徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡30 征服者を征服することについて

 1. 僕は、あの素晴らしい人物バッスス・アウフイディウス*1が健康を損ない、老年と闘うのをみてきました。しかし、それは既に彼に重くのしかかっているので、彼は立ち上がることはできません。老年期は彼に多大な影響を及ぼしました、そうです、全ての重みをもって。君も知っての通り、彼の体はいつも元気を失い、痩せ細っていました。長い間、彼はその体を保持して、あるいはより正確に言うと、堅持してきましたが、突如として崩れてしまいました。2. 水漏れが生じた船のように、一つか二つの裂け目はいつでも塞ぐことができますが、多くの箇所が裂けて水が一気に流れ込むと、大きな穴が空いた船体には、もう成す術がありません。これと同じように、老いた体には、その弱さに耐えて、支えられる一定の限度があります。しかし、それが老朽化した建物——全ての接合部が緩みはじめ、一つを修復してる間に別の接合部が崩れ出します―—のようになると、自分の周りを見回して、どのように脱出*2するかを考えるべき時がきたということです。

 3. しかし、われらが友人バッススの心は活力に満ちています。そしてこれは、哲学により与えられる恩恵です。哲学のお陰で、われわれは死を前にしても喜びを抱き、体がどんな状態でも不屈さと勇敢さを失わず、たとえ肉体が衰えても、快活で、衰えることを知りません。優れた舵手は、帆が破れても航海を続けられます。艤装*3を失っても、残った船体を巧みに操縦し、航路を守ります。これこそわれらが友人バッススが行っていることです。そして彼は、他人のそれについて考えるかのようにとても平静な顔つきで、勇敢に、自分の死について考えます。

 4. これはとても偉大なことです、ルキリウス君。そして、このことを学ぶには長期の訓練が必要です―—避け得ぬその時が来たら、心穏やかに立ち去るために。他の種類の死には、いくらかの希望が混ざっています。病気には終わりがあるし、火は消されます。倒壊した家屋は、確実に押しつぶしたと思われた人々を安全に横たわらせました。海は、引き込んだのと同じ力で、飲み込んだ人々を無傷で海岸に打ち上げました。兵士は宿敵のまさに喉元に突きつけた剣を引っ込めました。しかし、老年が死へと導いてる人には、何も希望はありません。老いだけは、免除されることがありません。確かにこれほど苦痛のない死はありませんが、これほど長引く死もないのです。

 5. われらが友のバッススは、あたかも自分の葬儀に参列し、埋葬のために自らの死体を横たえ、自分の死を生き延びたかのように生き、賢者にふさわしい諦念を持ちながら、自らの旅立ちの悲しみに耐えているように見えました。彼は死について多くのことを語り、その過程に厭わしく恐ろしいものがあるというなら、それは死そのもののせいではなく、死にゆくその人のせいであること、過ぎ去った後と同じように、まさに死の瞬間にも何も不都合なことなどないことを、僕たちに得心させようと懸命に試みていたのですから。6. 「まったく狂っている」彼は続けて言います。「起きたとしても何も感じないことを恐れるのは、起きないことを恐れるのと同様に。」それとも、感じなくなることそのものに苦痛を感じる、などと考える人がいるでしょうか?「したがって」バッススは言います。「死はあらゆる悪を超越しているゆえ、悪へのあらゆる恐怖も超越している。」

 7. 僕は、これら全ての言葉がしばしば語られてきて、これからもしばしば繰り返されるべきであることを知っています。しかし、僕がそれらを読んだだけの時は、そうした教えは、さほど僕の心に響きませんでした。恐れるべきではないと宣言したこと*4への恐怖から離れて安全な所にいる人々の口から聞いた時も。しかし、この老人が死と、それが近づいていることについて語ったことは、僕にとても重くのしかかりました。8. というのも、僕自身の考えを述べさせて頂くと、僕はまさに死の瞬間にいる人の方が、死が近づいている人よりも勇敢だと考えているからです。死がわれわれの目の前にある時、未熟な者にさえ、避け得ないことは避けようとしないだけの勇気を与えます。なので、戦いの間どれだけ怯えていた剣闘士も、相手に喉を差し出し、揺らめく剣に急所を定めさせます*5。しかし、近い将来に迫っていて、必ずやってくる最期に対しては、魂の粘り強い勇敢さが必要です。これは滅多に見られないもので、これを示すことができるのは賢者だけです*6

 9. そういう訳で、僕はバッススの話をとても嬉しい気持ちで聞いていました。彼は死についての彼の考えを述べ、それが観察された時、いうなれば近い将来に迫った時、どのようなものであるのかを説明しました。もし死から生き返り、その経験から死には何も悪いことはないと宣言する人物がいたら、君はその人を大いに信頼し、その言葉に重みを感じたであろうと、僕は思います。死の接近がどのような不安をもたらすかは、その道に立っている人、その到来を見て受け入れた人が、君にもっともよく伝えます。10. バッススはこうした人物に数え入れられます。そして彼は、われわれを欺くつもりはありません。彼は、死を恐れることは、老いを恐れることと同じくらい愚かだと言います。なぜなら、老年が青年に続くのと全く同じように、死が老年に続くからです。死ぬことを望まないものは、生きることを望まなかったものです。というのも、われわれには死の約束があるからこそ、生が与えられているのです。この目的に向かって、われわれの道は続きます。したがって、それを恐れるとはなんと愚かなことでしょう!単に確かなことを待ち受け、恐るべきは不確かなことだけだと言うのに!11. 死はそれ自体に定められた法則があります―—それは公平で、避けられないものだということです。全ての人が従うべき条件に支配されているのに、文句を言う人があるでしょうか?平等は公平であるための、第一条件ですから。

 しかしここで、自然の因果を弁じるのは余計なことです。自然はわれわれの法則を、自らの法則と一致させました。即ち、自然は自らが作り上げたものを分解し、分解したものから再び作り上げます*712. そしてさらに、突然人生から引き離されるのではなく、少しずつ退いていくように、老年によって穏やかに立ち去っていく運命にあったら、その人は、ああ、本当にあらゆる神々に感謝せねばなりません。彼は満足して、人類のために定められた休息、疲れ切った人に歓迎される休息へと、連れて行かれるのですから。君は、命乞いをするよりももっと切実に、死を望む人を見つけるかも知れません。そして、次のどちらの人物が、われわれにより大きな勇気を与えてくれるでしょうか?死を切望する人か、或いは前向きに静かな気持ちでそれに立ち向かう人か。前者の心は狂気や突然の怒りに触発されることがありますが、後者の心にあるのは確固たる判断力から生じる落ち着きです。怒り狂って死を迎える人はありますが、死が訪れた時、それを喜んで歓迎したのは、長きにわたって死のために、自分自身を落ち着かせていた人だけでした。

 13. したがって、僕はこの敬愛すべき友人を多くの口実をもってより頻繁に訪ねたことを認めますが、それは、彼がいつも変わらないでいるか、彼の精神力が体力に伴って衰えるということがあるのかを、確かめるためでした。しかしそれは衰えるどころか強さを増していました。あたかも戦車競走の選手の喜びが、第七周目に入って優勝が近づくとより明確なものになるように。14. 実際、エピクロスの教えに従い、彼はよく次のように言っていました。「私は第一には、息を引き取る瞬間に苦痛がないことを望む。しかし、もしあれば、その非常に短い中に慰めを見出すだろう。というのも、大きな苦痛は長くは続かないのだから。そしていずれにせよ、肉体と魂がばらばらに引き離されるその瞬間に、安らぎを見出すことだろう。その過程が耐えがたい苦痛だったとしても、その苦痛が終わった後は、もう苦痛を感じることはないと考えて。しかし私は、老人の魂はまさに唇の先にあり、それを体から引き離すにはほんの少しの力で済むことを知っている。燃えやすいものに移った火を消すには、水をかけるか、時には建物全体を倒すことが必要になる。しかし、燃料が不足していれば、火は自然に消えてゆく。」

 15. ルキリウス君、僕はそうした言葉を、喜びをもって聞いています―—僕にとって聞き慣れないことではありませんが、僕を現実の真実へと導きます。それでは、僕は多くの人が生命の糸を断ち切るのを目にしてこなかったでしょうか?僕は確かに、そうした人たちを見てきました。しかし、生を嫌うことなく、死に近づいて引き寄せるのではなく、言うなれば死を受け入れる人は、僕にとってはより偉大です。16. バッススはこう言い続けていました。「私たちがそれを拷問と感じるのは、私たち自身のせいだ。なぜなら、私たちが死を恐れるのは、それがすぐ近くにあると自分が信じる時だけだからだ。」しかし、死の近くにいない者などいるでしょうか?死はあらゆる場所で、あらゆる時に、われわれを待ち構えています。「考えてみたまえ」彼は続けて言いました。「死の何らかの要因が差し迫っているように見える時、われわれが恐れていないだけの他の種類の死が、どれほど近くにあるのかを。」ある者が敵によって死の恐怖に晒されているとき、こうした形式の死は事前の脅威によって予期されます。17. そして、われわれの恐れのさまざまな原因を詳細に調べてみると、実際に存在するものもあれば、存在するように思えるだけのものがあることが分かります。われわれは死を恐れているのではなく、死についての考えを恐れているのです。死そのものは、常にわれわれから同じ距離にあるのですから。したがって、それが少しでも恐れられるのならば、常に恐れられるべきです。われわれの人生に、死を免れた季節などあるでしょうか?

 18. しかし、僕は君がこの長い手紙を死よりも嫌うことを恐れるので、ここまでにしておきます。しかし、君は決して死を恐れないために、常に死について考えて下さい。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 30 - Wikisource, the free online library

・解説

 死を近くに見てる友人バッススについての書簡。この書簡の中に、セネカの死の恐怖についての哲学が殆ど述べられている。

 

 

 

*1:1世紀中ごろのローマの歴史家。

*2:生から

*3:航海に必要な様々な船の装備

*4:

*5:敗けた後に潔く死ぬということ

*6:セネカは最初、死の瞬間の人のほうが、死が近づいてる人より勇敢だと思っていたが、バッススの話を聞いて、少しずつ迫り来る死の恐怖に耐える人のほうがより勇敢で、立派なことだと思うようになった、という意味。

*7:宇宙は生成と消滅を繰り返すというストア派の宇宙観。これと同じように、人間も死により細かく砕かれ、再び蘇るという輪廻転生寄りのセネカの死生観を前提としている。