徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡57 旅の試練について

 1. バイアエからナポリに帰る時になって、僕は嵐になるのが容易に予測できたので、海路は避けようと考えました。けれども、陸路はどこも泥濘んでいたので、やはり船旅をしたのではないかと〔人から〕思えるほどでした。その日僕は、格闘選手の受ける運命の全てに耐えねばなりませんでした。まず「油」を塗りたぐられ、続いてナポリの洞穴で砂まみれになりました*12. その道はどんな牢獄より長く、そこでの松明は何よりも暗いものでした。この松明により暗闇の中で見えるようになるのではなく、暗闇そのものが見えるだけでしたから。しかし、仮にそこに光があったとしても、外であっても重苦しく不快なものである砂塵が、光を遮ったことでしょう。砂塵は同じところを回り、風の通らない所に閉じ込められ、追い払っても返ってきて顔に吹きつけます。ですから僕らは、二つの苦難に同時に耐えたのですが、それは正反対の種類のものでした。同じ日に、同じ道で、泥と砂塵のどちらとも戦いました。

 3. しかし、この暗闇は僕に思考の糧を与えてくれました。不慣れな出来事の目新しさと不快さのために、ある種の精神的な衝撃と、恐れを伴わない変化を抱きました。僕が今君に話しているのは、自分のことではありません。僕は完全な人物にはほど遠いし、その途上にある者ですらないからです。僕は運命が、その支配権を及ぼすことのできない人物について言及しています。そしてそんな人物の心でも、時には衝撃に打たれて、その様相を変えます。4. というのも、親愛なるルキリウス君、勇敢さがあっても避けることのできない、ある種の感情というものがあるからです。自然は自身が持つ死すべき性質を、勇気に思い出させます。ですからこうした人物であっても、悲しい事には顔をひそめ、突然の出来事には身震いし、高い断崖のへりに立って下を見下ろすと、眩暈を起こします。これは恐怖心とは言いません。理性が打ち負かすことができない自然な感情です。5. このため、自分の血を流すことは恐れない勇敢な人物であっても、他人の血をみることができないことがあります。新しく傷ができることで、倒れて気を失う人もいますし、化膿した古傷が処置されるのを見て、同じように卒倒する人もいます。また、剣の一撃を受けることの方が、それを見るよりも容易であるという人もいます。

 6. したがって、先ほど申しましたように、混乱ではない、ある種の変化が僕に起こりました。その後、ようやく陽の光が微かに見えてきた時、僕の心の活力は、思いがけず、自然に戻ってきました。そして僕は次のことを熟考するに至りました―—すべての物事は同じように終わりを迎えるのに、或る対象を多かれ少なかれ恐れるのはどれほど愚かであろうか、と。われわれの頭上に、見張り塔が崩れ落ちるか山が崩れ落ちるかに、どんな違いがありますか?何ら違わないことはお分かりでしょう。とはいえ、どちらの災も同じく致命的ですが、後者をより大きく恐れる人もいます。ですから、恐怖は物事の効果ではなく、効果の原因に目をやるというのは真実です。7. 僕は今、ストア派の学徒の考えを言っているとお思いですか?彼らは、人間の魂は耐えきれないほどの重量を受けると圧し潰され、形を留めることができなくなり、それまで抑えつけられていたために、直ちに飛散すると主張します。しかし僕は、この意味で言ってるのではありません。僕にしてみれば、この考えは間違っています。8. 火は抑えつけるものの端から逃げ出すので、圧し潰すことはできませんし、空気は打ちつけても叩いても、傷つけることも、切り刻むこともできません。これと同様に、最も微細な粒子からなる魂は、肉体の内にあっても、捕縛されることも、破壊されることもなく、その微細さのお陰で、魂を圧し潰そうとする物体そのものを通り抜けて、逃げおおせるでしょう。稲妻が、どれだけ広範囲を打ち閃光を放っても、小さな隙間を通って戻る*2のと同じように、炎よりもなおいっそう精妙な魂は、肉体のどの部分からでも逃げ道を見つけることができます。9. したがって、問われるべきなのは、魂が不死であるのかどうか、という問題です。しかし、次のことは確かです。すなわち、もし肉体が滅びた後に魂が存続するなら、それは不滅の存在なので、決して圧し潰されることはありません。不死の法則は例外を認めず、永遠の存在に害を与えることができるものは何もないからです。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 57 - Wikisource, the free online library

・解説

 一つ前の書簡に続いて、ここでもセネカが日常の出来事に対する愚痴から永遠のテーマへと発展させている。そして、ユーモアを保ちながらも、扱っている内容は深い。洞窟の中での恐怖を催す出来事から学び、魂の永続性をより強く確信するようになった、ということ。物事のあらゆる帰結は滅びであるが、魂は永遠の存在で滅びることはないのだから、どんな恐ろしい物事(暗闇で泥や砂まみれになることのような)に遭遇しても、何も恐れる必要はないということ。最後の段落から、セネカは魂の永続性を、ほぼ確信していたことが読み取れる。そして、それは2000年後に生きるわれわれですらまだ確信をもって勇敢に生きることができずにいるが、確かな真実なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:格闘選手は、皮膚に油を塗って柔らかくし、手が滑らないように砂をかけた。ここでは「油」は泥を意味し、「砂」はナポリの黄砂を意味する。

*2:「『貫通する電光』は、微細で炎のようであり、その無垢で純粋な炎の稀薄さゆえに、非常に狭い穴を通って逃げていく。したがって、打撃が起きた時に入っていった穴を通って引き返して出ていく。」自然研究2巻40.1