徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡56 閑静なことと勉強について

 1. 勉学のために引きこもる者にとって、閑静なこと以上に必要なものがあるとしたら、僕は死んだ方がましです!そら、あらゆる種類の騒音が僕の耳に鳴り響きます!僕が宿泊してる所は浴場の真上になります。自分の聴力を呪うほども大きな様々な騒音を想像してみて下さい!例えば、強そうな男たちが、大きな鉛の重りを使って、懸命に、あるいは懸命なふりをして鍛錬している時、僕は彼らのうめき声を聞かされます。そして、彼らが溜まった息を吐き出す度に、ぜいぜいと大きな声で息を切らすのが聞こえます。あるいは、安っぽい按摩で喜ぶ怠慢な男がいて、彼の肩を手で叩く音を聞かされます。手が平らな部位かくぼんだ部位に置かれるかによって、聞こえてくる音は変化します。あるいは、審判*1がやってきて球数を数え始めたらもうおしまいです。2. これらに加えて、捕らえられるけんか好きや盗人、浴槽で自分の声——それは騒音なのですが―—に聞き惚れる人、あるいは、非常識な轟音と水しぶきを立てて、浴槽に飛び込む狂人もあります。こうした連中の声だけならまだよかったかも知れませんが、腋毛抜き*2のことも考えてみて下さい。彼は耳をつんざく甲高い声で―—誰かに気づいて貰うためにそうしてるのですが―—絶え間なく叫び、腋毛を抜いて彼の犠牲者に代わりに悲鳴を上げさせるまで、口を閉じることはありません。そして、酒売りや、腸詰め売りや、菓子売りや、あらゆる食べ物や商品を売り歩く人たちが、それぞれ独自の抑揚で、様々な声を張り上げています。

 3. そして君は言われます。「あなたの心がそれほど多くの様々な種類の、耳ざわりな騒音に耐えられるというなら、あなたは何という鉄の神経か聞こえない耳を持っていることでしょう。わたし達の友人のクリスプス*3もしつこい挨拶には、死にたいと思うほどうんざりさせられてたというのに!」しかし、こうした騒音は、僕にとっては波の音や滝の音程度のものでしかないと誓って申しましょう。かつてある部族が、ナイル川の瀑布の轟音に耐えられなかったという理由で、都市を移したということを思い出したとしてもです。4. 僕は騒音よりも言葉のほうが気が散ります。というのも、騒音は耳を打ち付けるだけですが、言葉の内容は注意を引きますから。僕の気を散らすことなく周囲に鳴り響く音の中には、通り過ぎる馬車、同じ区画の大工、近所ののこぎり屋、あるいは噴水に集まって小ラッパや笛の練習をし、歌うことはなくても(吹奏楽器による)叫び声を上げる連中などがあります。

 5. さらに言うと、僕を煩わせるのは、継続的な音ではなく、断続的な音です。しかし、これまでに僕はあらゆるそうした類の音に対しての耐性を鍛えており、水兵長が甲高い声で乗組員たちに拍子をつけるのを、我慢することができました。僕は自分の心に集中を命じ、自分以外のものに惑わされることのないようにします。内面において何一つ騒々しいものがなく、恐怖心と欲望が僕の胸中で争い合うことなく、吝嗇と贅沢が仲違いをして苛め合うことがない限り、外側であらゆるものが鳴り響いても大丈夫です。われわれの心が大騒ぎしていたら、近所が静かであることに何の意味があるのでしょう?

6. その夜、世界の全ては静まり返っていた*4

 これは真実ではありません。理性が静まらなければ、本当の休息は得られないからです。夜はわれわれの憂いを取り去るのでなく、それを露わにします。われわれの悩みの形を変えるだけなのです。眠気を求めているのに眠れないのは、昼間と同じように悩まされているからです。真の静寂とは、落ち着いた時に、澄んだ心が到達することのできる状態です。7. 広大な邸宅を静かにさせて、眠ろうと努める哀れな男のことを考えてみて下さい。彼は音が聞こえないようにと、彼の奴隷全員を静かにさせ、彼に近づく者は誰でも忍び足で歩くように命じます。彼は何度も寝返りを打ち、苛立ちの中で浅い眠りを求めます!彼はまったく音がしていないのに、何か音を聞いたと駄々をこねます。8. その訳をお尋ねですか?彼の魂が騒々しいからです。その心は鎮められ、反抗的な文句は抑えつけねばなりません。体が静止していれば、心も平穏であるなどと考える必要はありません。静けさは時折、落ち着きのなさです。

 ですからわれわれは、自分の手に負えない事によって無精になる度に、自分を奮い立たせて行動し、善き学問研究に没頭せねばなりません。9. 優れた将は、兵士に不満を見て取ると、何らかの仕事を与えたり、小規模の出陣の準備に忙しくさせることでそれを抑えます。多忙な人には好き勝手にする時間がなく、仕事に励むことにより暇の弊害を振り払うことができるのは明白です。人々は僕が、政治の仕事に嫌気が差して、自分の哀れで報われない立場を不服に思って引退したと思うかも知れませんが、不安と疲労に促さて隠れ住んでも、僕の野心は、時おり姿を現します。これは、僕の野心は弱まって根こそぎなくなっていたのではなく、単に疲れて、計画が失敗したことに気性を失っていただけだからです。10. そして贅沢も、時には去っていったように見え、われわれが倹約を公言したとしても、われわれを煽り始め、倹約の中にあって、快楽を求めさせます。快楽を非としたのではなく、一度手離しただけだからです。実際、快楽は密かに求められるほど、大きな力を振るうようになります。あらゆる悪徳は隠れていない限り、それほど深刻なものではありません。病気もまた、隠れることをやめて、その症状を明らかなものにすると、治療へと進むことになります。ですから、貪欲、野心、およびその他の心の悪徳については、それが健全を装って隠れている時ほど、最も有害なものとなることがお分かりになるでしょう。

 11. 人々はわれわれのことを、引退したと思っていますが、そうではありません。というのも、もしわれわれが本当の意味で身を退き、撤退の号令に従い、見た目だけは魅力的なものを軽蔑していたなら、上で述べたように、外的なものがわれわれの気を散らすことはありません。人の歌声も鳥の歌声も*5、一度強固で確かなものになった、善き心を妨げることはできないのです。12. 誰かの声や偶然聞こえた音に刺激される心は不安定で、まだ自分自身に退いてるとは言えません。それ自身の中に不安と根深い恐れの要因を含んでおり、これにより人は憂いを持ちます。われらがウェルギリウスも言います。

私はかつて、投げ槍にも、ギリシャの歩兵の密集した隊列にも動じなかった。

それが今や、あらゆる音に怯え、そよ風に怯え、仲間のためにも重荷のためにも怯えるようになった。*6

 13. 彼は最初は賢明で、降り注ぐ投げ槍にも、打ち寄せる鎧の大群にも、陥落した都市*7の混乱にも、狼狽えることはありませんでした。しかし彼は後には知恵を欠き、自分のことについて不安を抱き、あらゆる音に青ざめ、どんな叫び声も戦いの声だと思って慄き、どんなささいな障害にも、恐怖のあまり息を切らします。彼を恐れさせているのは重荷*8です。14. 幸運に恵まれた人の中から誰でもいいから選んでみて下さい。そうすると、その人が多くの責任と多くの重荷を背負い、「仲間のためにも重荷のためにも怯える」英雄の姿を見て取ることができます。

 ですから、君が自分自身を平穏であると確信できるのは、どんな騒音も君に届かない時、諂いであろうと脅迫であろうと、あるいは君の周りに鳴り響く空虚で無意味な戯言だろうと、どんな言葉も君を揺り動かすことができない時です。15. 「それでは」君は言われる。「喧騒を逃れるだけなら、もっと簡単な方法があるのではないですか?」確かにそうです。したがって、僕は今いる所から場所を変えます。僕はただ自分自身を試し、鍛えたかっただけです。どうして僕がこれ以上長く苦しめられなくてはならないのでしょうか?オデュッセウスはあんなにも簡単な方法で、仲間たちにセイレーンに対抗する方法を求めたというのに*9。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 56 - Wikisource, the free online library

・解説

 心の平静があれば、外側の喧騒は関係ないということ。しかし本文では恨みたっぷりに浴場のうるささについての愚痴が満載なのが面白い。そしてオチではやはり、居場所を変えると言っている。書簡12書簡53にも見られるが、こうしたセネカ本人の自分の姿を客観的にユーモラスに描く所に、度量の深さというか余裕を感じてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:原文は「pilicrepus」で「球技の審判」の意味。

*2:原文は「ālipilus」で「入浴者のわき毛を抜く奴隷」の意味。

*3:セネカの友人

*4:ローマの詩人バァロ・アタキヌスの断片

*5:セイレーンの歌声を念頭に置いてる

*6:アエネイアス2.726~729。アエネイアスが燃えるトロイを後に逃げていく箇所。

*7:トロイ

*8:息子アスカニウスと、父アンキセスのこと

*9:書簡31.2参照