徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡120 さらに美徳について

 1. 君の手紙はいくつかの小さな問題の中を歩き回って、最終的には次の問題についてだけ説明するよう求めました。すなわち、「何が善であり、何が立派なことであるかという理解を、われわれはどのようにして得るのでしょうか?」他の学派*1の見解では、この両者は全く異なるものです。しかし、われわれ〔ストア派〕の学派においては、ただ別様に呼ばれているだけです。2. 僕が言っているのは次のような意味です。つまり、或る人たちは有用なものを善と考え、富や馬や酒や靴にこの名称を授けます。彼らは善をこれほどまでにつまらぬものと見做し、これほどまでに低劣な用途に引き下げるのです。そして彼らは、立派なこととは正しい行為の原則に忠実であることだと考えます。すなわち、年老いた父親を孝行に尽くすこと、貧しい友人を援助すること、遠征において勇敢さを示すこと、賢明で節度ある意見を述べることなどです。3. われわれは、善と立派なことを二つのものだと見做しますが、それらは一つのものから成り立っていると考えます。立派なものだけが、善であることができます。また、立派なものは、必ず善です。この両者の違いについて、これまで僕は何度も言及してきたので*2、ここで改めて説明する必要はないと思います。しかし、次の一つは付け加えておきましょう。われわれは、人が悪用できるものは、何も善だとは考えません。そしてご覧のように、いかに多くの人たちが、富や高位や権力を悪用していることでしょう。

 君が説明を求めている問題に戻りましょう。「何が善であり、何が立派なことであるかという理解を、われわれはどのようにして得るのでしょうか?」4. 自然はわれわれに、これを直接教えることはできませんでした。われわれに知識の種子は与えましたが、知識それ自体は与えませんでした*3。ある人たちは、この〔善や立派なことについての〕知識に、偶然出会ったのだと言います。しかし、美徳の観念が偶然誰かの頭に浮かぶなどと、信じる訳にはいきません。われわれはそれは、観察に基づく推論や、しばしば生じた出来事の相互比較の結果得られたと見做します。われわれの学派は、類推アナロギアによって立派なものや善についての理解が得られたと考えます。この「類推」という言葉は、すでにラテン語の文法学者たちから市民権を認められているので、非難すべきだとは僕は思いません。むしろその市民権を強く主張して然るべきです。ですから僕はこの言葉を、単に承認されたものとしてではなく、慣用のものとして用いることにします。

 では、この「類推」についてご説明しましょう。5. われわれは肉体における健康とは何かを知っています。このことから、何か精神における健康もあると考えます。またわれわれは、肉体における強さを知っていることから、何か精神における強さもあると考えます。親切な行い、道徳的な行い、勇敢な行いに、しばしばわれわれは驚嘆します。ここからわれわれは、それらを完全なものとして賞賛し始めました。しかしそれらの下には、際立った行為の見てくれや輝きに隠された多くの悪徳があったのですが、これらに対しわれわれは目をつぶってきました。自然はわれわれに、賞賛に値するものは過大に賞賛するよう命じたので、誰もが事実以上に、立派な行いを賞賛しました*4。このようにしてわれわれは、或る偉大な善についての観念を獲得したのです。6. ファブリキウス*5はピュロス王の黄金を退けました。王の富を軽蔑できることは、王権よりも偉大だと彼は考えたのです。ファブリキウスはまた、ピュロス王の侍医が主君に毒を盛ることを約束した時、王に対し謀殺に注意するよう警告しました。同じ一人の人物の魂が、黄金で征服されることも、毒で征服することも拒否したのです。そこでわれわれは、王の約束にも王に背く約束にも動じることなく、崇高な精神を堅持した英雄を賞賛するのです。これ以上に困難なことがありましょうか?彼は戦時にあっても正々堂々を貫き、敵に対してさえ何か許されざる悪行*6があると考え、彼を崇高たらしめたその極度の貧困の中にあって、富も毒も、同じように退けたのです。彼は言いました。「生きるがよい、ピュロスよ。私のお陰で。そしてファブリキウスを買収できなかったことをこれまでのように悲しむのではなく、喜ぶがよい*7!」

 7. ホラティウス・コレクス*8は単身であの橋のへの隘路を塞ぎ、敵の進路を遮断するために、自分の退路は断つよう後方の〔橋の向こうの〕味方に命じました。そこから彼は、巨大な橋が崩れ、轟音を立てて水中に落ちるのを聞き届けるまで、長時間にわたって敵の猛攻を凌いだのです。彼は背後を振り返り、自らの危機によって祖国が危機を免れたことを確認してから、次のように叫びました。「わたしを追撃したいなら、来るがよい!」そう言って彼は真っ逆様に河に飛び込み、その急流の中にあって、無傷で出てくることと同じくらい、武装したまま出てくることに注意を払いました。彼はまるで橋を渡ってきたかのように、勝利の栄光の武具もそのままに、無事に戻ったのです。

 8. これらの行いや、これらと同様の行いが、われわれに美徳の観念を示してくれます。ここで僕は、君を驚かせるであろうことを付け加えておきましょう。それは、邪悪なものがしばしば立派なものの外見を呈し、最善のものの輝きが、その正反対のものから発せられることがあるということです*9。なぜなら、君もご存知の通り、美徳に隣接して悪徳があり、堕落したものや恥ずべきものにすら、正しいものに似たところがあるからです。それゆえ浪費家が偽って、気前のよい人のふりをするのですが、人が与えることを知っていることと、蓄えることを知らないことの間には、大きな違いがあります。申しますが、ルキリウス君、与えるのではなく放り投げる人が、沢山いるのです。そして僕は、自分のお金に節度が持てない人を、気前がよい人とは呼びません。無関心は気安さに似ていますし、無謀は勇敢に似ています。9. このような類似性があるがゆえに、われわれは注意深く観察して、外見上は似通っているものの実際には大きく異なるものを区別する必要がでてきます。そして、偉大な功績の結果として名声を得た人物を観察する時、われわれは、何か或る行為を高貴な精神と崇高な動機で行ったものの、それがたった一度に過ぎなかったことをも見出します。われわれは、戦争においては勇敢でも、内政においては臆病であり、貧乏に対しては屈強でも、悪評に対しては卑屈な人物を目にします。われわれは彼の行為を賞賛しても、その人物は軽蔑します。10. しかしわれわれは、ある別の人物をも目にします。友人に対して親切であり、敵に対しても穏健で、公的な義務も私的な義務も誠実に勤勉に遂行し、耐えねばならない時には忍耐力を、何かを為さねばならないときには賢慮を失わない人物を。われわれは彼が、与えるべき時には惜しみなく与え、苦労すべき時には粘り強く働き、肉体の疲労を精神の力で軽くするのを目にします。その上、彼は常に同じ人物であり、すべての行動に一貫性を持っています。健全な判断力のみならず、習慣によってもそう行うのです。彼は正しく行動できるのみならず、正しく行動せずにはいられないのです。われわれはこうした人物の中に、完全な美徳の概念を見出すのです。

 11. われわれはこの完璧な美徳を、いくつかの部分に分けました。欲望は抑えられ、恐怖は鎮められ、適切な行いが計らわれ、負債は返還されねばなりませんでした。こうしてわれわれは、節制、勇気、賢慮、正義を包括し、その各々に相応しい権能を割り当てたのです。それではわれわれは、どのように美徳についての観念を得たのでしょうか?それは、先の人物の持つような秩序、礼節、恒心、全ての行動における完全な調和、他の全てに優れた偉大な魂により、われわれに示されました。ここから、完全に自らの制御下で流れる、あの幸福な人生についての観念に導かれたのです。12. それではどうすれば、こうした観念を目にできるのでしょう?お教えしましょう。完璧へと到達した人物は、決して自分の運命を呪ったり、偶然の不幸を悲嘆に暮れて受け取ることはありませんでした。彼は自分をこの宇宙の市民であり兵士であると信じて、自らの労苦を、自らに課せられた命令のごとく受け取りました。何が起ころうとも、彼はそれを悪いことだとか、自らに押し寄せる災難だとか思って拒絶することなどせず、自分の義務だと思って受け取りました。「それが何であろうと、」彼は言います。「私の運命だ。苦しく辛いことだが、それゆえ一層、私は真摯に取り組もう。」

 13. ですから彼が偉大な人物として示されるのも当然のことです。不運にあっても決して嘆くことなく、自分の運命にも不平を述べなかったのですから。彼は多くの人々に自らその模範を示した観念を与え、暗闇の中の光のように輝くことで、あらゆる人々の心を自らに向けたのです。というのも彼は優しく穏やかで、神々にも人間にも、等しく公正な態度を取っていましたから。14. 彼は完全な魂を持ち、その魂はそれ以上には神々しか存在しないほどの最高位にまで達していました。この神々の一部が、死すべき人間の心の中にも流れ込んでいます。しかしこの心は、自らの死すべき定めについて思い巡らし、人間は自らの人生を完成させるために生まれてきたこと、またこの肉体は永遠の住居ではなく、短期間滞在するだけの、言うなれば借り家であり、その主にとって厄介者になったと思った時には、立ち去らねばならない場所であることを知ることではじめて、最も神々に近しいものになるのです。15. 僕は申しましょう。愛するルキリウス君、魂がより高い世界から〔地上に〕やって来たことの最大の証は、自らの現在の状況*10を窮屈で低劣だと見做し、そこから出て行くことを恐れていないことです。なぜなら、自分かどこから来たかを覚えている者は、〔死後〕どこへ行くのかを知っているのですから。実際われわれは、いかに多くの不愉快に苛まれ、われわれ〔の魂〕はどれほど、この肉体と調和していないことでしょう?16. われわれはある時は頭痛を訴え、ある時は消化不良を訴え、またある時は心臓や喉の痛みを訴えます。ある時は神経が、ある時は両足がわれわれを苦しめ、今では下痢が、あるいは鼻風邪*11が苦しめています。また、われわれはある時は多血症に、ある時は貧血症になります。ここかしこでわれわれは苦しめられ、〔肉体から〕立ち去ることを命じられます。これはまさに、他人の家に居座っている人に起こることです。

 17. しかし、これほどまでに脆弱な肉体を与えられていながらなおわれわれは、永遠を夢想し、人間の寿命の限界まで希望を延ばして、どれほどの金銭にも、どれほどの権力にも満足することはありません。これほど恥知らずな、愚かしいことがあるでしょうか?われわれは人間は、いつかは死なねばならない、いえむしろ、毎日死につつある身でありながら、何ごとにも満足しないのです。われわれは日々最期へと近づいており、時の経過と共に、自分が身を投げねばならない断崖に押しやられているのに。18. ご覧になるとよいでしょう、われわれの精神がいかに盲目であるかを。僕が将来のこととして話していること〔死〕は、今この瞬間にも起こっており、しかもその大部分は既に起こった後なのです。なぜならわれわれの過去は、既に死に組み入れられているのですから。しかしわれわれの過ちは、最期の日だけを恐れることです。過ぎ去る一日一日が、その最後の日と同じくらい重要なものであるのに。われわれを力尽きさせるのは、最期の一歩ではありません。その一歩は力が尽きたことの知らせに過ぎません。最期の時が死を知らせますが、全ての時が、死に近づいているのです。死はわれわれを摘み取るのであって、掴み取るのではありません。

 ですから、偉大な魂は自らの善き性質を熟知して、自らに割り当てられた職務にあたって、誠実に勤勉に振る舞うことはもちろん、〔肉体のような〕周辺にあるものを何一つ自らの所有物を見做すことなく、あたかも先を急ぐ旅人のように、借り物として使用するのです。19. このような力強い人物を目にした時われわれは、類まれな精神の観念を、思い浮かべないでしょうか?とりわけその真の偉大さが、僕が述べたように、一貫性によって示された時には。真実のものは永続きしますが、偽りのものはそうではありません。ある人たちは交互に、ウァティーニウス*12のようになったり、カトーのようになったりします。彼らにとっては、ある時はクリウス*13も十分に厳格ではなく、ファブリキウスも十分に貧乏ではなく、トゥベロ*14も十分に倹約で、安物に満足してはいないのです。その一方で彼らは、ある時は富においてリキヌス*15に、宴会においてアピキウスに、放蕩においてマエケナス*16に張り合うのです。20. 悪しき精神の最大の証は不安定なことであり、美徳の模倣と悪徳への愛着の間を、絶え間なく往復していることです。

彼が手元に置いている奴隷は、ある時は二百人で、ある時は十人だった。

ある時彼は王族や金もちと張り合って、豪勢なことを言ったが、ある時は次のように言った、

「私には三脚の食卓と、清潔な貝殻の塩入れと、寒さを防ぐための、粗末な衣服だけがあればよい。」

この倹約な男に、何千万もの金を与えてみるとよい。

五日も経てば、彼は一文無しになるだろう*17

 21. 僕が述べたあのような人々は、まさしくこのホラティウス・フラックスが描く人物像のような連中です。彼らは決して同じであることはなく、自分自身とすら似ていません。人はそれほどまでに、正反対に彷徨い歩くのです。多くの人、と僕は言ったでしょうか?殆ど全ての人がそうです。誰もがその計画や誓願を、毎日毎日変えているのです。ある時は妻を、ある時は愛人を持つことを望みます。ある時は王権をふるうことを望み、ある時はこれ以上熱心な奴隷はいないくらいに働きます。ある時は人に疎まれるまで自分を誇示し、またある時は、本当に畏まっている人よりもさらに、いっそう卑屈に身を縮めます。またある時は金をばら撒き、ある時は強奪します。22. このようにして、愚かな精神が明示されます。つまり、ある時はこの姿で人前に現れ、ある時はあの姿で人前に現れます。そして、これは最も恥ずべき性質だと僕は思うのですが、自分自身とすら、同一ではないのです。知っておいて欲しいのですが、一人の人物だけの役割を演じるのは、偉大なことなのです。しかし賢者以外は誰も、同じ一人の役を演じません。われわれは頻繁に、別の役へと鞍替えします。われわれは時には真面目な倹約家を演じ、時には怠惰な浪費家を演じます。わわわれは絶え間なく自分の性格を変え、捨て去った性格とは正反対の性格を演じます。ですから君が自身に強いるべきことは、人生の最後の瞬間まで、君が最初に決意した性格を演じ通すことです。君が目指すべきは、その役を賞賛して貰うことですが、それが出来なくとも、せめてその役を認知してもらうことです。実際君が昨日見た人物のことを、次のように言うのも無理からぬことなのです。「この人は誰でしょう?」それほど大きく、われわれは変わっているのです!お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 120 - Wikisource, the free online library

・解説

 善や美徳に対してのセネカの敬虔さがうかがえる書簡。後半の「人物の一貫性」についてはわれわれも耳が痛い。セネカ自身の独白でもあるし、本当に人間の本質をよく捉えている。

 

 

 

 

 

*1:ペリパトス派やアカデメイア

*2:書簡118.9以下参照

*3:書簡90.1~3も参照

*4:「事実以上に」という叙述は、あくまで善の「事実」ではなく「観念」を強調したかったからこそなのかも知れないが、一方で人間の本質を表しているようで面白い。言うなれば、「善そのもの」ではなく「善についてのイデア」を類推を通して培っていく中で、今日の人間の善や悪についての観念が獲得された、という意味だろう。

*5:前4~3世紀のローマの軍人ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス。ギリシャのエペイロスイの王ピュロスとの戦争において、ピュロスからの買収を拒絶した。監察官時代には元老院の贅沢を咎め、自身も贅沢を拒絶し、極貧に生きて死んだ。書簡98.13参照。

*6:毒殺

*7:自分は黄金にも毒にも買収されなかったからこそ王の命は助かった。だから自分を買収できなかったことを喜ぶとよい、という意味だろう。

*8:ローマの伝説的な英雄で、エトルリアの王ポルセンナ(書簡24.5,書簡66.51参照)がローマに攻め寄せた時に、ティベリス河にかかる橋の前で単身敵を食い止め、橋が落とされた後でティベリス河に飛び込み、泳いでローマに生還した。

*9:本当は最善のものではないのに。

*10:肉体の内にあること

*11:セネカの持病。書簡78参照。

*12:書簡98.13参照

*13:前3世紀のローマの軍人で、厳格な人物として知られた。

*14:書簡95.72参照

*15:書簡119.9参照。

*16:書簡19.9,書簡101.10,書簡114.4参照。

*17:ホラティウス「風刺詩」1.3.11~17

セネカ 倫理書簡119 われわれの最善の供与者としての自然について

 1. 僕が何かを発見した時はいつでも、君が「山分けにしましょう!」と言うまで待ったりはしません。君のために僕は自分からそう言いましょう。僕が発見したものが何かを知りたければ、財布を広げて下さい。丸儲けです。僕が君に教えるのは、どうすれば速やかに金持ちになれるか、ということです。君はどれほど熱心に、これを聞きたいと思っていることでしょう!当然のことです。僕は君を、最大の富者への近道を通って導きましょう。とはいえ君は、金を貸してくれる人が必要だと思うことでしょう。事業*1を行うためには、借金の契約をする必要がありますから。しかし僕は、君が仲介者を通して借り入れすることを望みませんし、金貸し業者が君の審査を行うことも望みません。2. 君にすぐに貸してくれる人として、かのカトーの勧める人物をご紹介しましょう。「君は君自身から借りるがよい!」どんなに小さな額であろうと、不足を自分自身の財源で補うことができるなら、それで十分です。というのも、僕のルキリウス君、君が何も求めないか、何を持っているかというのは、どうでもよいことですから。いずれの場合でも重要なことは同じです、つまり、君が不安を免れていることです。

 そして僕は君に、自然に対して何かを拒否することは勧めません。自然は強情で克服できるものではありませんし、その権利を主張しますから。しかし、自然の欲求を超えるものは何であれ単に「余分な」ものであり、必要不可欠なものではないことを君は知るべきです。3. 僕は空腹になれば、食事をせねばなりません。そのパンが粗末なものか最高級の小麦を使ったものかは、自然は気にしません。自然の望みは、腹が楽しまされることではなく、満たされることです。そして僕の喉が渇いたら、僕が飲む水が近くの貯水池のものであるか、大量の雪で囲って人為的に冷やした水であるかは、自然は気にしません。自然が命ずるのは喉の渇きを潤すことだけです。その盃が黄金であれ、水晶であれ、蛍石であれ、ティーブル*2産であれ、手のひらの窪みであれ、自然にとっては何の違いもありません。4. あらゆる事柄に関してその最後に着目すれば、君は余計なものは捨て去れるでしょう。空腹が僕に訴えかけています。何でも近くにあるものに手を伸ばすとよいでしょう。大きな空腹のお陰で、僕は手に入るものなら何でもご馳走に見えます。飢えた人は、食べものを粗末にしません。

 5. それでは君は、僕を喜ばせたのは何だったのかとお尋ねですか?僕が発見したのは、次の高貴な言葉です。「賢者とは自然の富を最も熱烈に求める者だ。」「何でしょう」君は言われる。「あなたは私に、空の器を下さるというのですか?私はすでに金庫の用意までしていました。私はすでに、*3交易のためにどこの海に乗り出そうとか、どんな事業を請け負おうとか、どんな商品を取り扱おうとかを考えていたのです。富を約束しておいて、貧乏を教えるとは、詐欺ではありませんか。」しかし親愛なるルキリウス君、君は何も不足していない人を、貧乏だと思いますか?「けれどもそれは」君は言われます。「その人自身とその人の忍耐力のお陰であって、運命のお陰ではありません。」それでは君は、このような人物の富は、決して損なわれることがないが故に、この人物は金持ちだ、とは考えないのですか?6. 君は沢山持つのと、十分に持つのと、どちらがよいですか?沢山持つ人は、さらに多くを望みます。これはその人が、まだ十分に持ってないことの証です。しかし、十分に持つ人は、金持ちには決して到達し得ない地点、つまりは欲の終着点に到達しているのです。所有のために追放に処されたりすることなどないという理由で、この人を真の富者だとは思いませんか?あるいは、所有のために息子や妻に毒を盛られることがないという理由で。あるいは、戦時であろうとその富は損なわれないという理由で。あるいは、平和な時には閑暇をもたらすという理由で。あるいは、所有することが危険ではなく、運用することが手間ではないという理由で。

 7. 「しかし、単に寒さや飢えや渇きを免れているというだけでは、持っているものが少なすぎます。」しかし、ユピテルの大神も、それ以上に持っている訳ではありません。十分なだけあれば、決して少なるぎることはありませんし、十分でなければ、決して多すぎることはありません*4アレクサンドロスは、ダレイオスやインドを征服した後でも貧しかったのです。そうではありませんか?彼は全てを自分の所有物にすることを企て、未知の海を探究し、大洋に新たな艦隊を送り、言うなれば世界の閂さえも破壊したのです。しかし自然にとって十分なものが、一人の人間には十分でなかったのです。8. 全てを手に入れた後でも、さらに何かを渇望するような人々がいたのです。彼らの精神はそれほどまでに盲目であり、進んだ後では誰もが始まりの地点を忘れるのです。アレクサンドロスは、少し前までは世界の片隅の名もない荒くれ者の領主に過ぎませんでしたが、世界の果てに到達した後で、自らの所有物となった世界を戻らねばならなくなって、絶望したのです*59. 金銭は決して人を豊かにはしません。それどころか常に、金銭自身に対する渇望をさらに人に突きつけるだけです。この原因をお尋ねですか?より多くを持つ人は、さらに多くを持つことができるからです*6

 要するに、クラッススやリキヌス*7と一緒にその名が語られる金持ちの人物を、誰でもわれわれの監査の対象に連れてきて下さい。彼に財産の帳簿を持ってこさせ、現在の財産と、今後見込まれる財産の全てを足した計算をさせましょう。このような人物でも、僕に言わせれば貧乏ですし、君に言わせればいつか貧乏になるのです*810. しかし、自然の要求に従って自分を整える人は、貧乏の感覚のみならず、恐怖をも免れています。そして、人が自分の財産を自然の範疇に収めることがいかに難しいかを知ってもらうために申しますが、僕が先に述べたような人物はもちろん、君が貧乏と呼んでいる人物ですら、実は余計なものを持っているのです。11. しかし、富は大衆を盲目にして、自らに惹きつけます。たとえば、ある男の家から大金が運ばれたり、その家が沢山の黄金で葺かれていたりする様子や、その容姿の麗しさのみならず、服装の立派さでも際立っている奴隷を見せつけることによって。こうした人々の幸福とは全て、大衆の俗見に従ったものです。しかし、われわれが大衆と運命の支配から奪い取ったかの理想の人物は、内面において幸福なのです。12. というのも、先の連中の頭の中では、忙しいだけの貧乏が、富の名称を偽って語っているのです。彼らが富を持っているというのは、実際には熱がわれわれを持っているのに、「熱がある〔熱を持っている〕」というのと同じです。反対にわれわれは普通は、「熱に捉われている」と言います。そしてわれわれは同様に、「富に捉われている」と言うべきです。ですから僕は君に、次のような助言を与えたいと思っており、この助言は、何度言っても十分ではありません。すなわち、君は全てを、自然の要求に沿って測るべきだということです。というのも、自然の欲求は無料で、あるいは非常に安価な費用で満たすことができるからです。ただし、この〔自然の〕欲求の中に、悪徳を混ぜてはなりません。13. どうして君は尋ねる必要があるのでしょう?どのような食卓で、どのような銀の食器で、どのようにそれに相応しい、顔つやの美しい若い給仕が食事を提供するのかを。自然は食事そのもの以外は、何も要求しません。

君は灼けるように喉が渇いた時に、黄金の盃を求めるのだろうか?

君は飢えに苦しんだ時に、孔雀とヒラメの肉以外は、軽蔑するのだろうか*9

 14. 飢えは野心を持ちません。満たされれば止みます。そして、満たすものが何であるかはさほど気にしません。贅沢は「幸福でない」ことにも苦しめられます。つまり贅沢が追求するのは、どうすれば満腹になった後でも空腹を感じられるのか、どうすれば胃袋を満たすのではなく限界以上に詰め込めるのか、どうすれば最初の一杯で癒された喉の渇きを呼び戻すことができるのか、といったことです。ですからホラティウスが、どれほど高価な盃で、どれほど優雅な手つきで水が提供されるかは、喉の渇きには何にも関係がないと言ったのは、素晴らしいことなのです。というのも、もし給仕の少年奴隷の巻き毛がどれほどのものであるか、その差し出す盃がどれほど透き通っているかが重要であると考えるなら、君は喉が渇いていないのです。

 15. 自然がわれわれに与えて下さった恩恵の中でとりわけ優れたものは次の点です。すなわち、自然は、必要不可欠なものからは、好き嫌いを取り除いて下さいました。余計なものには、選り好みの余地があります。われわれは、「これは相応しくない」だとか「これは優雅じゃない」だとか「これは見栄えしない」だとか言うのです。われわれのために生の法則を規定して下さった宇宙の創造主は、われわれの安全を定めたのであって、贅沢を定めたのではありません。われわれの安全に必要なものは全て予め用意され、容易に手に入れることができます。しかし贅沢に必要ものは、悲惨と気苦労なしには決して手に入りません。

 16. ですからわれわれは、この自然の恩恵を偉大なるものの一つを考えて、十分に活用しましょう。そして、われわれが自然に対し最も感謝すべきことは、われわれが本当に必要として望むことは全て、嫌悪感を抱くことなく享受できるということであると考えましょう。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 119 - Wikisource, the free online library

・解説

 ストア派らしい教えだが、セネカの自然への畏敬が他の書簡と比べても際立っている。。セネカは「母ヘルウィアへの慰め」でも自然を称えており、そのあたりにセネカの敬虔さというが、信心深さというか謙虚さというか、哲学者としてのアレテーを感じすにはいられない。

 

 

*1:「最大の富者」になるための

*2:ローマ東方。土器を生産していた。

*3:得られた富を使って

*4:十分でなければ、いくら多くても意味がない

*5:アレクサンドロスは世界の果てを目指して東方遠征に赴いたが、前325年にインドに入る手前で部下の反対にあってそれ以上の進軍を断念して西に引き返し、前323年にバビロンで熱病にかかって死んだ。

*6:多く金を持つ人ほど、その金を元手に投資や商売などで、さらに多くの金を持つことができるから、というニュアンスか

*7:いずれも大金持ちの人物の例。クラッススについては、書簡4.7,書簡104.29参照。リキヌスは戦争捕虜からアウグストゥスの解放奴隷に成り上がり、大金持ちとなった。

*8:より多くを欲しがるようになるので

*9:ホラティウス「風刺詩」1.2.114~116

セネカ 倫理書簡118 高い地位を求めることの虚しさについて

 1. 君は僕に、もっと頻繁に手紙を書くよう求めています。しかし収支を比較すると、君はまだ借りている側です。確か君の側が先で、君が手紙を書いて、それに僕がお返事をするという約束を結んでいたはずです。とはいえ別に僕はかまいません。君は信用して大丈夫だと僕は知っていますから、前払いをすることにしましょう。もっとも、かの雄弁なキケローがアッティクスに命じたようなことは求めません。「書くことがなくても、思いついたことを何でも書きたまえ*1。」2. というのも、キケローが手紙に添えたあらゆる類の知らせを省いたところで、僕は書くに事欠くことはありませんから。どの候補者が苦戦しているだとか、誰が他人の威を借りて、誰が自分自身の力で戦っているだとか、執政官の選挙において誰がカエサルを頼り、誰がポンペイウスを頼り、誰が自分の金庫を頼っているだとか、あるいは高利貸しのカエキリウス*2はいかに無慈悲で、たとえ彼の友人であっても、月に一分以下の利息では、びた一文も借りることはできない、だとかいった〔どうでもいい〕知らせです。

 他人の事情よりも自分の事情を気にかけましょう。自分自身を品定めし、自分がいかに多くの空虚な事柄の立候補者になっているかを自覚して、票など求めないようにしましょう。3. ルキリウス君、これは立派なことであり、安心でき、自由のあることです。〔どうでもいいことに〕立候補などせず、運命が主催するあらゆる選挙活動を無視することです。何と楽しいことでしょうか、居住区ごとに人が集められて、候補者たちが壇上に上がり、ある者は金銭の贈答を約束し、ある者は代理人を通じて交渉し、ある者はもし当選したら手に触れさせることすらしないだろう人々の手に、くり返し接吻をし、誰もが伝令官の〔選挙結果の発表の〕通知を、やきもきしながら待ち受けている時に、何を買うことも売ることもなく*3、のんびりと立ち止まって、この競り市場を眺めていることは。4. そして何と大きな喜びでしょうか、法務官や執政官の選出のみならず、ある者が年毎の顕職を、ある者が永続の権力を、ある者が戦勝の勝利とその戦利品を、ある者が富を、ある者が結婚と子孫を、ある者が自分自身と親族の繁栄を求めているのを、平然と眺めることは!何も求めず、誰にも嘆願することなく、次のように言うことは、なんと偉大な魂の為せる業でしょうか。「運命よ、私はあなたとは何の関わりもない。私が仕えるべきはあなたではない。カトーのような人物があなたには拒否され、ウァティーニウス*4のような人物があなたによって作られることを私は知っている。私はあなたに、何も請い求めない。」これが運命を、その高い地位から引きずり降ろす方法です。

 5. ですからわれわれは、こうしたことを互いに手紙に書くようにしましょう。そして、こうしたことは常に〔お手紙の〕新鮮な題材であり、これによりわれわれは、あの落ち着きのない多くの連中の様子を見て取ることができます。彼らは何かを得ようとして悪徳から悪徳へと奮闘し、すぐに逃げ去るか、そうでなくてもすぐに嫌気が差すものを求めるのです。6. というのも、願っている時には大きく見えていたものでも、それを得た後で、満足した人がいるでしょうか?幸福とは、多くの人が考えるように求めるに値するものではなく、取るに足らぬものです。それゆえ幸福は、決して人の貪欲を満足させることはできません。君は自分が望んでいるものが遥かな高みにあると信じています。それは君が遠く離れたところに立っているからですが、そこに到達した人から見れば、大したことはありません。その人がさらに高く登ろうとしていないと言えば、それは嘘になります。君が頂上と思っているものでも、一つの段階に過ぎませんから。7. そして全ての人は、真実への無知ゆえに苦しんでいます。普通一般に言われることに騙されて、あたかもそれが善であるかのように思ってそこにつき進み、そして、願いを果たした結果多くの苦しみを味わった後で、それが悪であり空虚なものであり、思っていたほど大したものではなかったことに気づきます。多くの人々は、遠くから自分の目を欺くものを賞賛し、大衆にとって善いものは、自分にとっても善いものだと考えるのです。

 8. さて、われわれ自身もそうなることがないように、ここで何が善かについて考えてみましょう。これについては様々なやり方で説明がなされ、多くの人々が、多くの主張をしてきました。ある人たちは次のように定義しました。「善とは魂を招き寄せるもの、自らに近付けるものだ。」しかし、これには直ぐに反論できます。招き寄せるにしても、破滅に導くとすればどうでしょうか?いかに多くの悪徳が魅力的かは君も知っての通りです。真実のものと真実らしいものは互いに異なります。そして、善は真実なものと結びついています。ですから、それが真実なものでなければ、善ではありません。ところが、人を招き寄せ、魅了するものは、真実らしいものに過ぎません。それは君の注意を掠め取り、関心を煽り、それ自身に引きずり込みます。9. したがって、ある人たちは次のように定義します。「善とはそれ自体への希求を喚起するもの、あるいは、それ自体へ向けて奮闘する魂の衝動を駆り立てるものだ。」これにも同様に、直ぐに反論することができます。なぜなら、多くのものが魂の衝動を駆り立てますが、それで求められるものは、結局彼らに有害となるものですから。次のような定義がより優れているでしょう。「善とはそれ自体に向かう魂の衝動を自然に即して駆り立てるものであり、求めるべきにものになって初めて、求められるものだ*5。」これにより、善は立派なものとなり得ます。立派なものとは、最も求められるべきものですから。

 10. この題材を取り上げたからには、僕は善なるものと立派なものの違いを述べねばなりません。それらは互いに混ざり合っており、分け隔てることができない性質があります。立派なものが含まれていない限り、何事も善なるものにはなり得ず、立派なものはいかなる場合でも善なるものです。それでは、この両者の違いは何でしょう?立派なものは完全な善であり、それによって幸福な人生は成り立ち、それに触れることで他のものも善になります。11. 僕が言っているのは、次のような意味です。たとえば、軍務や外交や裁判といったことは、それ自体は、善でも悪でもありません。これらが立派に行われると、善となり始め、「中間的な」ものから善へと移行します。善は立派なものとの交友関係から生じますが、立派なものは、それ自体でも善です。善は立派なものから作られますが、立派なものはそれ自体ですでに存在しています。善なるものは、悪であることもありました。しかし立派なものは、善なるもの以外ではあり得ませんでした。

 12. ある人たちは次のように定義しました。「善とは自然に即したものだ。」では、僕の言うことを注意して聞いて下さい。善なるものは自然に即していますが、自然に即したものが直ちに善なるものとなる訳ではありません。というのも、多くのものは自然と調和していますが、それらには善と呼ぶには相応しくないほどつまらないものもありますから。それらは大して重要ではない、軽蔑されて然るべきものです。ところがいかなる善も卑小な、軽蔑されるべきものではありません。なぜならそれが些細なものならば、善ではないからです。善であり始めれば、それは些細なものはなくなります。では、そうすれば善と認めらるのでしょうか?それは完全に自然に従うことによってです。

 13. 人々は言います。「あなたは、善なるものは自然に即していると言った。それが善の特性であると。またあなたは、自然に即していても、善ではないものもあると言った。それでは、どうして前者は善であり、後者は善ではないのか?どちらも共通の特性として、自然に即するという性質を有しているのに、それらはどのように異なる性質に移行するのか?」14. もちろん、その大いさそのものによってです。或るものの性質が、それが大きくなることに伴って変化するのは、珍しいことではありません。ある幼児が少年時代を経て、青年となりました。すると彼の性質は変化します。なぜなら、幼児は非理性的ですが、青年は理性的だからです。或るものは大きくなると形が変わるだけでなく、別のものへと変化します。15. 反論する人々がいます。「しかし、大きくなったからといって、必ずしも別のものになる訳ではない。ぶどう酒を瓶に注ごうと樽に注ごうと、何の違いもない。いずれの容器においても、ぶどう酒はそれに特有の性質を保っている。蜂蜜にしても、少量であろうが多量であろうが味に違いはない。」しかしこれらは、問題となっていることとは別の事柄です。というのも、ぶどう酒も蜂蜜も、その性質は均一ですから、どれだけ量を増やしたところで、性質が変わることはありません。というのもこれらのものは、その大きさを拡張しても、元の種類と特性に留まり続けますから。

 16. しかし或るものは、多くの追加を経てからの最後の付加によって変化します。それには、これまでとは異なる新たな性質が刻印されます。一つの要石が弓門を完成させます。この石が両側に並べられた石の楔となり、中央に配置されることで全体を支えているのです。そして最後に付加されるものがこれほど小さなものなのに、大きな変化をもたらすのはなぜでしょう?それは増やすものではなく、満たすものだからです。17. また或るものは、成長することによってそれまでの姿を脱ぎ捨て、新しいものへと変化します。心が長きに渡って或ることに対する思索を続け、その偉大さを追いきれないほどにまでになった時、それは「無限」と呼ばれ始めます。そしてこれは、偉大ではあるが有限であったものとは、遥かに異なるものになったのです。これと同様に、われわれはそれ以上には分割できない或るものを見出します。或るものを分割していって、それがますます小さくなって〔分割するのが〕難しくなると、それは「分割不可能〔原子〕」となることが分かります。同様に、われわれはやっとのことで、かろうじて動かせるものからどんどん進んで、「不動のもの*6」へとたどり着きます。これらと同じ道理により、或るものは自然に即したものですが、それが大いになることにより、別の特性、すなわち善へと変化したのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 118 - Wikisource, the free online library

・解説

 前半の顕職を求めることの虚しさを説く箇所では、ここでも少なからずセネカの強がりのようなものが見られて面白い。そして後半の「善なるもの」への論理遊びへと繋がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:キケロー「アッティクス宛書簡集」1.12.4

*2:アッティクスの伯父。「アッティクス宛書簡集」1.12.1

*3:投票をすることもされることもなく

*4:前55年の法務官の選挙で、カトーが落選し、ウァティーニウスが賄賂により当選した。書簡94.25も参照。また「賢者の恒心について」17.3「摂理について」3.14でも、セネカはウァティーニウスを非難している。

*5:求めたい時ではなく、求めるべき時に求めるものが善である、という意味。

*6:運命や事物や不安定なものから、「不動の精神」へとたどり着く、といったイメージか。

セネカ 倫理書簡117 論理の巧妙さ以上に優れた真の倫理について

 1. 君はそのように巧妙な問題を提起することで、大変な厄介事を持ち込み、知らず知らずの内に僕を論争と苦悩に巻き込むのでしょう。というのも、それらを解決するために、僕がストア派の仲間たちと意見を異にすれば、彼らに対して申し訳が立たないし、かといって彼らに同意すれば、僕自身の良心に背くことになるからです。君のご質問は、賢知は善であるが、賢明であることは善ではない、というストア派の考えは、正しいかどうか、というものです*1。ますはストア派の見解をご説明して、それから臆することなく僕自身の意見を述べましょう。

 2. われわれストア派の仲間は、善は作用的であり、作用的なものはすべて物体である、ゆえに善は物体であると考えます*2。善なるものは役に立ちます。しかし役に立つものには何らかの作用がなければなりません。もしそれに作用があるならば、それは物体です。賢知とは善である、と彼らは言います。したがって、当然のことして賢知は物体であると言わねばなりません。3. しかし彼らは、賢明であることをこれと同じようには考えません。なぜならそれは、非物体的な他の何か、つまり賢知の付随的な性質だからです。したがって、それはいかなる意味でも作用しないし、役にも立ちません〔ゆえに、賢明であることは善ではない〕。

 「それではどうだろう?」反論があります。「賢明であることを、善だとは言わないだろうか?」確かに言いますが、それは対象が依存するもの、つまり賢知そのものに起因する限りにおいてそう言われるのです。4. 僕がこの立場を完全に離れて僕自身の考えを述べる前に、この反論者に対して他のストア学徒がどのように答えるかをお話しましょう。彼ら*3は〔先の反論に付け加えて〕言います。「その(あなた方ストア派の)論法に従えば、幸福に生活することすら善ではない。当然のこととして、幸福な生活は善ではあるが、幸福に生活することは善ではない、と答えることになる*4。」5. さらにまた、われわれの学派に対して次のような反論があります。「あなた方(ストア派)は賢明になることを目指している。つまり、賢明であることが望ましいことだ。そして望ましいものは善だ。」そこで、われわれの学派の仲間は言葉を捻じ曲げることを余儀なくされ、「望ましいこと」という言葉に一語を加えて、「望ましいべきこと」と言うことになりました。この一語を付け加えることは、われわれの通常の語法では許されていません*5。しかし、君にご容赦いただいて、〔これらの反論に対するストア派の答えに〕この一語を加えましょう。「善とは望ましいことだ。われわれが善に達した際にわれわれにもたらされるものは、望ましいべきことだ。望ましいべきことは善として望まれるのではなく、善を望んだ後に善の付属品として得られるのである*6。」

 6. 僕自身の見解は、以上のものと同じではありません。そして僕は、われらがストア派の仲間がこのような議論に陥ったのは、彼ら自身がすでに最初の前提に縛られて、そのために自分たちの論法を変更することができなかったからだと考えます。人は通常、多くの人が納得できる意見があれば、これを尊重します。われわれの考えでも、あることが全ての人々の同意を得られるなら、それは真実です。例えばわれわれは、全ての人々の内に神々の概念が生来備わっていること、法律や習慣がどうあれ、いかなる民族も何らかの種の神々を信じないほど未開であることはないこと等から、神々の存在を推測します。またわれわれは魂の不死性について論じる時、地下の死者の霊を恐れたり崇めたりする人々の普遍的な概念に、多くの影響を受けます。僕もこうした普遍的な信念を大いに活用していきたいと思います。すると、賢知が善であるなら、賢明であることも善であることを疑う人など、誰もいないことがお分かりになるでしょう。7. 僕は敗北した剣闘士のように、大衆に懇願*7しようなどとは思っていません。われわれストア派自身の〔論理という〕武器を用いて、正々堂々闘いましょう。

 或るものに何らかの事象が起きる時、その事象は起きるものの外側にあるのでしょうか?それとも内側にあるのでしょうか?もしそれが内側に起きるのでれば、それは或るものと同様に物体です。なぜならどんな物体も接触を受けねば作用を受けないし、接触するならそれは物体だからです。もし外側に起きるのであれば、その事象は或るものに作用を及ぼした後に離れていきます。離れていくものは運動しており、運動するものは物体です。8. おそらく君は僕が「走り」と「走ること」の間に違いはなく、「熱さ」と「熱いこと」の間に違いはなく、「光り」と「光ること」の間に違いはないと言うことを期待しているのでしょう。僕はそれらが別々のものであるとは考えますが、別様のものであるとは考えません。もし健康が〔善悪に無関係な〕中間的なものであるならば、健康であることも中間的なものです。もし正義が善であるならば、正しくあることも善です。もし卑劣さが悪であるならば、卑劣であることも悪です。眼の腫れが悪ならば、眼が腫れていることも悪であるのと同じです。どちらの状態も、もう一方の状態なしには存在し得ないことがお分かりでしょう。賢明である人には賢知があり、賢知がある人は賢明です。ですから真実は、一方の性質を他方も持つことは疑いようのないことであり、それゆえ両者にあるのは同じ善だと言うことができる、ということです。

 9. しかしここで、僕は自ら進んで別の問いを立てましょう。あらゆる事柄が、善か、悪か、あるいは〔善悪に無関係な〕中間的なものに分けられるのであれば、賢明であることは、どれに分類されるでしょうか?〔先に例として挙げたストア派の〕人々は、賢明であることは善ではなく、また明らかに悪でもないので、結果的に「中間的なもの」と言うことになります。しかし、この「中間的な」あるいは「〔善悪に〕無関係な」ものとは、金銭や美貌や高い地位のように、善人にも悪人にも与えられます。ところが賢明であることは、善人にしか与えられません。したがって、賢明であることは、中間的なことではありません。また、悪人の手に陥ることのもないので、悪でもありません。したがって善です。善人にしかもてないものが善です。賢明であることは、善人だけがもっています。ですから、それは善なのです。10. 反論者は言います。「それ〔賢明であること〕は賢知の付随的な性質に過ぎない。」ではお尋ねしましょう。君が付随的な性質と呼ぶこの状態〔賢明であること〕は賢知の原因なのでしょうか?それとも結果なのでしょうか?いずれにせよ、それは物体ということになります。なぜなら、作用を受けるものも作用を与えるものも、ともに物体ですから。そして、もし物体であるなら、それは善です。それが善であることを妨げていた唯一の性質が、非物体性なのですから*8

 11. ペリパトス学派は、賢知と賢明であることの間には、何の違いもないと考えます。なぜなら、両者いずれもが、もう一方の意味を包含しているからです。じっさい、賢知を持つことなしに、誰が賢明であることができるでしょう?あるいは賢明であることなしに、誰が賢知を持つことができるでしょう?12. しかし昔の弁証論者たちは、この両者の概念を区別しました。そしてこの区分は、ストア学派にまで伝わりました。それがどのような手法かを、お話しましょう。畑と、畑を持つことは別のことです。当然ですが畑を持つことは所有者に関することで、畑そのものに関することではないからです。同様に、賢知と賢明であることは別のことです。これら二つが別の概念であることは、君もお認めになるでしょう。それは所有物と所有者であり、賢知は人の所有物であり、賢明である人がその所有者です。さて、賢知とは完成された心、最高度にまで、最善にまで行き着いた心であり、生における技術です。では、賢明であることはどうでしょう?僕はそれを、「完成された心」と呼ぶことはできませんが、「完成された心を持つ」人に当てはまることだと言うことができます。ですから、善き心と、善き心を持つことは別のことです。

 13. 次のように言う人々がいます。「物体には各々、自然の性質があり、われわれは『これは人間だ』とか『これは馬だ』とか呼ぶ。次に、この性質に従って、物体(身体)に対して何らかの命令を下す、心の動きが生じる。この運動は、物体から離れて、ある種の言うなれば独自の性質を持っている。例えば『私はカトーが散歩しているのを見る』場合、これを知らせるのは感覚だが、これを信じるのは心だ。私が見るのは物体であり、それに私は目と心を向ける。もう一度言う、『私はカトーが散歩しているのを見る』。」彼らは続けます。「私が語っているのは物体についてではなく、物体に下された何らかの命令についてであり、それは『発言』『宣言』『表明』と様々な呼び方がある。したがって、われわれが『賢知』と言う時、それは物体について語っているのであり、『賢明である』という時、それは物体に関係するもの*9について語っているのである。だから、その人について語るか、その人に関係するものについて語るかには、大きな違いがあるのである。」

 14. 以上のように、僕はまだ自分の意見を述べていないので、今のところ、〔ペリパトス学派と昔の弁証論者の〕の二つの考え方があります。しかしそれでもなお、賢明であることも善であるという、第三の考え方が認められてはいけないでしょうか*10?先に僕は、「畑」と「畑と持つこと」は別であると言いましたが、それはもちろん、所有されるものと所有するものの性質が異なるからです。土地は所有されるもので、所有するのは人間です。しかし今議論していること、つまり賢知と賢明であることについては、両者は同じ性質を持ちます。15. 加えて畑の場合には、所有されるものと所有する者は別々ですが、賢知の場合には、所有されるものと所有するものは同じ性質をもちます。畑は法律によって所有されますが、賢知は自然本性によって所有されます。畑は譲渡されて、別の誰かの所有物になることがありますが、賢知はその所有者の手から離れることはありません。ですから〔畑という賢知とは〕異なる類のものを、比較対象とする理由はありません。僕が言わんとしているのは、ある別々の事柄が、どちらも善であり得る、ということです。つまり、賢知は善であるが、賢明であることもまた善であることは、君もお認めになるでしょう。賢知と賢知の所有者を善であることを妨げるものは何もありません。同様に、賢知と賢知を所有すること、つまり賢明であることも善であることを、妨げるものは何もありません。16. 僕自身は賢知を得たい、つまり賢明でありたいと思っています。それではどうでしょう?一方のものがそれなしには他方も善ではあり得ないならば、それは善ではないでしょうか?君は賢知が、もしそれを使用する権利なしに与えられるならば、それは歓迎できるものでないことを、お認めになるでしょう!そして、賢知の使用とは何でしょうか?それが賢明であることであり、このことが賢知においては最も大切なことであり、これが果たされなければ、賢知も無用になるのです。拷問が悪であるならば、拷問されることも悪です。そして、もしこの使用〔拷問されること〕を取り除くことができるならば、もちろん拷問も悪ではありません。賢知が「完成された心」であるならば、賢明であることは「完成された心を使用すること」です。使用しなければ善でないものを使用することが、どうして善でないことがありましょうか?17. 僕は君にお尋ねしましょう、賢知は望ましいか、と。そうであることを君はお認めになるでしょう。賢知を使用することは望ましかとお尋ねにすれば、それも君はお認めになるでしょう。なぜなら君は、賢知を使用することなしには、賢知を享受することはできないと言うでしょうから。さて、望ましいことは善です。雄弁であるために言葉を使用し、見るために目を使用するのと同じように、賢明であるためには賢知を使用します。したがって、賢明であることは賢知を使用することであり、賢知を使用することは望ましいことです。ですから、賢明であることは望ましいことであり、望ましいことは善です*11

 18. ああ、僕は長きに渡って自分自身を責めています。僕はまさに自分が非難している連中*12の真似事をして、全く明らかな事柄に対して無意味に多言を費やしているのですから。熱が悪ならば、熱があることも悪であることを、誰が疑うことができるでしょう?また寒さが悪ならば、寒いことも悪であることを?あるいは生が善ならば、生きることも善であることを?こうしたこと*13は全て賢知の周辺にあるのであり、賢知そのものの中にあるのではありません。しかしわれわれは、賢知それ自体の内に留まるべきです。19. 人が様々なところへ歩き回って探究したいと思うような時にも、賢知は雄大で広々とした深奥を持っています。われわれは神々の本性、星々を養う糧、あるいは種々様々な星々の運行について、探究することができます。またわれわれは、地球の現象も星々の現象と関連しているのか、あるいは全ての人々の心と体を動かすものは、星々の運動からもたらされているのか、そしてわれわれが偶然の出来事と呼んでいることすら厳格な法則に支配されており、この宇宙において突然に、何ら予兆もなく生じることは何もないのか、といったことに思いを巡らすことができます。こうした問題は今日では倫理の教えから除外されていますが、心を励まし、それが論じている主題の崇高さにまで、自己を引き上げるのです。しかし、先ほど僕が例に挙げたような問題は*14、君たち*15が思っているように心を磨くのではなく、心を擦り減らし、消耗させ、弱めるのです。20. そして、僕は君たちに問います。われわれは、おそらくは間違った、そして明らかに無益な事柄について議論することで、より偉大で、より優れた主題に対して必要な研究を、台無しにしてしまっているのではないでしょうか?賢知と賢明であることの違いを知ることが、僕に何の役に立ちましょう?前者は善であり、後者は善でない、などということを知って、僕に何の意味がありましょう?次のような祈りを託した、さいころ遊びをするとしましょう。「君は賢知の目に賭け、僕は賢明であることの目に賭けよう!」勝負は引き分けになるでしょう。

 21. それよりもむしろ、どうすればそこ*16に到達できるのかを、僕に示すことにご尽力下さい。何を避けるべきで、何を求めるべきか、どのような勉強により、よろめきがちな僕の精神を強固にすることができるか、どうすれば横殴りに僕を襲い、道から逸らせようとする力を、撃退することができるか、どのような手段によって、僕は自分の全ての悪徳に対処できるのか、どのような手段によって、僕は自らに押し入ってきた悪徳や、僕自らそこに押し入った悪徳を取り除くことができるか、こうしたことを、僕に教えて下さい。あるいは、どうすれば嘆くことなく不幸の重荷に耐え、他人を嘆かせることなく幸福に耐えることができるか、また、どうすれば逃れられない最後の結末を待つことなく、それが自分にとってよいと思われれば、自ら進んで逃れ去ることができるかを、僕に教えて下さい。22. 死を願うことほど、恥ずべきことはないと僕は思います。というのも、生きたいと思いながら*17、どうして死ぬことを願うのでしょう?そして、もし君が生きたいと思わないのであれば、君に生まれつき与えられているもの*18を、どうして神に求めるのでしょう。というのも、君がいつか死ぬということは、たとえ君の意に反しても、決まっていることですが、君が望む時に死ぬことは、君の掌中にあることだからです。前者は避けられませんが、後者は許されています。

 23. 僕は最近、学識ある著名な人物が(彼にはこんな称号が既に恥ですが)書き記した、最も恥ずべき序文を読みました。曰く、「だから私は、できるだけ早く死にたい!」何と愚かなことでしょう!あなたは最初から、自分に与えられているものを願っているのです。「だから私は、できるだけ早く死にたい!」おそらくあなたは、そんな言葉を口にしながら、年老いたのでしょう!少なくとも、妨げなど何もないでしょうに。誰もあなたを引き留めなどはしません。どれでも好きな方法で、出て行って下さい。自然界のものを何でも選び取って、それに脱出手段を提供するよう命じて下さい!それらは自然界を成り立たせている存在、つまりは水や、土や、空気です。これら全ては生の源であると同時に、死への導きにもなります。24. 「だから私は、できるだけ早く死にたい!」では、その「できるだけ早く」とはどういう意味でしょう?どの日をそうだと定めたのでしょう?その日はあなたが願い求めるより、もっと早く訪れるかも知れないのに。こんな言葉は弱い心の証であり、こんな忌まわしい言葉で、人々の同情を引こうとしているのです。死を祈り求める人は、死にたくないのです。神々には命と健康を祈って下さい。もし死ぬことを決意すれば、死の報いとして、もはや祈りは必要なくなりまます。

 25. 愛するルキリウス君、われわれはこうした問題をこそ扱うべきであり、こうした議題により、われわれの心を形作るべきなのです。これこそが賢知であり、これこが賢明であることです。空虚で些末な事柄をいじくり回して、緻密なだけで無益な議論をすることではありません。運命は君に、たいへん多くの問題を提示しており、未だ君はそれを解決できていないのに、いつまで屁理屈遊びを続けているのでしょう?戦闘の合図を聞いたのに、木刀を振る練習をしてるとは、何と愚かなことでしょう!そんなおもちゃの武器は投げ捨てて下さい。戦い抜くには、本物の剣が必要です。どうすれば僕は、悲しみにも恐怖にも魂を乱されずに済むか、どうすれば僕は、この隠れ潜む情欲の重圧を逃れることができるかを、教えて下さい。何とかせねばなりません!26. 「賢知は善であるが、賢明であることは善ではない。」こんな〔馬鹿げた〕ことを話すこと自体でわれわれは賢明でないことを自ら示し、ついにはこうした類の研究全体が、無益な事柄に労力を費やしているという理由で、笑いものにされることでしょう。また、将来の賢知は善であるか、という問題まで、議論の対象となっていることを知ったら、君はどう思うでしょう?というのも、どうか聞いて欲しいのですが、穀物庫が将来の収穫の量を感知しないことや、いかなる少年時代の腕力や体力からも、どんな青年時代になるかを予測できないことに、何の疑いの余地がありましょう?病気の人は病気の間、将来の健康が役立つことはありません。それは競走技や格闘技の選手が、試合の後の何ヶ月もの休息によって元気になるとしても、それが今役立つ訳ではないのと同じです。27. 将来のことは、まだそうなってはいないからという理由で、善ではないことを知らない人がいるでしょうか?善なるものはいかなる場合でも役立つものです。そして現在のものでなければ、何ものも役には立ちません。役に立たないものは善ではありません。役に立つものは、既に〔現在〕あるものです。将来僕が、賢者になるとします。賢者になった時は、その善は僕のものですが、それまでは、善は存在しません。物事はまず〔現在に〕存在しなけらばならず、それから〔善や悪といった〕何らかの性質があるのです。28. 僕はお尋ねします。まだ何でもないものが、どうして既に善いものになり得るのでしょうか?そして、「まだ訪れていないだろうか?」と問えるという事実以上に、あることが未だ存在していないことを証明することがでしょうか?というのも、まだ訪れていないなら、未だ存在していないことは明白です。「春が訪れるだろう」と言うなら、今は冬です。「夏がやって来るだろう」と言うなら、少なくとも今は夏ではありません。或るものが未だ存在していないことの最大の証拠は、それがこれからやって来るということです。29. 僕は将来いつか賢明になりたいと思っていますが、それまでの間、僕は賢明ではありません。もし僕がその善を所有していたら、既に現在この悪から解放されていたでしょうから。僕は将来いつか賢明になりたいと思っていますが、この事実から、僕は未だ賢明ではないことはお分かりでしょう。僕は〔将来の〕善と、〔現在の〕悪を同時に持つことはできません。これら二つは混ざり合うことはなく、一人の人間の中に、善と悪が同時に存在することもありません。

 30. あれらの巧妙な無駄話は全て速やかに通り越して、われわれに真の助けをもたらすものに急ぎ向かいましょう。自分の娘が陣痛に苦しんでいるのを憂いて助産師を探している最中に、立ち止まって法務官の布告版や催し物の日程表を読む者などいないでしょう。燃え盛る自分の家から家族を助けようと駆けつけた時に、ボードゲームの盤面を眺めて、どうすれば囲まれた駒を助けることができるか、などと考える者もいません。31. しかしまあ気の毒なことに、君にはありとあらゆる災難が、至るところから告げられています。家は燃え、子供たちは危険にさらされ、祖国は包囲され、財産は略奪されています。これらに加えて、海難や地震や、その他の恐怖を引き起こす全てが生じます。このような様々な災難に苦しめられている間に、君はただの精神的なお遊びに時間を費やすのですか?君は賢知と賢明であることに、どんな違いがあるかを尋ねるのですか?こんなにも崩れやすいものどもの間にあって、結び目を結んだり解いたりしているのですか?32. こんなことに無駄に費やすために、自然はわれわれに気前よく時間を与えることはありません。また、細心の注意を払っている人からでも、どれだけ多くの時間が失われるかを、心して下さい。ある人は自分の病気のために、ある人は家族の病気のためにそれを奪われ、ある人は家の仕事のために、ある人は公的な仕事のために奪われます。そして睡眠は、生涯を通して、われわれと時間を半分に分け合います。

 これほどに短く早く、われわれを奪い去るこの時間ですが、その大部分を無駄なことに費やすことに、何の意味がありましょう?33. そのうえ、われわれの精神は、本来は治療薬であるはずの哲学を娯楽のために用いて、自らを治すよりも、哲学から歪な喜びを引き出すことに慣れてしまったのです。賢知と賢明であることにどんな違いがあるのか、僕は分かりません。分かっているのは、僕がそんなことを知っているかどうかなど、どうでもいいということです。教えて欲しいのですが、賢知と賢明であることの違いを知った時、僕は賢明でいられるでしょうか?

 それではどうして君は、賢知の働きではなくその言葉の方に、僕の関心を引き入れようとするのでしょう?僕をより勇敢に、平静に、運命に並び立てる、運命に打ち勝てる人間にして下さい。そして実際に、僕は打ち勝つことができるでしょう。学ぶことの全てを、この目的に向けることができたなら。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 117 - Wikisource, the free online library

・解説

 セネカ自身がどうでも問答論法を再現するのは、この書簡117が最後である。2~17節がその殆どどうでもいい屁理屈なので書簡113と同様に屁理屈部分はカットしようかと思ったが、最後なのでせっかくだから頑張って訳した。書簡113に比べたら、まだ読めなくもないので許容の範囲内だ。セネカ自身こうした「娯楽」を悪く言いつつも、さんざん自分も書いているあたり、実は結構楽しんでいたのかも知れない。



 

 

 

 

*1:原文は名詞「sapientia(知恵、英知、賢知)」と動詞「sapio」の不定法(名詞扱い)「sapere(知恵があること、分別があること、賢知があること、賢明であること)」はどちらも善か?と書かれている。英訳では「wise」と「being wise」はどちらも善か?と訳されており、これが一番分かりやすいかも知れない。

*2:書簡106も参照

*3:先のストア派への反論者

*4:賢知が善であり、賢明であることは善ではないという論法に従うと、幸福な生活は善であり、幸福に生活することは善ではない、という結論に至る、と先の反論者は言っている。

*5:原文と少しニュアンスは異なるが、おかしな日本語になるよう意訳した。詳細が気になる人はラテン語原文を参照されたい。

*6:つまり本3節で述べた「付随的な性質」

*7:命乞い

*8:少々分かりにくいが、本3節で、「賢明であること」は「非物体的で付随的な性質」に過ぎないので善ではない、という理屈を論破している。

*9:命令、発言、宣言、表明

*10:つまりこの後に説明される、「賢知と賢明であることは別個のことだが、そのいずれも善である」というペリパトス学派の説明とも、昔の弁証論者の説明とも異なる第三の考え。

*11:それゆえ、賢明であることは善である。

*12:無益な問答論法に夢中になっている連中

*13:屁理屈

*14:「賢知」と「賢知であること」はどちらも善か?というような問題

*15:先に挙げたストア派や弁証学者たち

*16:「賢知」と「賢明であること」

*17:死にたいというのは、生きてないとできないから、つまり結局は生きたいと思っていることだから。

*18:死ぬ権利

セネカ 倫理書簡116 感情の制御について

 1. 感情は適度に持つ方がよいのか、それとも全く持たない方がよいのかという問題が、これまでもしばしば論じられてきました。われわれ(ストア派)の学派に属する哲学者は感情を排除し、ペリパトス派はそれを抑制します。しかし僕としては、中途半端に病気であることが、どうして健康だとか、有益だとか言えるのかが分かりません。心配しないで下さい。君が失いたくないもの(感情)を、何一つ僕は奪おうとは思っていません!君が心を向けているもの、つまり生きる上で必要で、有益で楽しみをもたらすと君に思われるものについて、僕は好意的で寛大な態度を示しましょう。僕は悪徳を取り除こうとしているまでです。というのも、僕が君の欲望を禁じた後でも、君にはその同じことを恐れることなく、より確かな判断力をもって行い、以前よりも大きな快楽すら感じて欲しいと思っているのですから。そして、もし君が快楽の奴隷ではなく主人となるのならば、それらの楽しみは、どれほどより容易に君の求めに応じることでしょう!

 2. 「しかし」君は言われる。「友を亡くした時に悲嘆するのは自然なことです。当然のこととして流れる涙に、特権を認めて下さい!人々の意見に影響されたり、悪評に落ち込むのも自然なことです。であれば、悪い評判に対し立派な恐れを抱くことが、どうして許されないのでしょう?」

 どんな悪徳も、自己弁護を欠くことはありません。どんな悪徳も最初は大人しく、容易に取り払うことができます。しかし後には、大きく拡がっていきます。ひとたびそれが始まれば、もう決して食い止めることはできません。3. どんな感情も、最初は弱いものです。そこから自分自身を湧き立て、前進しながら力を得ます。感情は追い出すよりも、未然に防ぐ方が容易です。全ての感情は或る種の自然の源から流れ出てくるということを、否定する人がいるでしょうか?自然はわれわれが、自らの悦びに配慮できるようにして下さいました。しかしこの配慮に、過度に耽溺すると悪徳になります。自然は、必要なものには快楽を混ぜ合わせましたが、それはわれわれに快楽を求めさせるためではなく、生きるために不可欠な事柄に快楽を加えることで、それがわれわれの目に魅力的に映るようにするためでした。快楽がそれ自体の権利を主張すると、贅沢となります。

 ですから、これらの悪徳が侵入を求める時、われわれはこれを拒否しましょう。なぜなら、先にも言ったように、これらは立ち去らせるよりも、入場を未然に防ぐ方が容易だからです。4. そしてもし君が、「或る程度の悲しみや、或る程度の恐れは許されるべきです。」と言うのなら、僕はお答えしましょう。その「或る程度」が長引く可能性があり、君が望むところで、立ち止まることはできないのです。賢者は少しも不安を抱くことなく、完全に自分を支配することができます。彼は涙も快感も、意のままに止めることができるでしょう。しかしわれわれの場合、引き返すことは容易ではないので、初めから前進しないことが最善です。5. パナイティオス*1は或る若者に、賢者は人を愛することがあるかを尋ねられた時、非常に上手く答えたと僕は思います。曰く、「賢者については、後ほど見ることにしよう。しかし、いまだ英知から遠く離れている君や私のような人間は、熱狂的なことや制御のきかないこと、他人の奴隷になることや、それ自体で軽蔑されるべきようなことに陥ってはならない。もしわれわれは愛に気に入られれば、その優しさに情欲を煽られ、もし拒否されれば、憤怒に駆られるからだ。容易に得られた愛も、困難の末に得られた愛も、同じようにわれわれを害する。容易なものはわれわれを虜囚にし、困難なものはわれわれと闘争をする。であるから、われわれは自分の弱さを知り、平静に努めるべきなのだ。そして、この不安定な心を、酒や美貌や甘言や、あらゆる追従や誘惑に、さらされないようにしよう。」

 6. ここで、パナイティオスが愛についての質問に答えたことは、どんな感情についても当てはまると僕は申しましょう。滑り易いところからは、出来る限り距離を置きましょう。われわれは乾いた地面の上ですら、しっかり立つことができないのですから。7. この時点で君は、ストア派に対してなされる非難を、僕に突きつけてくるでしょう。「あたながたの誓いはあまりに大きすぎ、あなたがたの教えはあまりに厳しすぎます。われわれはか弱い人間に過ぎず、自分自身に全てを拒否させることなどできません。われわれは悲しみますが、それは激しいものではありません。われわれは欲望を抱きますが、それはほどほどにです。われわれは怒ることがありますが、それは宥められます。」8. では、どうしてわれわれがストア派の説く理想の通りにできないかをご存知ですか?われわれが、自分の力を信じることができないからでしょうか。そうではなく、誓って申しますが、別の理由があるのです。それはわれわれが、自分の悪徳を愛しており、それらを支持し、追い払うことよりも擁護することを好むからです。われわれは自然から、生まれつき十分な強さを与えられており、われわれはこの力の全てを用い、集中させ、われわれの助けとすることができるように、あるいは少なくともわれわれを妨げることのないように、奮い立たせさえすればよいのです。そうはしたくないというのが本当の理由であって、できないというのは言い訳に過ぎません。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 116 - Wikisource, the free online library

・解説

 「怒りについて」などでもたびたび論じられているが、セネカは感情的になることを厳しく戒めている。怒りや悲しみが時として美化されがちな昨今、こうした自制心についての教えは、とても貴重なものだと思える。

 

 

 

 

 

 

 

*1:前185~109年頃のギリシャの哲学者。中期ストア派を代表する人物。書簡33参照。

セネカ 倫理書簡115 表面的な幸福について

 1. ルキリウス君、僕は君が、言葉や構文について必要以上に拘ることを望みません。君がより配慮すべき、もっと大切なことがあります。追及すべきは、どう書くかではなく、何を書くかであり、この書くということにおいてさえ、目的は書くことではなく考えることであり、それにより、考えをより自分自身のものに、言うなれば刻印することができるのです。2. 誰の文章であれ、それが過度に緻密に、必要以上に洗練された文体になっていたら、その作者の心も同様に、無意味なことにかまけていることがお分かりになりましょう。真に偉大な心の持ち主は、より自然に、屈託なく話します。何を語る時も、彼は懸念よりも自信をより大きく持ちます。

 君もよくご存知でしょう、化粧箱から出てきたばかりのように、髭や髪を光らせている、あの若いだて男たちを。彼らには力強いものや、確固たるものは何も望むべくはありません。文体とは魂の身なりです。それが剪定されたり、染め付けられたり、手入れされたりするならば、それは魂が純粋でなく、何かしら欠陥があることを意味します。過度に着飾ることは、男子には相応しくありません。3. もしわれわれが、或る立派な人物の魂を覗き見ることができたならば、ああ、なんと美しく、神聖で、勇ましく、清浄で、輝かしい容貌を目にすることでしょう!こちらでは正義と節制が、あちらでは勇気と賢慮が光を放ちます。これらに加えて、倹約、自制、忍耐、聡明、寛容、そして人間においては稀にしか見られない善である、同胞への信じ難いほどの博愛心、これら全てが、その魂に、自らの光輝を投げかけるのです。また、聡明さに伴う先見の明があり、そしてこれら全ての美徳の中で最も優れた資質である魂の偉大さが、ああ、神よ、まったくどれほどの美麗さを、荘厳さを、壮大さを顕示することでしょう!優美さと力強さが、何と素晴らしく調和していることでしょう!そのようなお顔は、崇拝すべきであると同時に、愛すべきものなのです。4. もし誰か或る人がこうした顔を目にして、それが普段見慣れた人々の顔よりも遥かに高貴で輝かしいものと思ったならば、彼はあたかも神と邂逅したかのように呆然と立ち尽くし、次のように静かな祈りを捧げるのではないでしょうか?「このようなお顔を拝見したことが、どうか許されますように。」そして、その優しさの溢れる表情に惹かれてわれわれは歩み寄り、跪いて礼拝するのではないでしょうか?そしれわれわれは、普通見られる人々の顔よりも遥かに優れた、穏やかでありながら生き生きとした炎に燃えるその顔立ちを長い間見つめた後、畏れ敬いながら、ウェルギリウスの有名な次の言葉を口にするのではないでしょうか。

5. ああ乙女よ、あなたを何とお呼びすればよいか、相応しい言葉が見つかりません!

あなたのお顔は死すべき人間のものではなく、その声は遥かに広く甘美なものです。

どうか祝福を下さい。そしあなたが何者であろうと、われらの苦難を軽くして下さい*1

そして、もしわれわれがその顔を崇拝することを望めば、その容貌は実際に現れ、われわれの助けとなるでしょう。しかしこの崇拝は、肥え太らせた牡牛を屠ったり、金銀の供物を奉納したり、神殿の宝物庫に硬貨を注ぎ込むことによってなされるのではありません。敬虔で誠実な願いによって果たされます。

 6. 僕は申します、もしわれわれが彼女を目にすることを許されたなら、彼女のその姿に対する愛に燃えない者など、誰もいなかったでしょう。というのも、今のところわれわれは、多くのものに視界を遮られ、強すぎる光に目を眩まされたり、過度の暗闇で覆われたりしているからです。しかし、何らかの薬を用いて視力を鋭くしたり清めたりすることができるように、われわれも心の視力を妨害物から解放しようと思えば、美徳を見出すことができるでしょう。たとえ美徳が、肉体に埋もれていようとも、たとえ貧困に妨げられていようとも、たとえ悪評や恥辱が、その道に立ちはだかっていようとも。僕は申します、そうすることでわれわれは、それがたとえ見栄えの悪いものに隠れていても、真の意味で美しいものを、見つけ出すことができるでしょう。7. またこれらとは反対の、悪しきものや、悲嘆に暮れて無気力になった魂を、われわれは見分けることができるでしょう。たとえそれが、光り輝く膨大な富に周囲を覆われていても、それにも関わらず。あるいは、こちらでは名誉ある地位が、あちらでは強大な権力が放つ偽りの光が、見る者の目を眩ませようとも。

 8. そうすることでわれわれは、いかに低劣なものを賞賛しているかを理解することでしょう。われわれはまるで子供です。子供はあらゆる玩具を価値があるものと見做し、親や兄弟よりも、ほんの僅かな金銭で買った首飾りの方を大切にします。であれば、アリストーン*2も言っているように、われわれ大人と彼ら子供の違いは何でしょう?あるとすれば、われわれは絵画や彫像に狂奔して、愚かにも遥かに高い金銭を支払っているという点です。子供たちは、浜辺で拾った滑らかな、色とりどりの小石を喜びますが、われわれ大人は、エジプトの砂漠やアフリカの荒地から運ばれてきた、柱廊や大衆を収容できるほどの巨大な食堂を支えるための、斑模様の大理石の柱を喜びます。9. そしてわれわれは、薄い大理石の板で覆われた壁に驚嘆しますが、その裏にどんなものが隠れているかを知っています。われわれが自分の目を欺き、屋根を黄金で葺いている時、われわれを喜ばせているものは嘘偽り以外の何だというのでしょう?というのもわれわれは、この黄金の下には、醜い木材が隠れていることを知っているのですから。

 また、こうした表面的な装いとは、壁や屋根にだけ施される訳ではありません。君が目にする、威張り散らして闊歩する名高い連中も皆、その幸福は金箔のようなものです。よくよく見れば、その薄っぺらい上張りの下に、どれほど多くの諸悪が潜んでいるかが分かるでしょう。10. あれほど多くの官吏や裁判官の関心を集めるもの、あれほど多くの官吏や裁判官を生みだすもの、つまり金銭のことですが、それに敬意が払われるようになって以来、物事に対する真の敬意は失われました。われわれは代わる代わる、商品になったり商人になったりして、それがどんな本当の価値があるかではなく、どんな価格であるかを尋ねます。われわれは見返りに応じて義務を果たし、見返りに応じて義務を放棄します。そして、何らかの利益が見込める場合にだけ立派な行いをしますが、卑劣な行いによってより大きな利益を見込める場合は、反対の道に進みます。11. われわれの両親は、金や銀を敬うようわれわれに教え込みました。そして幼少期に植え付けられたこの欲望が、われわれの心の奥深くに居座り、成長と共に大きくなりました。そして、他の事柄においては対立している全国民も、この一点においては意見が一致しています。これは彼らが大切に思っているものであり、子供のために願うものであり、神々に感謝の気持ちを示したい時には、あたかもそれが人間の所有物の中で最も偉大なものであるかのように献上するものです!そしてついには、貧乏が罵声によって非難されるべき対象となり、金持ちには軽蔑され、貧乏人には嫌悪されるようになるのが世の常です。

 12. ここにさらに、詩人の歌が加わります。この詩はわれわれの欲望の炎に油を注ぎ、富こそがわれわれ死すべき人間の唯一の偉業であり栄光であるかのように称えるのです。不死なる神々は、富より善きものを何一つ与えることも、所有することもないと人々は考えます。

13. 太陽神の宮殿では、

高き柱が立ち並び、

黄金に光り輝く*3

あるいは、同じ太陽神の馬車を見て下さい。

車軸は黄金、引き棒も黄金、

車輪を取り巻く縁も黄金で、

車輪の輻は全て白銀であった*4

そしてついには、人々は最良と思われる時代を、「黄金時代」と呼ぶようになります。14. ギリシャの悲劇詩人たちの中にも、潔白や健康や良き評判を、金銭と取り換える人がいます。

私は金持ちと思われるためなら、悪党と呼ばれても構わない!

皆が私の富はどれほどあるかを尋ねるが、誰も私の魂が善良かは尋ねない。

その富が、どこからどのように生じたかは誰も問わず、ただどれだけあるかが問われる。

すべて人の価値は、その人の所有物が何であるかによるのだ。

所有することが恥になるものなどあるだろうか?何もない!

富が私を祝福してくれるなら、私は喜んで生きるが、

貧乏なら、死ぬことを選ぶ。

富を追い求めて死ぬ者は、立派に死ぬのだ。

金銭よ、人類にとっての偉大なる善よ、

母の愛も幼い子供がくれる喜びも、あるいは功績のために敬慕される父も、

そなたには敵わない。

これほど魅力のあるものが、ウェヌスの顔に輝くならば、

神々や人々の心が、彼女への愛に駆り立てられるのも当然のことだ*5

 15. この最後の数行の詩句がエウリピデスの或る悲劇において朗詠された時、全観衆はその役者と歌詞に罵声を浴びせるために立ち上がり、演劇を中止させようとしました。しかしエウリピデス自身がその舞台に飛び込んで、観衆を鎮め、この守銭奴を待ち受ける運命がどんなものか見守るよう頼みました。ベレロフォンテス*6も、あの悲劇の中で罰を受けましたが、それはすべての人々が人生という演劇の中で受けねばならない罰なのです。16. なぜなら、どんな貪欲な行いも、罰を受けないことはあり得ませんから。もっとも、貪欲はそれ自体で十分な罰ではあるのですが。ああ、金銭は何と多くの涙と労苦を、われわれから搾り取ることでしょう!貪欲は、何かを熱望している時も、手に入れてからも惨めです!加えて、富者をその所有量に応じて日々責め苛む心配についてはどうでしょう!金銭はそれを得ようとしている時よりも、所有してからの方が大きな苦痛をもたらすのです。そして、われわれは損失をどれほど嘆き悲しむことでしょう!損失を実際以上に重いものだと見做して!そしてついには、運命がわれわれの富から何も持ち去らなくても、手に入らないもの全てが損失となるのです!

 17. 「しかし」君は言われる。「人々から金持ちと呼ばれながら、同時に幸福だと呼ばれている人もいます。その人と同等の財産を得たいと、皆願っています。」確かにその通りです。ではどうでしょう?人生において、不幸と嫉妬を同時に負うこと以上に、悲惨なことがあるでしょうか*7?富を切望している人は、金持ちの境遇をよくよく考えればよかったのですが!顕職を求める人は、野心に溢れ、最も高い地位に到達した人とよくよく相談していればよかったのですが!そうすれば彼らはきっと、既に追い越したものを軽蔑し、常に新たなものを追い求めている人々を見て、自分たちの祈りを撤回していたことでしょう。というのも、逃げ去る者を幸福が追いかけたところで、その幸福に満足できる者など誰もいませんから。人は自分の計画やその結果について不平を言い、常に得られなかったものの方を好むのです。

 18. ですからこれを解決するためには、哲学こそ最大の恩恵を与えると、僕は考えます。つまり君が君自身の行いを、決して後悔せずにいられるということです。この確固たる幸福は、どんな嵐にも乱されることはありません。しかし、緻密に織り込まれた言葉や、流暢に流れる文章によって、この幸福へ導かれることはありせん。君の魂が自らの秩序に従う限りにおいて、言葉を好きに進めて下さい。また君の魂が、高潔で、信念が揺るぎなく、他の者にとって気に入らないことが、まさにそのために君自身の気に入る限りにおいて。また魂が自らの進歩を自らの生き方によって測り、英知とは欲望と恐怖から、どれだけ自由であるかに依ることを知っている限りにおいて。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 115 - Wikisource, the free online library

・解説

 金銭や社会的地位のような表面的な幸福ではなく、哲学により真の幸福を見出せ、ということ。セネカはしばしば、両親や友人からの、世俗的な成功を願う祈りを「災いの祈り」と呼んでいる(書簡31,書簡60参照)。

 

 

 

 

*1:「アエネイアス」1.327~330。アエネイアスが女神ヴェヌスに呼びかけた言葉。

*2:キオスのアリストーン。ゼノンの弟子。美徳のみを至上の善と考えた。書簡36,書簡89,書簡94参照。

*3:オウィディウス「変身物語」2.1~2

*4:オウィディウス「変身物語」2.107~8

*5:エウリピデス「ダエナー」の断片と言われている。

*6:ギリシャ神話の登場人物で、ゼウスによって罰を受けた。

*7:金持ちゆえの気苦労で不幸だし、その上人々から妬まれるとすれば、これほど悲惨なことはない、という意味。

セネカ 倫理書簡114 性格を表す鏡としての文体について

 1. 君がお尋ねのことは、なぜある時代に堕落した文体が生じるか、またどのようにして才能ある人々が悪趣味(な文体)へと落ち込み、ある時は大げさな表現が、ある時は気取った表現が、ある時は歌のような調子の表現が広まるのかについてです。あるいは、なぜある時は信じられないほど大胆な表現が好まれたり、ある時は途切れ途切れで暗示に満ち、聞くと言うよりもむしろ読解しなければならない言い回しが好まれるのかについてです。あるいはなぜある時代には、隠喩的な表現が慎みもなく多用されていたのかについてです。この答えとして、君も普段からよく聞く言葉をご紹介しましょう。ギリシャでは格言にもなっているもので、「語り方はその人の生き方である。」です。2. まさしく、個人の行動のし方が語り方に似るのと同じように、国家の道徳が退廃し、人々が享楽的になると、話し方もその時代に一般に見られる風潮を反映するようになります。話し方における乱れは、それが一人や二人ではなく大勢に受け入れられれば、世間全体の放縦の証となります。3. 人の才知とその魂は、異なる類のものとはなり得ません。ある人の魂が健全で、整っており、誠実で、節度のあるものであれば、その才知もまた健全で落ち着いたものになります。反対に、魂が堕落すると、才知もまた退廃したものとなります。魂が怠惰な人は、両手もだらけ、両足も緩慢になることは、お分かりでしょう。女々しい人は、歩き方にその軟弱さが現れるでしょう。魂が自信と活力に満ちた人は、闊達に歩くでしょう。魂が狂っているか、あるいは狂気にも似た怒りに捉われている人は、体を慌ただしく動かし、走るのではなく突進するでしょう。

 そして、こうした魂の性質は才知にどれほど大きな影響があると思いますか?才知は魂と全く一体であり、魂によって形作られ、魂の命令に従い、魂に規範を仰いでいるのですから!4. マエケナス*1の生き方がどのようなものであったかは有名なので、今ここで語るには及びません。われわれは知っています。彼がどのように歩いていたか、どれほど女々しかったか、どれほど自己顕示欲が強かったか、どれほど自分の悪癖をひけらかすことを好んでいたかを。それではどうでしょう?彼の話し方の乱れは、その服装と同様、締まりのないものではなかったでしょうか?彼の文体は、その生活や従者や屋敷や妻*2と同様、奇抜なものではなかったでしょうか?彼はもし自分の責務を全うに果たしていたら、偉大な才知を発揮していたことでしょう。しかしそれは、もし彼が曖昧な表現を用いることなく、また語り方においても散漫でなかったならばの話です。ですから彼の雄弁は酔っ払いのそれであり、支離滅裂で、ろれつが回らず、どこまでも弛んでいるのです。

 5. これほど見苦しい文章があるでしょうか*3?「森を川と岸、被さった。」また、次のような、「川に彼ら耕す小舟において。浅瀬を鋤き返し残すのだ。庭園の後。」あるいは、「女との目くばせにその顔を歪む。鳩はあたかも唇に口づけする。その首も疲れて暴れ回る森の暴君の如く息だ。そのこぼれるものを事の始まりに。」あるいは、「救われぬ探究に彼らは祝宴を開く。酒杯に襲撃を家よ加えよ。その希望によっては、確実によっては、死に至らしめよう。」あるいは、「立ち会えぬ祭日。守護の神は自分自身。」あるいは、「細い蝋燭の芯に、はじけた碾き臼。」「母か妻が着せるのは、炉の火よ。」

 6. こうした文章を見ると君はすぐに、これを書いた男はいつも着物の帯も締めずに、街を歩き回っていたということが頭に思う浮かばないでしょうか?というのも、彼は不在の皇帝の職務を代行する時でさえも、合言葉の呼びかけ*4に、いつもだらしのない服装で応じていたのです。あるいは、この男は法廷でも、演説の壇上でも、どんな公的な集会においても、両耳を露出させて頭に外套を巻いて、まるで滑稽劇に見られる金持ちから逃走した奴隷のような風体で現れたことを。あるいは、この男は国家が内戦に陥り、ローマの都市が困窮と混乱にあったまさにその時にも、公的な場で二人の宦官を侍らせていたことを(もっともその二人ですら彼よりは男らしかったですが)。あるいは、この男はただ一人の妻と、千回も結婚した人物だということを*57. マエケナスの先の言葉は、あれほどにも支離滅裂に組み立てられ、あれほどにも無造作に言い捨てられ、あれほどにも通常の語法に著しく反しているので、それにより彼自身の性格も異常で、不健全で、常軌を逸していたことを示しています。確かに彼は、その温厚さにおいて賞賛に値する人物であり、剣を控え、流血を好まず、自由奔放な生き方の限度を超えてまで、自分を誇示しようとすることはありませんでした。しかし彼は、あのような出鱈目な文章の道楽趣味により、その賞賛をも台無しにしてしまったのです。8. というのも、彼の奇怪な語順、倒置語法、そして、しばしば偉大な内容を含みながら文章にされた時にはその迫力を失ってしまうような人を驚かせるだけの発想などから、彼は温厚なのではなく、軟弱なだけであったことは明らかだからです。度の過ぎた繁栄のために、彼の頭はおかしくなってしまったのです。

 このような悪癖はしばしばその人に由来し、しばしばその時代に由来します。9. 繁栄によって贅沢が広く行き渡ると、人々はまず身のまわりを飾り立てることに細心の注意を払うようになります。それから彼らは、調度品に凝り出します。次に彼らは、家そのものに関心を向けます。田舎の別荘のような広い敷地をどのように確保するか、海を越えて運び込ませた大理石でどのように壁を光輝かせるか、黄金で屋根をどのように飾るか、羽目天井の美しさと床の美しさを、どのようにそろえるかということに。そして次に彼らは宴会の食事の席に贅沢を運び込み、最後に提供されることにわれわれが慣れている料理を最初に出したりして通常の料理の順序に真新しさを加えたり、以前は客が到着した時に渡されていたお土産を、最後に渡したりするようになります。

 10. 心が日常生活における通常の風習を蔑視し、かつては習慣であったことを無粋だと見做すことが平気になると、言葉においても目新しいものを探し求め始めます。時には、時代遅れの、古臭い言い回しが引き出されたり、時には、未知の言葉が作り出されたり、歪められた言葉が使われたりします。また時には、これは最近流行っていることでもありますが、大胆な隠喩を頻繁に用いることが、格別優れた文体の証だと見做されることがあります。11. ある人たちは自分たちの考えを短く切り詰めて表現し、もし読み手が自分の理解力に疑念を抱けばそれを喜ぶほどまでに、意味内容を曖昧にします*6。ある人たちはくどくどと冗長に、自分たちの考えを述べます。またある人たちは悪徳の一歩手前に近付くのみならず、悪徳そのものを愛好しますが、そうでもしない限り、注目を得られないと考えるのです。ですから、堕落した文体が好まれるところではどこでも、人々の性質もまた正道から逸脱していることは疑いないでしょう。

 贅沢な宴会や豪華絢爛な服装が病んだ国の証であるように、文体の乱れは、もしそれが広く行き渡っているならば、言葉の源である心までもが、良識を失ったことの証です。じっさい、堕落した言い回しが、無知な大衆だけでなく、より教養ある人々にも受け入れられてることは、驚くには及びません。彼らが異なるのは着物だけで、判断力ではありませんから。12. むしろ驚くべきは、欠陥の多い文体ではなく、欠陥そのものが賞賛されていることです。というのも、いかなる人の才知も、欠陥の多さを許容されることなしに賞賛を受けることは、あり得ませんでした。誰か著名な人物を挙げてみて下さい。彼の時代が彼に許し、見逃したものが何であったかを、僕は言うことができます。その欠陥が大きな妨げとはならなかった人や、その欠陥が役に立った人も少なくないでしょう。そうです、世の人々の賞賛の的である、非常に優れた人物を僕はお示しできるのですが、もし彼らの欠陥をあげつらうとすると、この賞賛を損なうことになります。なぜなら、欠陥を悪徳とすると、それは美徳と絡み合い、美徳を引ずることになってしまいますから。13. さらには、文体には決まった規律というものはありません。人々の使い方に応じて変化し、決して同じままではあり得ません。多くの人々が、十二表法*7の用語で話し、遠い昔に言葉を求めます。彼らにしてみればグラックスクラッススやクリオ*8はあまりに先進的で新奇に過ぎるので、アッピウスやコンカルニウス*9にまで遡るのです。またこれとは反対に、使い尽くされた普通一般の用法に拘るあまり、平凡な文体に陥ってしまう人々もいます。14. このいずれも、それぞれ方向性は反対でも、堕落した文体と言えます。派手で大げさな表現を好み、詩人が使うような言葉以外は一切用いようとせず、通常の用法の言葉を避けることも(後者の平凡な文体に劣らず)堕落しているのです。この前者には、後者と同じ程度の過ちがあります。前者は必要以上に着飾り、後者は必要以上に無精です。前者は脛毛まで抜きますが、後者は腋毛すら抜きません。

 15. 次は、文章の構成に移りましょう。これについても、数えきれないほど多くの悪癖を、君にお示しできるでしょう!ある人たちは、唐突で不規則な文章を好み、滑らかに流れているように思えたものを、意図的にかき乱すのです。彼らはあらゆる場面において、変則がないことを嫌い、耳に不均一な印象を与えるような言い回しを、力強く男らしいと考えるのです。ある人々において見られるのは、文章の構成というよりは、音楽の調子です。それほどまでに卑屈で柔弱な、滑るような文体なのです。16. そして、言葉が先送りされて長い間待たされた挙句、やっとのことで文末に言葉が現れるような、あのような文体については何と言えばよいでしょう?あるいはキケロ*10のように、穏やかに結末に向かっていく文体はどうでしょう?つまり、ゆっくりと文末に下っていく過程で、つねにいつも通りの調子と抑揚を保った文体です!また、文体の欠陥とは、構文だけにあるのではありません。その内容がつまらない幼稚なものであったり、健全であれば羞恥心を抱くほど奇抜で大胆なものであったり、あまりにも華やかで享楽的であったり、あるいは単に音だけを響かせて空虚な結果に終わったりするような場合にも、文体に欠陥があると言えます。

 17. こうした悪癖は、誰かある一人によって広められると、その同時代の人々がそれに従い、その手法を互いに伝え合うことで文体を支配します。ですからサルスティウス*11の全盛期には、文章は切れ切れにされ、言葉は突然途切れ、文章を曖昧で短くすることが、洗練されたことだとされていました。ルキウス・アルルンティウス*12は稀に見る倹約な人物であり、ポエニ戦役に関する歴史書を書いた人物ですが、サルスティウスの熱烈な信奉者でした。サルスティウスの著作には、「彼は銀で軍隊を作った」という表現が、つまり金銭で軍隊を徴募したことを意味する文章があります。アルルンティウスはこの表現が気に入り、自身の著作のあらゆる箇所にこの「作る」という言葉を入れました。ですから、彼はある箇所では「彼らはわれわれの軍の逃走を作った」と言い、またある箇所では「シラクサ人の王ヒエロは戦争を作った」と言い、また別のある箇所では「その知らせがパルノムスの人々のローマへの降伏を作った」と言っています。18. これは君に(一例として)一口味見をして貰ったまでなのですが、彼の著作全体には、このような言葉が沢山散りばめられています。サルスティウスが時折使うだけに留めていた表現でも、アルルンティウスは頻繁に、それもほぼ常習的に用いていましたが、それも理由のないことではありません。前者は心に浮かぶままに言葉を用いたのですが、後者はその言葉を探し求めていたのですから。それゆえ、人が悪癖を規範とすると、どんな結果になるかがお分かりになるでしょう。19. またサルスティウスは、「水が冬めく」という表現をしました。アルルンティウスは、ポエニ戦役について書いた著作の第一巻で、「不意に嵐が冬めいた」という言葉を使っています。また別の箇所で、とりわけ寒い年であったことを表現したかった彼は、「一年全体が冬めいた」と言っています。そして別の箇所では、「それから彼は、六十隻の輸送船に兵士と必要最低限の船員のみを乗せて、冬めく北風の中を見送った」と言っています。このように彼は、あらゆる場面でこの言葉を用い続けます。またある文章でサルスティウスは、「国内戦争において彼は、よき市民としての美徳と名声を求めた」という言葉を使いました。そしてアルルンティウスはすぐに先の第一巻で、レグルスに関する大いなる「美徳と名声」について書かずにはいられませんでした。

 20. これらのような、あるいはこれらに類する文体における欠陥の模倣は、必ずしも節度の放縦や、精神の堕落を示すものではありません。というのも、ある作家の性質を判断するために必要なものは、その人に特有のものであらねばなりませんから。つまり、怒りっぽい人の文体は怒りっぽく、興奮しやすい人の文体は激しており、女々しい人の文体は頼りなく、軟弱であるのと同じです。21. そうした文体は、顎鬚を抜いたり剃ったりしているような連中のものであることは、君もお分かりでしょう。口の上の髭の或る部分は短く刈っておきながら、それ以外の部分は伸び放題にしているような連中で、彼らは風変りな色合いの外套や、透けて見えるトガを着用し、人々の注目を集めないことは、何もしたくないと考えます。彼らは関心を集めるために人々を煽り、目立てるのであれば、非難されることも厭わないという連中です。それこそがマエケナスの文体であり、偶然にではなく、意図的に過ちを犯すその他の全ての人々の文体です*1322. これは、魂における大きな悪から生じます。酒を飲んだ時でも、心がその負荷に耐えられなくなって正気を失わない限りは、呂律が回らなくなることはありません。それと同じように、あの酔っ払った文体ーーこれ以外の表現がありましょうか?ーーも、心がフラついていることで、他者に不快をばら撒いているのです。それゆえ、心にこそ配慮すべきです。なぜなら、われわれの考えや言葉は心から生じ、気質や表情や歩き方までもが心から生じるのですから。心が健全で力強くあれば、文体もまた強健で活力に満ち、男らしいものとなります。しかしもし心が節度を失えば、文体もまた退廃的になります。

23. 王が健在であれば、皆の心は一つだが、

王を失えば、皆が忠義を見失う*14

われわれの王は、われわれの心です。これが健在であれば、他の部分はその責務を守り、忠実に従います。しかし、少しでも心が動揺すれば、他の部分もそれに伴って崩れ去ります。そして心が快楽に屈したならば、心の才知も行為も軟弱になり、いかなる仕事も無気力で、締まりのない状態からなされることになります。24. この比喩を続けて用いたいと思います。つまりわれわれの心は、ある時は王であり、ある時は暴君です。立派なことを重んじ、自らに委ねられた肉体を大切にし、その肉体に対しいかなる不義も卑劣なことも命じなければ、その心は王です。しかし統制を失い、情欲を求める享楽的な心は、忌むべき最も恐ろしいものへと、つまり暴君へと変わります。すると心は、制御を失った感情の餌食となります。そしてあたかも大衆が、最終的に破滅の原因となるものを腹一杯詰め込んで、食べきれなかったものを撫でまわすように、初めのうち心はそうした状態を喜びます。25. しかし病気が徐々に体を蝕み、骨髄や筋肉にまで快楽の影響が及ぶと、過度の享楽により自分自身の手足では喜べなくなった快楽の代わりに、他人の快楽を見ることを喜ぶようになるのです。不摂生のために自分自身では体験できなくなったので、他人の情欲を仲介したり、目撃者になったりするのです。そのような心にとっては、喜びがありふれていることも、嬉しいことではなく、辛いことなのです。なぜなら、ありとあらゆる贅沢な食事全てを、喉と胃袋を通して送ることはできないし、全ての男娼や娼婦の中で、転げまわることはできないし、そのうえ悲しいことは、そうした喜びの大部分が、体力の限度によって制限されているのですから。

 26. じっさい、ルキリウス君、われわれの誰も自分を死すべき存在だと考えないのは、何と狂っていることでしょう?また、脆弱だとも。また、自分をただ一人だとも。調理場と、沢山の火の間を忙しなく動きまる料理人を見て下さい。君は、これほどの大騒ぎをして用意される食事が、ただ一つの胃袋のためであると思えますか?様々な種類の年代ものの葡萄酒が揃えらえた、古酒の貯蔵庫を見て下さい。あれほど多くの執政官の年々に、あれほど多くの葡萄畑から集められたこの貯蔵庫の葡萄酒が通るのは、ただ一つの胃袋のためだと思えますか?どれほど沢山の地域で、どれほど沢山の農民が、畑を掘り返したり耕したりしているかを見て下さい。シチリアやアフリカで作物が植えられるのは、ただ一つの胃袋のためだと思えますか?27. もしわれわれが自分を一人だと見做し、自分一人の肉体に必要なものをよく考え、自分が受け入れらる量がいかに少なく、またその期間がいかに短いかに思いを馳せることができれば、われわれはより分別をもち、より適度を望めるようになるでしょう!しかし、節度を保ちたいなら、人生は短く不確かであることを絶えず思い出すことほど、役に立つことはありません。何をするにしても、第一に考慮すべきは死です。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 114 - Wikisource, the free online library

・解説

 文体について論じた書簡で、セネカの文章に対するプライドのようなものが垣間見えて面白い。そしてセネカ自身の文章はといえば、美しく鋭く、力強く心の深い部分に訴えかけ、それでいで優しさやユーモアも感じさせる軽やかな文章である。もし文体が魂の鏡なのであれば、セネカは相当優れた魂の持ち主ということになる。人々からの評価が何であれ、実際僕は、セネカの文章に(内容においても文体においても)大きく救われている。2000年も後の時代の人間に、これほど助けとなる文章を残すことができるセネカである。それを優れた魂と呼ばないなら、いかなる魂もそう呼ばれることはないだろう。

 

 

 

 

 

*1:書簡19.9,書簡92.35参照

*2:テレンティア。アウグストゥスの愛人だったとも言われている。「とすると、君はマエケナスのほうが幸せだと思うのか。恋のために憂い顔で、気難しい妻の毎日の離縁を泣きながら、彼方から優しく響いてくる合奏団の調べに眠りを求めているからか」摂理について3.10〔岩波文庫の「怒りについて」に収録〕

*3:マエケナスの「私の装いについて」という作品からの引用らしい。引用分も語法などにおいておかしな点が多く、見苦しいものであったようだ。単語を拾いつつ、できるだけ意味不明になるようにかなりオリジナルの訳をした。

*4:宮廷などで身元の確認のために求められた。

*5:テレンティアに対する女々しい恋情を揶揄している。

*6:つまり曖昧な表現をして、読み手が混乱すれば喜ぶという悪趣味な態度だとセネカは批判している。

*7:十二表法とは、前5世紀に10人の立法官によって書かれた、日常生活に最も重要な条文を短縮して十二枚の銅板に刻んだ、ローマの表法。

*8:いずれも前1~2世紀の人物。

*9:いずれも前3世紀の人物。

*10:キケロの文体については、書簡100.7も参照。

*11:前86~35年のローマの歴史家で、「カティリナ戦記」「ユグルタ戦記」が現存。書簡20.5,書簡60.4,書簡109.16も参照。

*12:アウグストゥス時代のローマの政治家、歴史家。

*13:つまり、本12節でいうところの、「欠陥を愛する」が意味すること。

*14:ウェルギリウス「農耕詩」4.212