの弟子。『植物誌』が有名

*2:前90年ごろ活躍した劇作家