徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡23 哲学から得られる真の喜びについて

 1. 僕が手紙に、この冬はどれほど穏やかだったとか―—実際、短くて暖かかったですが―—、この春は季節外れの寒さでどれほど過ごしにくいかなど、言葉に窮した人達のように、その他のあらゆるつまらないことを書くとお思いですか?いいえ、僕は君と僕自身のどちらにも役立つ何かをお伝えしましょう。そしてこの「何か」が、健全な精神を促すものでないというなら、何なのでしょう?健全な精神の土台とは何かとお尋ねですか?無価値なものに喜びを見いださないことです。土台と僕は言いましたが、実はそれは頂点です。2. われわれが何に喜びを見出すべきかを理解し、自分の幸福を外的なものの支配下に置かなければ、われわれはすでに高みに到達しているのです。何らかの希望——たとえそれが手の届く範囲あったり、簡単に入手できたり、期待を裏切らなかったとしても―—に駆り立てられる人は、不安に悩み、自己に信頼を持てません。3. 何よりも、ルキリウス君、君がすべきことは、喜び方を学ぶ、ということです。

 偶然の賜物を退け、われわれの心を舞い上がらせる最も甘美なものへの期待は避けるよう僕が助言するとき、僕は君から多くの喜びを奪ってると思われますか?全く逆で、僕は君から喜びが取り去られることを決して望みません。喜びが君の家に生じることを望みます。そしてそれは、喜びが君の内部にあれば可能なのです。その他の種類の喜びで、胸の内が満たされることはありません。それらは頬を緩ませるだけの、軽薄なものです。笑ってるだけの人を幸福だと君が信じるなら、その限りではありませんが。魂そのものが喜びに満ち、自信に溢れ、外的なものを超越していなければなりません。

 4. 僕を信じて欲しいのですが、真の喜びとは厳粛なものです。弛んだ顔つきや、着飾った連中が言うところの「陽気で快活」な表情で、死を軽蔑することができると思いますか?あるいは、そんな顔で、貧困と対峙したり、快楽を抑えたり、苦痛を耐え忍ぶことに思いを巡らすことができるでしょうか?こうしたこと*1を心に思い描く人は、まさしく喜びに満ちています。しかしそれは、弛んだものではありません。しかし、僕は君に、まさにこうした喜びの所有者になって欲しいのです。ひとたびその源泉を見つけたら、それは決して君を裏切らないからです。5. 地表に現れるような鉱脈の産物は貧弱ですが、深いところにある鉱脈はたいへんに豊かであり、絶え間なく掘り続ける人にはより大きな見返りをもたらします。同様に、大衆を喜ばせる下らぬものは、表面的な薄っぺらい快楽を与えるだけで、そうした上辺だけの喜びには、確固たる基盤がありません。しかし、僕が言う、君をそこに導かんと苦心している喜びは、しっかりとしたものであり、君がその中に入り込むにつれて、より広がっていくものです。6. それゆえ、僕の最愛のルキリウス君、君を真に幸福にする一つのことのみを実行して下さい。表面だけ輝いているもの、他者から与えられるもの、あるいは他者から奪う必要があるようなものは捨て置き、足元に踏みつけて下さい。真に善きものに目を向け、君自身の財産から喜びを得て下さい。そして、「君自身の財産から」とはどういう意味でしょうか?まさしく君自身の最高の部分から、という意味です。このちっぽけな肉体も、われわれはそれなしでは生きていけませんが、重要なものではなく、必要なもの、と見なすべきです。それはわれわれを虚しい快楽に巻き込みます。その快楽は束の間で、すぐに後悔を呼び起こし、強い自制心で制御しない限りは、正反対のものに変化します。僕が言いたいのは次のことです。すなわち、喜びはある一定の範囲内に保たれていない限り、悲嘆の深淵へと、真っ逆さまに落ちていくものだということです。

 しかし、君が善いものだと信じてしまっていることについて、限度を保つことは困難です。一方、真に善きものは、安全に切望することができます。7. この真に善きものとは何か、どこから生まれるのかをお尋ねですか?お教えしましょう、それは立派な目標、正しい行動、偶然の賜物を軽蔑すること、一つの道のみを歩む公正で穏やかな生活からなる高貴な良心です。ある目的から別の目的へと飛び移る人、あるいは飛び移ることさえできずにある種の危機に晒される人は、そのような揺らぎやすい不安定な状態で、どうやって確固たる永遠の善を所有するのでしょう*28. 秩序立った目的に従って自分自身とそれに関係する事柄を制御できる人はごく僅かです。その他の者たちは、進んでいくのではなく、川に浮かぶもののように流されていくだけです。幾人かは緩慢な流れに引き止められ、穏やかに運ばれます。幾人かは激しい流れに引き回されます。岸に近い人たちは流れの浅さゆえ取り残され、他の者たちは急流により海に投げ出されるのです。したがって、われわれは自分の望みを決心し、その決心に固くとどまる必要があります。

 9. さて、そろそろ借金を返さねばなりません。君の友人でもあるエピクロスの言葉を贈ることで、僕はこの手紙の責務を果たすことができます。「常に新しく生きることを始めることは、みっともないものだ*3」あるいは、次の表現のほうがおそらくより分かりやすいでしょう。「常に新しく生きることを始める人間は、悪く生きることを続けているのだ」10. なぜかと君はお尋ねになるでしょう。この言葉は確かに解説が必要です。そうした人たちの人生は、常に未完成だからです。しかし、生きることを始めたばかりの人が、死の到来に備えることはできません。われわれは既に十分に長く生きたかのように生きねばなりません。まさに人生の計画を始めたような人が、そのようにできるとは誰も思いません。11. そんな人たちが少数だと考える必要はありません。じつは、殆どの人がそうなのです。実際、生きるのをやめなければならない時になってから、生きることを始める人たちがいます*4。そして、これが驚くべきことだと言うなら、もっと驚くことを追加しましょう。ある人たちは、生きることを始める前に、生きることをやめてしまうのです。お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 23 - Wikisource, the free online library

・解説

 真の喜びは内面的なもので、外からくるものではなく、内から輝くものを大切にせよ、という話。

われわれの外部で起こることは、それほど大きな影響を及ぼしません。よいことであれ、悪いことであれ、それが大きな力を持つことはないのです。賢者は、順境に有頂天になることも、逆境に意気消沈することもありません。なぜなら、賢者は、できるかぎり自分自身に頼り、すべての喜びを自分の中から引き出せるように、つねに努力をしているからです。

                         母ヘルウィアへのなぐさめ5.1

 

 

 

 

 

 

 

*1:貧困や快楽の抑制や苦痛の忍耐

*2:「大多数の人たちは、確固とした目的を持っていない。彼らは不安定で、一貫性がなく、移り気だ。だから、彼らは気まぐれに、次から次に新しい計画に手をつけるのだ」人生の短さについて2.2

*3:書簡13書簡21の手紙の最後の「贈り物」参照

*4:「生きることをやめなければならないときに、生きることを始めるとは、遅すぎるではないか」人生の短さについて3.5