徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡113 魂とその属性の生物性について

 1. 君は、われわれの学派で議論されている問題、つまり、正義や勇敢や賢慮、その他の美徳は生き物であるか、について僕の意見を手紙に書くことをお望みです。愛するルキリウス君、このような緻密な議論によってわれわれは、無益な事柄に知恵を絞り、不毛な議論のために閑暇を浪費していると、人々に思われてきました。しかし僕は、君の望みに応え、この問題についてのわれわれストア派の見解をご説明しましょう。そして僕自身としては、別の意見を述べましょう。ある事柄は、パイカシウム靴やパリウム外套*1を身に着けた人々に相応しいものです。しかし、昔の人々を動かした事柄とは、あるいは、昔の人々が動かした事柄とは何かについて、説明していきましょう。

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 ここから2~25節にかけて、「美徳や善や正義(といった魂の属性)は生き物であるか(生物性があるか)?」という主題で議論が続くが、あまりに冗長でどうでもいいので丸ごと割愛する(興味のある人は英訳を読まれたい)。簡単にまとめると、「魂は生き物である。美徳は魂の属性である。ゆえに、美徳も生き物である」というストア派の三段論法を、セネカが揶揄するという形である。

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 26. 君は言われる。「まったく、今われわれが議論していることは、どれも織物職人の仕事です*2。」文法破綻や独自表現や三段論法も生き物であると考えて、画家のように、その各々に相応しい顔を与えるとしたら、とんだお笑い草です。これが、眉間を寄せ額に皺を作って議論すべきことでしょうか?僕は今ここで、カエリウスの言葉「ああ、なんという悲劇か」などと言うことはできません。これらはもはやただの滑稽劇です。なぜわれわれは、有益で健全な事柄について話し合い、どうすれば美徳に達することができるか、そこに繋がる道はどこにあるのかを、探究しようとしないのでしょうか?

 27. 勇敢が生き物であるかどうかではなく、次のことを教えて下さい。つまり、勇敢でなければ、危難に立ち向かうための強さを持ち、災いに予め備えて覚悟をしておくことで、あらゆる運命の襲撃を克服することができなければ、生き物は幸福ではないということを。そして勇敢とは何でしょうか?それはわれわれの生来の弱さを守る難攻不落の要塞であり、それに守られた者は、この人生における包囲攻撃の中にあっても、不安を免れ持ち堪えることができるのです。その人は自分自身の力、自分自身の剣を用いているのですから。28. これについて、われらがポセイドーニウスの言葉をお伝えしたいと思います。「君は運命が与えた武器によって、自分は安全になれるなどと決して考えてはならない。自分自身で戦いたまえ!運命は運命自身に対抗しうる武器は与えてくれない。それゆえ敵に対して武装を整えたものであっても、運命に対して備えができているとは限らないのだ。」

 29. アレクサンドロスは確かに、ペルシャ人やヒルカニア人やインド人、その他の海洋にまで広がるあらゆる東方の種族を侵略し、追い回しましたが、彼自身は友人を殺したり失ったりして、暗夜に(寝台で)転がり回って、ある時は自分の犯した罪について、ある時は自分の喪失について嘆き悲しみました。彼は多くの王族や国々を征服しましたが、彼自身は怒りと悲しみ征服されたのです!というのも、彼が目指していたのは、自分の感情以外の全てを支配することでしたから。30. ああ、海の彼方まで支配権を広げることを望み、最も幸福なこととは、軍を率いて数多の属州を占領し、古い領地に新しい領地を加えることだと考える連中は、何と愚かな過ちに捉われていることでしょう!神々に近しい所にある偉大な王国について、彼らは何も知らないのです!31. 自己を支配することこそ、あらゆる支配の中で最も偉大なものです。常に他人を慮り、自分自身については必要なもの以外求めない、そのような正義がどれほど神聖なものであるか、僕に教えて下さい。この正義は野心や虚栄心とは何ら関りを持たず、自分自身で満足をします。

 人が何よりもまず、自分自身に確信させるべきは次のことです。「何の見返りがなくとも、自分は正義を守ろう。」そしてこれだけでは十分ではありません。次のことも確信させましょう。「この最も崇高な美徳を守るため、自らの意で喜んで身を捧げよう。」自らの考えは、個人的な利益からできる限り遠ざけましょう。正義の行為は、その報酬を求める必要はありません。それ以上の報酬が、行為そのものの中にあるのですから。32. 僕が今述べたこれらのことを、君の心に刻みつけて下さい。君の正義を知る人が何人いるかということは、どうでもいいことです。自分の美徳を公言することを願う人は、美徳ではなく名声を求めているのです。君は名声などなくとも、正しくありたいと思いませんか?いいえ、それどころか君は、悪評を受けてでも正しくあらねばなりません。そしてその時は、もし君が賢明であるなら、悪評を甘んじて受け入れ、それを喜びとすらして下さい。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 113 - Wikisource, the free online library

・解説

 内容的には26~32節だけで充分に読むに値する。

 

 

 

 

*1:いずれもギリシャの衣類。つまり、どうでもいい議論に夢中になるギリシャ人のような人に対する皮肉。

*2:つまり、「美徳は生き物であるか?」についての議論は、複雑で緻密なだけで、どうでもいいことだということ。

セネカ 倫理書簡112 凝り固まった悪徳の改善について

 1. 君の友人が、君の望む通りに改善され、教化されることを僕も心から願っています。しかし、彼は非常に凝り固まった状態にあり、そして一層厄介なことに、悪徳の習慣により(善き精神が)崩れて、非常に軟弱な状態に陥っています。

 僕は自分が取り組んでいる果樹園の栽培法から、一つの例を君にお示ししたいと思います*12. どんな葡萄でも、接ぎ木ができるという訳ではありません。古くなって枯れたり、弱って痩せたりしたら、そうした葡萄の木は若い接ぎ穂を受け入れないか、(受け入れたとしても)栄養を供給することもできず、接ぎ穂の性質や特質と、一体化することもできません。ですからわれわれは通常、地面より上で葡萄の木を切り取ってそこに接ぎ木し、それが上手くいかなければ、次の試みとして、地面より下で切り取って接ぎ木するのです*2

 3. お手紙に書いてくれた君のその友人にも、活力がありません。自分の悪徳に耽ってきたのですから。彼の場合は萎びると同時に頑になってしまいました。彼は理性を受け取ることも、それを育むこともできません。「しかし」君は言われる。「彼自身は理性を望んでいるようです。」信じてはなりません。もちろん僕は、彼が嘘をついていると言っている訳ではありません。彼は本当に欲しているでしょうから。贅沢が彼の腹を立てたのですが、すぐにそれと彼は和解するでしょう*34. 「しかし、彼は自分の生活にはもううんざりだと言っています。」それもそうでしょう。嫌悪感を抱かないことがありましょうか?人は自分の悪徳を、好むと同時に憎みます。ですから、われわれが彼について判断を下すのに適切な時期とは、彼が贅沢を真の意味で嫌っているという保証を、われわれに示した時です。今のところ彼は、贅沢と痴話喧嘩をしているだけです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 112 - Wikisource, the free online library

・解説

 書簡25書簡29でも、セネカらの友人の改善について述べられている。

 この書簡112の3,4節における、「自分自身にうんざりする」という点は、「心の安定について」2.7~11に詳しい。「人生の短さについて」の文庫版のいずれにも収録されているので、是非とも読まれたい。

 

 

 

 

 

 

 

*1:セネカは別荘で葡萄やオリーブを栽培することも趣味としていた。

*2:今度は周りが土に囲まれているので、より強力に接ぎ穂を支えられる。

*3:贅沢ゆえにうんざりして、何か新しいものとして理性を本当に欲しがっているだろうが、すぐ贅沢と和解するだろう、という意味。

セネカ 倫理書簡111 頭の体操の空虚さについて

 1. ギリシャ語の「σόφισματαソピスマタ(詭弁)」をラテン語では何と言うのかと、君はお尋ねです。多くの人々がこの言葉の定義をラテン語で決めようとしましたが、定着したものはありません。その概念自体われわれが一般的に受け入れ、用いたものではないのですから、それも当然のことです。この(ギリシャ語の)名称だけでも、抵抗感を抱かれていましたし。とはいえ僕は、キケローが用いた言葉が最適であると思います。彼はそれを、「cavillationes(屁理屈)」と呼びました。2. この詭弁(屁理屈)に身を委ねる者は、沢山の巧妙な仕掛けを編み出しはしますが、実際の生活においては何ら進歩はありません。これのお陰でより勇敢になることも、より節制を持つことも、より精神を崇高にすることもできません。

 しかし、自分自身を改善するために哲学を実践した者は、魂が崇高になり、自信に満ち溢れ、打ち負かされるがなく、近寄るほどにより偉大な人物に見えます。3. 同じことは、大きな山の場合でも起こり、遠目にはその高さはそれほどではなくとも、近付くほどにその峯の高さははっきり見てとれます。愛するルキリウス君、このような人物こそ、われわれにとっての真の哲学者であり、それは小手先ではなく、彼の行為によって示されるのです。彼は高みに立ち、賞賛に値し、高潔で、真の意味で偉大です。彼は実際よりも背が高く見られることを望んでつま先立ちで歩き、偽って身長を伸ばそうとする連中のような真似はしません。彼は自分の偉大さに満足しています。4. そしてどうして彼が、運命の手が届かないほどの高さにまで成長したことに、満足しないことがありましょう?つまり彼は人間的な事柄を越えて立ち、どんな状況にあっても、同じ自分自身を保ちます。人生の航海が順風満帆であろうと、混乱と絶望の荒波の中を進もうと。しかし、この不動心は、先に述べた詭弁によっては得られません。頭がそのような詭弁でお遊びをしても、何の益にもなりません。それらは、哲学を高みから低地へ引き降ろすことです。

 5. 君がたまにそうした気晴らしをすることまで禁じたりはしません。けれどもそれは、他に何もする気が起きない時にして下さい。しかし、そうした詭弁が持つ最悪の性質の一つは、それ自体が或る種の魅力を自ら生み出し、巧妙さをひけらかすことで精神を引き入れて虜にする、という点です。ところが一方では、重大な事柄がわれわれに注意を呼びかけています。そして、人生を軽蔑するというたった一つの原理を学ぶことには、全人生を費やしてもなお十分ではないのです。「何でしょう?」君は言われる。「あなたは軽蔑ではなく制御と言っていませんでしたか?*1」いいえ、制御することは次点に学ぶべきことです。というのも、先ず人生を軽蔑することを学ばない限り、誰も人生を正しく制御することはできませんから。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 111 - Wikisource, the free online library

・解説

 セネカ自身どうも詭弁に熱中するフシがあるので、自戒の意味も込めて書いてもいるのだろう。とりわけ倫理書簡集の後半は読んでいて疲れるこうした屁理屈が多い。書簡102の「(死後の)名声は善かどうか」や書簡106の「美徳は実体性のあるものか」、そして書簡109の「賢者は賢者の役に立つか」など、大事なことも書いてあるのだが、どう見てもセネカの言葉遊びや屁理屈遊びとしか思えないような箇所が目立つ。本111以降の書簡にもまだ幾つかあるのだが、あまりに内容がどうでもいい部分は省略する予定でいる(書簡113の殆ど)。

 そして、そうした詭弁ではなく、真に価値のある哲学を学び、人生を軽蔑できるまでになれと言っている。言っているその通りなのだが、悪例だとしても詭弁の叙述があまりにも多い。おそらくセネカの「倫理哲学の書」にもそうした屁理屈があまりに多く、読み手に価値がないと思われて、それでこちらは散逸したのではないだろうか。倫理書簡集の89~124(1~88とは別ルートで後世に伝わった。)には、「倫理哲学の書」の話題がチラホラ見られるが、もしかしたら執筆時期が被っていて、内容も多くが「倫理書簡集」と重複していたのかも知れない。もしそうした屁理屈を複数の著作で書いていたのだとしたら、最晩年のセネカは案外ヒマだったのかも知れない…。

 

 

*1:4節の「同じ自分自身を保つ」ことを「制御」として。

セネカ 倫理書簡110 真の富と偽の富について

 1. ノメントゥム*1の別荘から君に挨拶を送ると共に、君が善き精神を保つことを願います。つまりは、全ての神々の好意を得て下さい。というのも、神々が祝福と恩恵を授けるのは、自分で自分自身に好意を持つことができる人だからです。或る人々が信じていることは、今のところ置いておきましょう。つまり、われわれには一人一人守護の神が割り当てられているというものです*2。その神は通常言われる神ではなく、より階級の低い神で、オウィディウスが「平民の神々」と呼んでいるものですが*3。しかし、そのような考えを置いておくとしても、そうした信仰に従っていたわれわれの先祖がストア派になったのだということは忘れないで下さい。彼らは全ての個人にそれぞれ、ゲニウスとユーノーを割り当てたのです。2. 神々にはわれわれの一個人のことにまで気を配る暇があるのかどうかについては、後ほど考えることにしましょう。さしあたり知るべきなのは、われわれが(守護の)神に委ねられているにせよ、放任されて運命に委ねられているにせよ、人が他人にかける呪いのうちで、自分で自分に敵意を抱く*4ように祈願することほど重いものはない、ということです。

 しかし君は、処罰に値すると君が考える人に対して、神々の敵意を求める必要はありません。彼らはたとえ神々の好意を得ているように見えても、神々に敵対しているのです。3. 人々がどう言うかではなく、われわれの実際の状況がどうであるかを注意深く考えて、精査して下さい。そうすると、災害はわれわれを害するよりも、われわれのためになることが多いことがお分かりになるでしょう。というのも、災害と呼ばれるものが、幸福の源であり、始まりであったことがどれほど多くあるでしょう!われわれが深い感謝をもって歓迎した事柄が、実は絶壁の頂上へ至る階段を自ら築き上げることであり、あたかもそれまでは転落しても無事な場所にいたと思わせるかのように、既に成功した人々をさらに高く引き上げることであった*5、ということが、どれほど多くあるでしょう!4. しかしこの転落ということも、(死という)終末を考えれば何ら悪いことではありません。自然はいかなる人間も、そこより下に追い落とすことはないのですから。あらゆる限界はすぐ近くにあります。そうです、幸福な者が転落する限界も、不幸な者が解放される限界も、すぐ近くにあるのです。この両方の限界を先延ばしにし、希望と恐怖で無理やり引き延ばしているのはわれわれ自身です。

 しかし、もし君が賢明であるならば、人間の条件*6に従って全てを判断して下さい。喜びと恐れの、いずれも制御して下さい。さらには、何事も長く喜ばないことが、長く恐れないためには重要です。5. しかし、どうして僕はそうした悪を制限しようとするのでしょう?君が何かを恐ろしいものだと考えねばならない理由はありません。われわれを恐れさせ、かき乱すのはみな空虚なものに過ぎません。われわれの誰も、真実をふるいにかけることはせず、恐怖を互いに伝え合います。恐怖の原因にあえて近づくことはせず、自分たちの恐怖にある性質、つまりは背後にある善を理解しようとはしません。これにより、偽りの空虚なもの*7が依然として信頼を得ているのです。それらは、よく反証されてきませんでしたから。6. われわれは、これを詳しく調査すべきだと考えましょう。そうすれば、われわれが恐れているものが、いかに束の間の、いかに不確かな、いかに無害なものであるかが明らかになるでしょう。われわれの精神の混乱は、ルクレ―ティウスが見たものと同じです。

暗闇の中で怯え、震える子供のように、

われわれ大人は白昼の下で恐れを抱く*8

それではどうでしょう?「白昼の下で恐れを抱く」われわれは、どんな子供よりも愚かではないでしょうか?7. しかし、ルクレ―ティウスよ、君は間違えている。われわれは白昼の下で恐れているのではなく、われわれが全てを暗闇に変えてしまったのだ。何がわれわれを害し、何が益するのかを、われわれは見ようとはしません。われわれは生涯を通じてぶつかり回り、そのために立ち止まることも、用心深く歩むこともしません。しかし、暗闇の中で先を急ぐことがいかに狂気であるかはお分かりになるでしょう。ところが実際は、われわれはより遠くから自分を呼び戻すことに腐心します*9。そして、われわれは自分がどこを目的としているかは知らなくても、駆り立てられる方向に急ぎ足で向かうのです。

 8. しかし、われわれが望むなら、光は射し始めるでしょう。とはいえそうした成果は、次のようにすることによってのみもたらされます。すなわち、もしわれわれが、神的な事柄と人間的な事柄に関する知識*10を身につけ、その知識を浴びるだけではなく、自分自身に染み込ませ、それを知っていても、同じことを繰り返し熟考して、何度も自分自身に適用し、何が善であり、何が悪であり、何にこれらの名前が間違ってつけられているかを精査し、立派なことと卑劣なこと、そして神慮について思い巡らすならば。9. さらには、人間の知性の及ぶところは、これらの範囲のみに留まりません。それは宇宙の彼方をも探究することを望みます。つまり宇宙がどこへ向かっており、どこから生まれたのか。そして、全ての自然がそこへと向かい駆ける終末を*11。われわれはこの神聖な観察から魂を引き降ろして、卑俗で低劣な事柄へと引き込みました。それにより、魂は貪欲の奴隷となり、宇宙とその範囲にあるものも、全てを統御する主人*12も捨て置いて、無償で与えられたものには満足できず、地面の下を探し回って、そこから悪徳を掘り出せるもの*13を求めるのです。

 10. われわれ人類の父なる神々は、われわれにとって善いと思われるものを、われわれのすぐ近くに置いて下さりました。われわれに探し求めることなどさせずに、進んで与えて下さいました。しかし、われわれに害になるものは、地中の深くに隠したのです。われわれは自分自身(の行い)について以外、何一つ文句を言うことはできません。なぜなら、われわれはそれを隠していた自然の意図に逆らって、自らの破滅の原因となるものを、明るみに持ち出したのですから。われわれは自らの魂を快楽に引き渡し、快楽に耽ることが全ての悪の根源となりました。われわれは自らを野心や名誉、その他の同様に空虚で無益なものごとに引き渡しました。

 11. それでは、僕は今君に何をするよう勧めましょう?何も新しいことはありません。われわれは新たな悪の治療薬を探している訳ではありませんから。しかし、何よりも大切なのは次のこと、すなわち、何が必要なもので、何が余分なものかを、自分自身で明確に見極めることです。必要なものには、どこででも出会えます。余分なものは常に、多大な努力を払って探し求めねばなりません。12. しかし、君が黄金の寝台や宝石をちりばめた家具を軽蔑する程度であれば、それは大して誇ることではありません。というのも、無益なものを軽蔑することに、どんな美徳があるのでしょう?必要なものを軽蔑できるようになった時こそ、自分自身を賞賛して下さい。王室の装飾なしに暮らしていけることは、大したことではありません。千ポンドの猪やフラミンゴの舌や、その他の丸ごとの動物の料理には飽き飽きして、それぞれの動物から特定の部位だけを選んで食べるという歪んだ贅沢を望まないことは、大したことではありません。僕が君を賞賛するのは、君が粗末なパンでも軽蔑することを学んだ時、草は家畜のためのみならず、人間のためにも育つと*14自分自身に納得させた時、木々の先端からでも食べ物を見つけ出し*15、それで腹を満たせることを知った時です。われわれはあたかも吐き戻すことがないかのように、高価な品々を腹に詰め込みます。しかし、腹を満たすには、それを甘やかす必要はありません。胃袋は受け取ったもの全てを失うのに、そこに詰め込むものに何の意味がありましょう?13. 君を喜ばせるのは、海で陸で獲れた食材が丁寧に盛り付けられた料理です。それらは新鮮なまま出されたらいっそう喜ばしいものですし、長きに渡って餌を与えて強制的に太らせ、その脂身を自分自身で支えることができない程にまで柔らかくなったもの*16もいっそう喜ばれます。このように巧みに工夫された味を、君は好みます。しかし、誓って申しますが、そのように注意深く選ばれ、様々に味付けされたそれらの料理も、ひとたび腹の中に入れば、みな等しく醜いものになります。食の快楽を軽蔑したいですか?その最終結果について考えてみて下さい!14. 僕はアッタロス*17が次のようなことを言って、全ての人々の賞賛を引き起こしたことを覚えています。

 「私は長い間、富に騙されていた。富があちこちで輝くのを見て、私はいつも目を眩ませていた。私はそれらの外見と、内に持つ力は同じだと考えていた。しかし或る時、わたしはとある贅沢な催し物で、都の富の全貌を目にしたのだ。金や銀に施された浮彫り細工や、自国の領土の彼方のみならず、敵国の領土の彼方からも運び込まれた、金や銀よりもさらに高価になるほど手を込んで作られた染め物や敷き物を。そして、こちらには服装や顔立ちが美しい少年奴隷の群れがあり、あちらには女奴隷の群れがある。その他にも、繁栄を極めた強大な帝国がその所有物を総ざらいして持ち寄った、あらゆる品々があった。15. 私は自分自身に言ってやった。これは、それ自体既に搔き立てられている、人間の欲望をさらに煽り立てることに他ならない、と。これら全ての財産の見せびらかしには、何の意味があろう?われわれはここに、貪欲を学ぶために集まってきたのだろうか?私自身については、やって来た時ほどの貪欲は持たずに、そこを去ることができた。それ以来私は富を軽蔑するようになったが、それは富が無益だからではなく、醜悪だったからだ。16. その(催し物の)行列が、どれほどゆっくり、決められていた通りに慎重に進んだところで、いかに短い時間の間に過ぎ去り、終わってしまったかを君は見ただろうか?たった一日すら費やせないこれらの財産のために、われわれは一生を費やすのだろうか?」

 「私は他にも言いたいことがある。私にとって富は、眺めている者と同様、所有している者にも役に立たないと思われたのだ。17. それゆえ、その類の見世物が私の目を眩ませるたび、立派な邸宅や、洗練された奴隷の一団や美しい担ぎ手たちに運ばれる駕籠を見るたび、自分に言ってやるのだ。なぜ驚嘆している?なぜ口を開けてぼうっと眺めている?それらは全て見かけだけのものだ。それらは所有物ではなく、展示物だ。喜んで眺めている間に、通り過ぎて行く。18. それよりもむしろ、真の富に目を向けたまえ。僅かなもので満足することを学び、勇敢で偉大な精神をもって、次の言葉を叫びたまえ。『われわれには水があり、大麦粉もある。まさにユピテルの大神と、幸福を競い合おう。』そしてさらには、水も大麦粉なくとも、この挑戦をしてみようとは思わないだろうか?というのも、幸福な人生を金や銀に拠るのは恥ずべきことだが、水や大麦粉に拠るのも同様に恥ずべきことなのだから。『しかし、』人々は言うだろう。『それらすら無しに、何が出来ると言うのでしょう?』19. 君は窮乏の治療薬は何かと尋ねているのかね?飢えることが、飢えを癒す*18。というのも、他の全てのことと同様、君に隷属を強いるものが大きいか小さいかに、何の違いがあろう?運命が君に与えないものがどれほど僅かであるかに、何の重大事があろう*1920. 水にしろ大麦粉にしろ、他人の支配下に置かれ得るものだ。しかし自由とは、運命の力が僅かしか及ばない者ではなく、全く運命の力が及ばない者の内にあるのだ。これが私の言いたかったことだ。つまり、もしユピテルの大神に挑もうと思うなら、君は何も望んではならない。大神は、何も望まないのだから。」

 以上のようなことを、アッタロスはわれわれに語ってくれました。もし君がこうしたことを繰り返し熟慮するなら、君は幸せに見えることではなく、幸せなことに向かって突き進むでしょう。そして、他人にそう思われるのではなく、自分で自分を幸せだと思うことでしょう。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 110 - Wikisource, the free online library

・解説

 ストア派らしい富の軽蔑の教え。アッタロスの言葉は、もっともだが単に財宝が羨ましくなって、去勢を張って富に価値はないと言っているように見えなくもない。そもそもストア派の開祖のゼノンも、財産を積んでいた船が沈没したことをきっかけにこの思想を始めたし、セネカ自身も大金持ちで、引退の際にネロに命乞いのような形で財産を返納してから、晩年の執筆活動に勤しんでいる。ので、本当は金銭が欲しくて欲しくて仕方ないが、やせ我慢して軽蔑するとか言っているのかも知れない。

 とはいえ、痩せ我慢とは立派なもので、卑屈な精神で、「金のある人は心も豊かだ」とか、「金銭はそれに相応しい人に引き寄せられる」とか、「金持ちは立派だ」とか寝言をのたまう現代人より遥かに立派で、高潔な態度だと思える。そもそもセネカは自分が俗物であることを隠していないし、それを素直に認めた上で自身の考えを述べている。やせ我慢で富を軽蔑する方が、卑屈な態度で富を崇めるよりも、誠実な態度だと個人的には思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:書簡104.1参照

*2:全ての男性には守り神ゲニウス、女性にはユーノーがついているという考え。イメージ的には守護霊・背後霊。書簡12.2,書簡90.28,書簡95.41も参照。

*3:オウィディウス「変身物語」1.595

*4:つまり1節の「自分で自分自身に好意を抱く」の反対。

*5:つまり、既に成功した人は元々断崖に立っているのだが、さらに高みに立ってより危険になることが、あたかも以前は安全であったかのように錯覚させる(そうして際限なく危険になっていく)、ということ。

*6:死すべき人間に定められたこと

*7:金銭や地位など

*8:「事物の本性について」2.55~56

*9:いつでもスタート地点を新たに定めて、つまりは人生を新しく始めて、より遠くのことをあてにして、現在の自分を急き立て、暗闇の中を突進する、という意味、

*10:哲学

*11:宇宙の全ては火によって消滅し、また再び生じるというストア派の宇宙観。

*12:

*13:鉄や貴金属などを掘り出すと同時に、そこから争いや贅沢といった悪徳を掘り出す(取り出す)という意味。

*14:いざとなれば雑草も食べられると

*15:つまりドングリなどの木の実

*16:霜降り肉のようなイメージ。

*17:ティベリウス帝時代のストア派の哲学者にして、セネカの師。書簡9.7,書簡63.5,書簡72.8,書簡81.22,書簡108.3参照。

*18:飢え死にすれば、飢えの苦しみは無くなる、という意味。

*19:食べ物がどれほど少量に制限されたところで、死ねば関係ないので。

セネカ 倫理書簡109 賢者と賢者の交友について

 1. 賢者は賢者の役に立つのかどうかを知りたいと君はお望みです。というのも、われわれ(ストア派)は、賢者はあらゆる善を多分に備えており、完全の域に達していると主張するので、最高善を有する人に、誰がどのように役立つことができるのか、という疑問が生じるからです。

 善き人同士は互いに役立ちます。なぜなら、お互いがお互いに美徳を実践し、英知を各自に相応しい状態に保持しているからです。彼らは相互比較し合ったり、共に研究し合ったりする相手を必要としています。2. 熟練の格闘競技選手は互いに組み合って鍛錬をしますし、音楽家は同等の技量を持つ者に刺激を受けます。賢者もまた、美徳の鍛錬を続ける必要があります。そして、自分で自分を行動へと刺激するのと同じように、他の賢者から刺激を受けるのです。3. 賢者はどのように、他の賢者の役に立つのでしょうか?相手に衝動を促し、立派な行動の機会を示すことによってです。さらに自分自身の考えを述べ、自分が発見したことを教えるでしょう。というのも、たとえ賢者であっても、新たに発見すべきものや、それに向かって新たな探究をすべきものが常に残っているからです。

 4. 悪人は悪人を害します。相手の怒りを煽ったり、悲嘆に同調したり、快楽を称賛したりすることで、互いに互いを貶めます。悪人は彼らがその欠点を完全に混ぜ合わせ、言うなれば彼らの邪悪が互いに一つに連帯する時、最悪の存在となります。ですから、これとは反対に、善人は他の善人の役に立つでしょう。「どのように?」君はお尋ねになる。5. 善人は互いに相手に楽しみ与え、自信を強めます。そして互いに静寂さを示しあうことで、両者の喜びはいっそう高まるでしょう。さらに、彼らは何らかの事柄についての知識を互いに伝え合います。賢者といえども全知全能ではありませんから。そして、たとえ全てを知っていたとしても、誰かが近道を考案して、指摘してあげることができます。そうすることで、賢者の仕事全体がより容易に進み広がることでしょう。6. 賢者が賢者の役に立つのは、もちろん当人の力によってですが、それだけでなく、助けられる側の力にもよります。もちろん後者も自分の力だけで自分の役割を果たすことができます。とはいえ、よく走る人でも、応援によって励まされるものです。

 「しかし実際は、賢者が賢者の役に立っているのではなく、(助けられる側の)賢者が自分で自分の役に立っているのだ。当然のことだが、助けられる側自身の力を取り去ってみるがいい。もう一人は何もできないだろう。」7. その理屈なら、蜂蜜には甘味がないと言うことができます*1。なぜなら、蜂蜜を食べるのはその人自身であり、その人自身にこうした食べ物を味わい、好むか嫌うかを判断するのに適した舌や味覚が備わっているからです。また、病気の影響で、蜂蜜を苦いと感じる人もいます。ですから、一方が役に立ち、もう一方が適切に助けを受けるためには、いずれもが健全*2でなければなりません。8. 人々はまた言います。「熱が最高温度に達したものにさらに熱を加えるのは無意味なことだ。よって最高善に達した者に何らかの手助けは不要だ。完璧に農具を備えた農家が、隣人にさらなる道具を請うだろうか?十分な武装をして戦場に向かう兵士が、それ以上に何か武器を必要とするだろうか?賢者もそれと同じである。人生のために十分に備えており、十分に武装しているのだから。」9. これに対する僕の答えは次の通りです。すなわち、熱が最高温度に達したものでも、その最高温度を維持するためには、加熱し続けなければなりません。そして、熱はそれ自身で自己を維持するという反論があるなら、僕は、今比較しているものの間には大きな違いがあると言います。というのも、熱は一つ(の現象)ですが、役に立つということには多くの種類があります。そして、熱は熱を加えられることによって自己を保つのでないとしても*3、賢者は、自身の善を分かち合える同等の仲間との交友無しには、自己の精神状態を保つことはできません。10. さらに、あらゆる美徳*4の間には、相互に親近関係があります。ですから、賢者は彼らのうちの或る人の美徳を愛し、今度は自分が愛されることで互いの役に立つのです。類似のものが喜びを与え合うのです。とりわけそれが立派なものであり、互いにそれを認め合うことができる場合に。11. そして、賢者の心を正しく動かすことができるのは、賢者をおいて他にありません。人間を理性的に動かすことが、人間でなければできないように。したがって、理性を動かすためには理性が必要であるように、完全な理性を動かすためには完全な理性が必要です。

 12. ある人々*5は、金銭や影響力や安全やその他の、人生に不可欠で大切な援助すなわち「中間的なもの*6」をわれわれに与えてくれる人ですら、役に立つと言います。この意見に従うなら、最も愚かな者であっても賢者の役に立つと言えるでしょう。しかし、役に立つということは自然に従って(相手の)心を動かすことであり、それは自分自身の美徳と同時に、動かされる相手の美徳によって可能となります。そして、これは助ける側にも必ず役立ちます。なぜなら、他人の美徳を鍛えることは、必然的に自分自身の美徳を鍛えることに繋がるからです。13. しかし、たとえ最高善や、最高善を生み出すものを除外しても、賢者はやはり互いに役立つことができます。なぜなら、賢者が賢者と出会うことそれ自体が、望ましいことだからです。というのも、自然本性にとって善いものは全ての善き人にとって善いものであり、善き人は自分自身に親しむをことを喜ぶのと同様、他の善き人に親しむことを喜ぶからです。

 14. 僕の意見を示すために、この問題点から別のものに移る必要があります。というのも問われるべきは、賢者は自分一人で物事を熟慮するのか、それとも他者に助言を求めるのか、ということだからです。賢者は公務や家庭の問題、言うなれば死すべき人間に定められた問題に臨む時、そのようにせざるを得なくなります。そうした問題について、賢者は外からの助言を求めます。ちょうど医師や、舵手や、弁護人や調停人が、他者の助言を求めるのと同様に。したがって賢者も時には賢者の役に立ちます。助言し合うことによって。しかし賢者は、重要で神聖と呼ばれる問題についても、共に立派な事柄について話し合ったり、自身の考えや発見を教え合ったりすることで、互いに役立つことでしょう。15. さらに、友人たちに愛情を示し、彼らの進歩をあたかも自分のことのように喜ぶのは、自然に従ったことです。なぜなら、もしわれわれがそのようにしなかったら、認識を鍛えることによって強化するわれわれの美徳すらも、われわれの内の留まらなかったでしょうから*7。ところで、美徳はわれわれに、現在をよく整え、将来のことを考え、熟慮して心を備えるよう忠告します。そして、友人と共に熟慮する者は、より容易に頭を働かせて問題に対処することができます。

 ですから、賢者は完成された人か、完全に近いところまで進歩した人を求めるでしょう。そのうえ、この完成された賢者は、われわれが普通一般の思慮分別をもって助けるならば、われわれを大いに助けてくれるでしょう。16. 人は一般に、他者のことについてのほうがより分別を持てるものです。自己愛により盲目になり、危機に際して恐怖により有益な事柄に対する明瞭な視野を失った人には、そうした分別が欠けてしまいます。人は平静で恐怖心から解き放たれている時、より賢くなるのです。そして、たとえ賢者であっても、自分自身のことよりも他人のことの方がより問題を明晰に把握できるということがあります。さらには、賢者は仲間の賢者と共に、「同じものを望み、同じものを望まない*8」という最も好ましく、褒むべき格言の真実性を確かめるでしょう。彼らが「同じ頸木で」重荷を引く時、崇高な成果が現れるでしょう。

 17. このように僕は、君がお尋ねのことについて答えしましたが、以上の内容は、僕が「倫理哲学の書」で扱っている一連の問題に属することでもあります。そして、僕がいつも言っているように、このような問題はわれわれにとって頭の体操以外の何の意味もないということを忘れないで下さい。というのも、僕は繰り返し、次の考えに立ち戻るのです。つまり、このようなことが、僕に何の益がありましょう?今すぐ僕をより勇敢に、より公正に、より節度ある人間にして下さい!僕はまだ、自分で自分を鍛えることはできません。というのも、僕は未だ医者を必要としているからです。18. どうして君は僕に、無駄な知識を求めるのですか?君は僕に、素晴らしいことを言ってくれました。僕を試し、僕を見張って下さい!君は僕に言いました。たとえ刀剣が僕の周りで閃いていたとしても、たとえ刃の先端が喉元にあったとしても、僕が恐れるべきものは何もないと。君は僕に言いました。たとえ僕の周りで火が燃え盛っていても、あるいは突然の暴風が僕の船を襲って海中へ連れ去っても、僕は平静であるべきだと。僕が快楽や栄光を軽蔑できるような、そのような治療法を僕に授けて下さい。その後で、複雑な問題を解明し、疑わしい点を明確にし、曖昧な事柄を見抜く方法を教えて下さい。しかし今は、僕が知るべきことだけを教えて下さい!お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 109 - Wikisource, the free online library

・解説

 賢者と賢者の友情にある美しさを説く。この書簡でもセネカ自身も批判しながらも割とどうでもいい屁理屈に拘っているが、そうした書簡の中では比較的読みやすく、中身を有意義な方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:「助ける側の賢者」=「蜂蜜」。「助けられる側の賢者」=「味わう人」とすると、蜂蜜が甘いのは食べる側の性質であって、食べられる蜂蜜自体は甘くない、ということになる。そのような理屈は成り立たないから、賢者が賢者の役に立たないのは誤りだ、という意味。

*2:ここでいう「健全」は「善き人であること」の意味。甘い蜂蜜が、健康な人によってのみ甘いと感じられるように、善き人は、善き人によってのみ役に立つということ。

*3:仮に熱が自分で自分を維持するとしても

*4:正義、勇敢、節制、寛容、賢慮etc…

*5:おそらくペリパトス学派

*6:善悪に関係のないもの。ἀδιάφορα(アディアポラ)。書簡82.10参照。

*7:役立つことによって自分自身の役にも立つことがなくなるので。

*8:書簡20.5参照

セネカ 倫理書簡108 哲学への取り組みについて

 1. 君がお尋ねのことは、それを知ることが単に知ることだけに関係するような問題の一つです*1。それなのに、関係しているがために、君は先を急ぎ、僕が今君のために執筆している、倫理哲学の部門全体をまとめた本を待とうとはしません。僕はその本をすぐにでも君に送りたいと思っていますが、その前に、君のその燃え上がる学習意欲を、それ自体が邪魔に*2ならないようにするために、どのように制御すればよいかを書き記しておきましょう。2. 物事に対してはあちこちから雑多に取り組むべきではありませんし、かといって横着して全体に一気に取り組むべきでもありません。部分から辿って研究していくことで、全体の知識を得ることができます。負担は各自の力量に見合うべきであり、手に余るような重荷に取り組むべきではありません。望めるだけではなく、保持できるだけを汲み取って下さい。そして、正しい心さえもっていれば、君は望むだけを手に入れることができるでしょう。なぜなら、心は受け取るほどに、大きく拡がるものですから。

 3. 次のことを僕は、アッタロス*3が教えてくれたことを覚えています。われわれは彼の学堂を囲い、最初に教室に入り、最後に出て行くことを習慣としていました。彼が散歩をしている時にも、われわれは彼を様々な議論に巻き込みました。彼は生徒たちにとって親しみやすく、また進んで出迎えてもくれましたから。彼はこう言っていました。「教師と生徒は、双方が同じ目標を持つべきだ。つまり、教師は向上させるという、生徒は向上するという目標を。」4. 哲学者のもとで学ぶ人は、日々何らかの善きものを持ち帰るべきです。つまり、より健全な人間として、あるいはより健全になる方法を学んで、家に戻るべきなのです。そして実際、そんな風に戻ることでしょう。なぜなら哲学の力とは、それを学ぶ人だけでなく、それと交流するだけの人にも有益となる点にありますから。太陽の下を歩く人は、それが目的でなくとも日焼けをします。調香師の店を訪れる人は、たとえ短時間そこに滞在しただけでも、その場所の香りを持ち歩きます。そして、哲学者の近くにいる者は、怠けがちな人にすら有益な何らかの助けを、必ず得ることでしょう。もっとも、僕の言葉には注意して下さい。「怠けがちな」人にであって、「反抗的な」人にではありません。

 5. 「それではどうでしょう?」君は言われる。「何年も哲学者の近くにいながら、わずかな知識すら身につけてない連中もいないでしょうか?」もちろんいますとも。確かに彼らは熱心に哲学者のもとに居座ってはいますが、僕は彼らを哲学者の弟子ではなく、「(哲学の教室の)下宿人*4」と呼んでいます。6. 彼らの或る者たちは、学ぶためではなく、聞くために来るのです。ちょうどわれわれが、演説や音楽や演劇によって耳の楽しみを満たすために、劇場に惹きつけられるのと同じように。ごらんのように、聴衆の大半はこの類の人々で、彼らは哲学者の講堂を、暇つぶしの娯楽施設だと思っているのです。彼らはそこで欠点を捨て置くことも、自分たちの人格を改善するための人生の何らかの法則を受け入れることもなく、ただ耳の喜びを最大限味わおうとするのみです。それでいて、彼らの或る者は書き物板まで持参しますが、それで内容を書き留めるのではなく、ただ言葉をそのまま書き記すのみです。彼らはそれを他の人々に伝えるのですが、彼らが聞いても何の役にも立たなかったのと同様、伝えた相手にも何の役にも立ちません。7. 或る者たちは、声調の高まりに興奮して、顔も心も沸き立って話し手の感情にのめり込みます。それはあたかも、笛の音に興奮して、狂喜しながら命令に従う、去勢されたフリギアの神官*5たちのようです。しかし、真剣に聴く者は、空虚な言葉の響きによってではなく、内容の美しさに魅せられて、心を動かされるのです。死をものともしない勇敢な言葉が語られたとき、あるいは運命をものともしない力強い言葉が語られたとき、わわれれは即座に聞いたことを実行しようと、喜びに駆られます。人はそうした言葉に感銘を受け、命じられた通りの人物になろうとします。しかしそれは、印象が心に残っている限りにおいてであり、あるいは立派なことを妨げる大衆が、すぐに彼からこの崇高な衝動を奪い去ろうとしない限りにおいてです。感銘を受けたままの自分の精神を、家まで持ち帰れる人はごくわずかです。8. 聞き手を奮い立たせ、正しいことを希求するようにさせることは、それほど難しいことではありません。なぜなら、自然はわれわれ全てにその基盤を築き、美徳を受け入れる準備をさせてくれたのですから。そしてわれわれは皆、そうした気質と共に生まれついているので、刺激が与えられると、あたかも束縛から解放されたかのように、善き心が活気づきます。われわれがその真実性を高く評価し、満場一致で賛同するような言葉が語られるたびに、劇場内がどれほど沸き立つかを、君もごらんになったことがあるでしょう?

9. 貧乏には多くのものが欠けているが、貪欲には全てが欠けている*6

貪欲な人は誰に対しても善人ではないが、自分自身に対しては極悪人だ*7

このような詩句には、あの最も吝嗇な守銭奴ですら拍手喝采し、己の罪悪が非難されるのを聞いて喜ぶでしょう。ましてや、哲学者がこうした言葉を語り、その有益な教訓を詩句に挿入して、未熟な者の心にもいっそう効果的に浸透するようにすれば、その結果はどれほど大きなものとなることでしょう!10. クレアンテスは次のように言っていました。「われわれの息は、それがらっぱの細長い管の中を通過し、最後に広い出口から飛び出す際にひときわ大きな音を放つ。それと同じように、詩という狭い形に整えられた格言は、その意味をひときわ明瞭にするのだ。」同じ意味の言葉でも、散文で語られると、漫然と受け止められ、われわれに与える印象が僅かですが、そこに韻律が加わって、韻律の規則が崇高な言葉を引き締めると、その時、同じ意味の言葉が、言うなればより引き絞った力で解き放たれます。11. われわれは金銭を軽蔑することについて色々と語り、しばしばたいへん冗長な言葉でこれについて教えます。人の真の富は心の中にあって、金庫にあるのではないとか、自らの貧乏に慣れ、わすかな金銭で自分を満足させる人こそ、真に裕福である、とか、そのように考えるべきだと語るのです。しかし、次のような詩句が語られる時にこそ、われわれの心は一際強く打たれるのです。

欲望が少ない人には、必要も少ない*8

あるいは、

十分なだけを望む人は、望むものを得る。

 12. このような言葉を聴くと、われわれはそれが真理だと認めざるを得なくなります。自分には何も十分ではないと考える人でも、このような言葉を聞くと驚嘆し、賞賛の声を上げ、金銭に対して永遠の憎悪を誓うのです。彼らがこのように心動かされるのを見て取ったならば、彼らに迫り、追撃し、このことについて彼らを非難して下さい。曖昧表現や三段論法やその他の空虚な屁理屈による言葉遊びはやめさせましょう。貪欲を諭し、贅沢を諭して下さい。そして、これが功を奏して聞く人の心に感銘を与えたと思ったら、いっそう激しく攻め立てて下さい。君が聴衆を治療することに熱意を持ち、彼らの助けとなるべく最善を尽くすなら、そこにどれほどの進歩があるかは、信じがたいほどです。なぜなら、若い心とは、立派なことや正しいことを、容易に希求するようになるものですから。そして、もし真理が相応しい代弁者を得たならば、まだ教化の余地のある人々、ほんの少し堕落しただけの人々に、強力に手を差し伸べることができるでしょう。

 13. とにかく僕は、アッタロスが人の罪悪や過ちや人生の悪徳を非難するのを聞いた時、しばしば人類を憐れに思い、そしてアッタロスのことを、人類の域を超えた崇高で偉大な人物であると思いました。彼は自分自身を「王」と呼んでいましたが、彼は王と呼ばれる人々に対する監査役でもあったので、僕には王以上に優れて見えました。14. そして実際、彼が貧乏を支持し始め、われわれの必要を超えたものは何であれ、どれほど無価値で有害な重荷であるかを語り始めると、僕はしばしば彼の講堂を、貧乏な人間として後にしたいという気持ちになりました。彼がわれわれの贅沢を追及する生活を非難し、純潔な肉体と節度ある食事と、不要なだけでなく不正な快楽を排除した精神を賞賛するたび、僕は腹や喉の欲求を取り締まりたいという思いに駆られました。15. そして、ルキリウス君、そんな訳で、いくつかの習慣が今も僕には残っているのです。というのも僕は大きな決意をもって、あらゆることに取り組んだのです。そしてその後、政治家としての公務の生活に入ってからも、これらの中の善い習慣を少しだけ守り続けたのです。僕が牡蠣とキノコを生涯に渡って断ったのはそのためです。というのも、これらは食物ではなく、すでに満腹の胃にさらに詰め込ませんとする嗜好品であり、食道楽や、自分の消化能力の限度を知らない者だけに喜ばれるものだからです。それらは容易に吞み込まれますが、吐き出されるのも容易です!16. 僕が生涯香油を控えているのはそのためです。なぜなら、人の最もよい香りとは、香りがないことですから。僕の胃が葡萄酒を避けるのもそのためです。僕が生涯風呂を避けるのもそのためです*9。なぜなら、汗をかいて体を絞ることは、無益なだけでなく、贅沢なことだと考えますから。その他のいくつかの遠ざけていたことは、元に戻りましたが、禁欲を解いたとはいえ、それらに際して僕が保ってる限度は、禁欲の一歩手前と言っていいほどです。そして恐らくこれは、ずっと難しいことでしょう。というのも、心にとってはあるものを適度に制御して用いるよりも、完全に断ち切ることの方が容易でしょうから。

 17. 僕は老人になってから続けるよりも、どれだけ大きな熱意をもって若い頃に哲学に取り組んだかを君に語り始めたので、ピタゴラスがどれほど熱烈な哲学への意欲を僕に与えたかを話すことを、恥ずかしいとは思いません。ソティオン*10はなぜピタゴラスは動物の肉を控えたのか、そして後にはなぜセクスティウス*11もそうしたのかを僕に話してくれました。両者で理由は異なりましたが、それはいずれも、崇高な動機でした。18. セクスティウスは、人間は血を流さずとも十分に食べ物を得ることができ、快楽のために屠ることが行われて以来、残酷な習慣ができたのだと信じていました。さらに彼は、われわれの贅沢の原因は少なくあるべきだと考えており、多種多様な食べ物は健康を害するものであり、われわれの肉体の自然本性に反したものだと言っていました。19. 一方ピタゴラスは、全ての生き物には血縁関係があり、ある(動物の)肉体から別の肉体へと移る魂同士の間には、交友関係があると主張しました。彼の言うことを信じるなら、いかなる魂も滅びることはないし、ある存在から別の存在へと移る際のほんのわずかな期間を除いて、その働きを止めることも決してありません。われわれはいつか、魂が多くの居住地を彷徨った後、いつ、どれほどの時間間隔を経て、再び人間に戻るのかということを、考えるようになるでしょう。しかしその時、彼*12は人々に親殺しや大罪への恐れを抱かせます。なぜなら、われわれは知らず知らずのうちに親の魂を手にかけ、傷つけているかも知れないのですから。もしわれわれが食べた肉が、血縁者の魂が宿った存在のものであったのなら!20. ソティオンはこの教えに、彼自身の説明を加えて、次のように語っていました。「君は魂が、次から次へと別の肉体を割り当てられること、われわれが死と呼ぶものは単なる住処の移動に過ぎないことを、信じないのかね?君は家畜や野獣や水の中に潜む生き物の中に、かつて人間だった魂が宿っている可能性があることを、信じないのかね?君は、この世には何一つ滅びるものはなく、ただ場所を変えるに過ぎないことを信じないのかね?そして、天体が定められた道を循環するのと同じように、動物にも言うなれば魂の順路と言うべき、進歩の循環があることを。偉大な人々は、こうした思想を信じている。21. したがって、君自身の見解も尊重すべきではあるが、この考え*13に判断を下すことは保留にしておきたまえ*14。もしこの思想が真実なら、肉を断つことは罪を避けることであるし、もし偽りでも、倹約になる。そして、これを信じることが君にどんな害になろう?私は君から、ライオンやハゲタカの食べ物を取り去るだけだ。」

 22. 僕はこの教えに感化されて、動物の肉を控えるようになりました。一年が経った頃には、この習慣は容易になったばかりか、楽しいものとなりました。僕は自分の精神がより活発になるのを感じていました。もっとも本当にそうだったのか、気のせいだったのかを、今あえて君に述べることは致しませんが。なぜこの習慣をやめたのかを、君はお尋ねですか?それは次のの通りです。僕の青年時代はちょうど、ティベリウス帝の治世の初期にあたります*15。当時は、いくつかの外国の宗教儀礼が排斥されており*16、動物の肉を控えることは、いかがわしい迷信の証とされていました。ですから僕は、中傷は恐れないものの哲学は嫌っていた父の要求に従って、食習慣を以前のものに戻しました。そして、父はもっとよい食事をするよう僕を説得するのも、容易なことでした*17

 23. アッタロスは、身体が沈み込まないような*18敷物を賞賛していました。そして僕も、老人になった今でも、その上に寝ても跡がつかないほどの固い敷物を使っています。僕がこうしたことを述べたのは、君に次のことをお示ししたいからです。つまり、未熟な者においても、誰かが彼らを激励したり、彼らの熱意に火をつけたりすれば、最高の理想に向かうための最初の衝動を、いかに大きく駆り立てることができるか、ということです。実際、生き方ではなく議論のし方を教える教師の過ちにより、失敗する者もあります。また、魂ではなく知識を滋養する目的で、教師のもとにやって来る生徒の側の過ちもあります。そのようにして、哲学の研究が、言葉の研究になってしまったのです。

 24. ところで、何に取り組むにせよ、どんな目的を据えるかはとても重要です。文法学者になろうとしてウェルギリウスを研究する人は、

時は急ぎ去り、二度と戻ることはない*19

という素晴らしい詩句を、次のような意味で解釈することはありません。つまり、「われわれは目を覚まさねばならない。急がないと取り残されてしまう。月日は転がり行き、われわれもそれに巻き込まれる。われわれは気付かぬ間に運命に掠め取られる。われわれは将来にあらゆることを計画し、断崖絶壁にあっても呑気に構えている。」このように解釈する代わりに、文法学者はウェルギリウスが時の流れの速さについて語る際に「急ぎ去る*20」という言葉を使っていることに、われわれの注意を向けさせるのです。

哀れな死すべき人間にとって、人生最良の日は、真っ先に急ぎ去る。

そして病と、わびしい老年、労苦がこれに続き、

遂には無惨な死が、冷酷に命を奪い去る*21

 25. 哲学者の精神でこれらの詩句を考察する人は、この言葉を正しい意味合いで解釈し、次のように言います。「ウェルギリウスは『時が行く』ではなく『時が急ぎ去る』と言った。それは、後者の方が素早い動きを意味し、まさしく最良の日々こそ最初に奪われることを示したのだ。であれば、なぜわれわれは、最も素早く動くものに遅れないようにと自分自身を鼓舞することを、躊躇う必要があろう?」善いものは急ぎ去り、代わりにやってくるのは悪いものです。

 26. 壺の上部から最初に流れ出るのは最も純粋な葡萄酒ですが、最も濁った澱の部分は底に沈みます。これと同じように、われわれの人生においても、最良のことは最初に起こります。最良のものを他人に飲み干させて、われわれ自身には澱を残しておくようなことがあってよいでしょうか?先の言葉を、心に深く刻みつけて下さい。あたかも神のお告げのように、それを受け入れて下さい。

哀れな死すべき人間にとって、人生最良の日は、真っ先に急ぎ去る。

 27. なぜ「最良の日」なのでしょうか?それは、先のことは不確かだからです。なぜ「最良の日」なのでしょうか?それは、われわれは若い時は学ぶことが容易で、素直で柔軟な精神を、より崇高な目的に向かわせることができるからです。この時期は労苦にも適しており、勉学に勤しみ、肉体を鍛錬するのに相応しいからです。というのも、後になるほどわれわれは不活発に、無気力になり、死に近づくばかりですから。

 したがってわれわれは、道中で魅了するものを捨て去り、全身全霊で、ただ一つの目的に向かって奮闘努力しましょう。それは、素早く過ぎ去り、留めることができない時の流れの速さを、取り残された後にようやく理解する、といったことにならないようにするためです。訪れる毎日を、いずれも最良の日々として歓待し、自分のものとしましょう。28. 急ぎ去るものを、捕まえねばなりません。さて、僕が引用したこの詩句を、文法学者の目で精査する人は、最初の日々こそ最良であるのは、その後には病が訪れ、まだ若い頃の日々に思いを馳せている者の頭上に、老年が重くのしかかってくるからだ、とは考えません。彼らが語るのは、ウェルギリウスはいつも病と老年を一緒に並べている、といったことです。そしてそれは、当然と思われます。老いとはわれわれが治すことのできない病なのですから。29. 「さらに」彼は何やら言います。「老年につけられた形容詞に注目して欲しい。ウェルギリウスはそれを『わびしい』と言った。」

そして病と、わびしい老年、労苦がこれに続き、

「別の箇所では、こうも言っている。」

青ざめた病魔とわびしい老年が住み着いている*22

 同じ資料から、各人*23が自分の学問領域に合致した内容を拾い集めることは、驚くにはあたりません。なぜなら、同じ牧草地であっても、牛は草を食み、犬は兎を、コウノトリは蜥蜴を狩るからです。30. キケローの著作「国家について*24」を文献学者、文法学者、哲学者が読む時、各人はそれぞれ自分の分野に適った方法で精査します。哲学者はその際、これほど多くの正義に反した議論ができることに驚きます*25。文献学者は同じ書物を取り上げて、本文に次のような注釈を加えます。すなわち、かつてローマには二人の王がいて、一人には父親がおらず、もう一人には母親がいなかった。というのも、セルウィウス*26の母親が誰であったかは分からないし、ヌマの孫であるアンクス*27は、父親の記録が残っていないからだ、と。31. さらに文献学者は、われわれが独裁官ディクタートルと呼び、歴史書においてもその名称で書かれている役人は、昔は人民の長官マギステル・ポプリーと呼ばれてたと注釈します*28。これは、今日でも鳥占官の書物にその名が見られ、独裁官が副官に任命した人物を騎兵の長官マギステル・エクイトゥムと呼んだという事実によって証明されると言います。文献学者はまた、ロムルス*29は日食の最中に死んだことや、民会に提訴する権利は王たちも認めていたことを語ります。これは神官の書物にもそのように記録されているし、フェネステラ*30を含む多くの人々がそう考えてると言うのです。32. この同じ書籍を文法学者が紐解くと、まずキケローがよく用いた「reapse(実際に、本当に)」という言葉を取り上げ、これは「re ipse(それは実際は)*31の意味であり、同様によく用いた「sepse(自分自身)」という言葉も、「se ipse(自分で自分を)」の意味であると注釈します*32。次に文法学者は時代が進むにつれて変化していった言葉の使われ方に目を移します。たとえばキケローは「われわれはまさに彼の妨害により、『calx(石灰)』という言葉から呼び戻されたのだ*33。」と言いました。今日われわれが「creta(白亜)」と呼んでいる競技場の白線を、昔の人は「calx」と呼んだと言うのです。文法学者はさらに、エンニウス*34の詩、特にアフリカヌス*35について書かれた詩を取り上げます。

彼にはいかなる同胞も敵も、

その偉業と労力(opis)に見合うだけの報酬を与えることはできない*36

この詩句から文法学者は、「opis(力)」という言葉には、昔はただの力だけはなく、「opera(労力)」の意味もあったことが推測される、と言うのです。エンニウスが言いたかったのは、敵も味方も誰も、スキピオの労力に相応しい報酬を支払うことをできなかったということだ、からだそうです。33. 次に、文法学者はウェルギリウスの次の詩句の由来を発見したと思って、歓喜します。

彼の頭上には、

巨大な天界の門(porta caeli)が、

雷鳴を轟かせている*37

この詩句をエンニウスはホメロスから借用し、ウェルギリウスはエンニウスから借用したと言うのです。というのも、この同じキケローの本「国家について」の中に、次のエンニウスの二句があります。

もし神々の領域に昇ることを許される者がいるのならば、

ただ私一人にのみ巨大な天界の門が輝かしく開かれる*38

 35. しかし、僕自身がどうでもいい仕事*39にかまけて文献学者や文法学者になり下がることのないように、(僕にも君にも)次のような忠告をしておきます。あらゆる哲学の研究や哲学書の読解は、幸福な人生を送るという目的に結び付けられねばなりません。古臭い言葉や風変りな言葉、あるいはおかしな隠喩表現や言葉遊びを追い回すのではなく、われわれのためになる教訓や、勇敢で高潔で、直ぐにわれわれを行為へと差し向けてくれる言葉を求めねばなりません。われわれは学ぶことで、言葉を行為にするべきです。36. そして僕は、哲学をあたかも売り物か何かのようにして学び、その教えとは全くことなる生き方をしてる連中ほど、人に悪影響を及ぼす者どもはいないと考えます。というのも、彼らは自分たちが非難しているあらゆる悪徳に染まることで、自分自身を哲学の教えが無意味だった実例として触れ回っているからです。37. 船酔いした舵手が嵐の時に何の役にも立たないように、そのような教師は僕に何の役にも立ちません。高波が打ち寄せる時、舵手は舵をしっかり握っていなければなりませんし、海そのものと言うなれば格闘せねばなりませんし、嵐から帆を守らなばなりません。怖がって吐いている舵手が、僕に何の役に立ちましょう?そして人生の嵐は、船を揺り動かす嵐よりも、どれほど激しいことでしょう!話すのではなく、舵を取らねばなりません。

 38. あのような連中が、聴衆の前で語る言葉は全て、他人の受け売りです。それらはプラトンによって、ゼノンによって、クリュシッポスによって、ポセイドーニウスによって、そして数多く存在するわれわれストア派の偉人によって語られてきました。彼らの言葉が、彼ら自身のものであると証明する方法をお教えしましょう。それは、彼らは語ったことを実行してきた、ということにあります。僕が君にお伝えしたかったことは、以上で伝え終わりましたので、今度は君の要望に応じて、君が尋ねていることに対する十分な回答を別の手紙*40に移しましょう。細々とした、注意深く耳を傾けねばならない厄介な問題に、君が疲れたままで取り組まなくでもいいように*41。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 108 - Wikisource, the free online library

・解説

 哲学との正しい向き合い方を説いている。後半の文法学者や文献学者の話は脚注も沢山書かなければいけないのでとても疲れた。若き日の哲学の師とのエピソードなど全体的には美しい書簡なのだが…。

 

 

 

 

 

*1:書簡106.3に登場するような、無益な屁理屈ということ。

*2:真の哲学の勉強の

*3:ティベリウス帝時代のストア派の哲学者にして、セネカの師。書簡9.7,書簡63.5,書簡72.8,書簡81.22参照。

*4:原文は「inquilīnus」で「借家人、住人」の意味。

*5:小アジアの古国で、女神キュレベを信仰した。

*6:プブリリウス・シルス(書簡8.8参照)断片236

*7:プブリリウス・シルス断片234

*8:プブリリウス・シルス断片286。次の句もぷププブリリウスのもの。

*9:あまり熱くない風呂には入っていた。

*10:セネカの幼少時代の師。書簡49.2参照。

*11:前1世紀のローマのストア派の哲学者。セネカの師であるファビアヌスの師。書簡59.7,書簡64.2,書簡98.13参照。

*12:ピタゴラス

*13:ピタゴラスの輪廻転生的な思想

*14:エポケー。

*15:ティベリウスの在位は後14-37年。

*16:後19年、エジプト人ユダヤ人の宗教が迷信として排斥された。

*17:肉断ちはやめたもののいまだ質素な食事をしていた青年時代のセネカを心配して、もっとよい食事をするよう説得してくれた父親に対する、感謝の意か。

*18:柔らかい布団のように、身体が沈み込んだりしない敷物

*19:「農耕詩」3.284

*20:原文のラテン語は「fugit」で、「fugiō(逃げる)」の三人称単数。

*21:「農耕詩」3.66~68。66~67は、セネカの「人生の短さについて」の9.2にも引用されている。

*22:「アエネイアス」6.275。書簡107.3でも引用されている。

*23:哲学者と文法学者

*24:前51年に書かれたキケローの著作「国家について」。プラトンの「国家」に倣って小スキピオを主人公とした対話篇。全体の1/3のみ現存している。

*25:キケロー「国家について」3.8~28参照。

*26:「国家について」2.37参照。セルウィウス・トゥルリウスはローマの第六代目の王。

*27:「国家について」2.33参照。アンクス・マルティウスはローマの第四代目の王。第二代目の王であるヌマ・ポンピリウスの娘の子であるので母親は分かっているが、父親は分からない、という意味。

*28:「国家について」1.63参照。

*29:ローマの建国者にして初代の王と言われる、伝説的な人物。

*30:アウグストゥス時代のローマの歴史家。

*31:re(res)…実際は、ipse…それは〔二人称の指示代名詞「ispe(それ)」の主格〕

*32:キケロー「国家について」1.2,1.34,2.66,3.12,3.18などに、こうした表現が見られる。

*33:「国家について」断片5

*34:クイントゥス・エンニウス。前239~169年の詩人で、「ローマ詩の父」と呼ばれた。

*35:スキピオ・アフリカヌスのこと。

*36:エンニウス諸種断片19-20

*37:「農耕詩」3.260~261

*38:キケロー「国家について」断片4。エンニウス諸種断片23-24

*39:上記のような

*40:次の書簡109のこと。

*41:次の書簡109のテーマも屁理屈が多い。

セネカ 倫理書簡107 宇宙の意志に従うことについて

 1. 君のいつもの賢明さはどこに行ったのでしょう?物事を見極める鋭敏さはどこに?魂の偉大さはどこに?そんな些細なことに苦しめられたのですか?奴隷たちは、君が用務で忙しくしている時が、逃亡の好機だと思ったのです。さて、もし君の友人たちが君を欺いたのであれば(そのような連中には、われわれが誤ってつけた〔友人という〕名前を与え、そう呼んで下さい。それに相応しくないことで恥をかくのは、彼ら自身なのですから)、君の諸事情から、何か或るものが失われていたことでしょう。しかし実際のところ、君が失ったのは君の労力を擦り減らしたり、君を自分たちにとって厄介な主人と考える連中です。2. こうしたことは予期せぬことでも、珍しいことでもありません。公共の場*1で水をかけられたり、泥をつけられたりするのに文句を言うのと同じくらい、こうした出来事に腹を立てるのは愚かなことです。人生で起こり得ることは、浴場や雑踏、あるいは旅路で起こり得ることと同じです。何かが君に投げつけられたり、何かに突然襲われたりします。生きることは甘美な道楽ではありません。君はすでに長い旅路を踏み出しています。足を滑らせたり、何かにぶつかったり、躓いたり、疲れ果てたり、あるいは「ああ、死にたい!」と心にもないことを叫んだりすることがあるでしょう。ある時は仲間と離れたり、ある時は誰かを埋葬したり、またある時は恐怖心に駆られるでしょう。このような障害の中にあって、君はこの険しい旅路を歩み続けなければなりません。

 3. 死を望むのでしょうか?われわれはあらゆる事態に対して、心を備えておくべきです。自分がやって来たのは雷鳴が轟く山頂であることを、知らねばなりません。また、

悲しみと、復讐の憂いが居を構え、

青ざめた病魔とわびしい老年が住み着いている*2

場所へやってきたことを、知らねばなりません。そのような存在と共に、人生を過ごさねばなりません。君はそれらを逃れることはできませんが、軽蔑することはできます。4. そして、君がしばしば熟慮して将来を予期するならば、軽蔑できるようになります。ずっと前から到来に備えていた出来事には、誰でも勇敢に立ち向かうことができますし、危機への対処を事前に訓練していれば、困難にも耐えることができます。しかし反対に、備えが出来ていない人は、ほんの些細なことでも気が動転します。われわれは、予期せぬことなど何もないよう、心がけねばなりません。そして何であれ、慣れない出来事ほど深刻になりますから、絶えず熟慮して、どんな災いにも、未熟なまま立ち向かわないで済む力を持ちましょう。

 5. 「奴隷たちが私のもとから去ったのです!」ええ、それどころか、(奴隷たちに)略奪されたり、脅迫されたり、殺害されたり、裏切られたり、踏みつけられたり、毒物を盛られたり中傷を受けたりした人もあります。君がどんな災難を口にしようと、それは多くの人に起こったことなのです。また、われわれに投げつけられる武器には、様々な種類があります。あるものはすでにわれわれに突き刺さり、あるものは今まさに空気を震わせながら襲いかかり、またあるものは他人に向けられたものだったのに、われわれをかすめて通ります。6. われわれは、自分が生まれついたこの世界のどんな状況にも驚かないようにしましょう。そしてそれについて、誰も嘆いてはなりません。それは全ての人に、平等に定められているのですから。そうです、平等に定められている、と僕は言いました。なぜなら人はたまたま避けることが出来たことでも、被る可能性があったのですから。そして、法の平等性とは、万人が実際に経験したことにではなく、経験し得ることにあります。こうした意味での平等性を、心に刻みつけておいて下さい。われわれは不平を言うことなく、死すべき人間として定められた税金を支払わねばなりません。

 7. 冬は寒い気候をもたらし、われわれはそれに震えねばなりません。夏は暑さを伴って再来し、われわれは汗だくにならねばなりません。季節外れの天候は健康を害し、われわれは病気にならねばなりません。われわれはどこかで野獣や、野獣よりも凶暴な人間に出くわすかも知れません。洪水や火事が、われわれから財産を奪います。そしてわれわれは、こうした出来事が定められた秩序を変えることはできません。しかしわれわれは、善き人間に相応しいたくましい心を勝ち得ることはできます。それにより、われわれは運命に耐え、自然と調和することができるのです。8. そして自然は、君が見ているこの王国を、さざざまな季節変化により統御しています。曇天の後には晴天が続き、凪の後には嵐が来ます。風は様々に向きを変え、昼の次には夜があり、天体の或るものは上昇し、或るものは沈みます。正反対のものが、永久を成り立たせているのです。

 9. われわれの魂は、自らこの法則に適応せねばなりません。これに着いて行き、これに従うべきです。何が起ころうと、それは起こるべくして起こったと考え、自然を非難したりしないようにしましょう。最も善いのは、自分の権能の及ばないことは耐え忍び、万物の営みの規範である神に、不平を言うことなく従うことです。文句を言いながら指揮官に従うのは、悪い兵士ですから。10. それゆえわれわれは元気と活力をもって、その命令を進んで受け入れるべきです。われわれの将来のあらゆる苦難も織り込まれている、この最も美しい宇宙の自然の流れに、逆らうことなく従いましょう。

 われらが偉大なるクレアンテスが最も雄弁な詩句で述べたように、この宇宙全体の指導者であるユピテル神に呼びかけましょう。この詩句を、雄弁なキケロの例に倣って、僕もわれわれのラテン語で訳したいと思います。もしもこの訳が君のお気に召したら、それを享受して下さい。もしそうでなければ、僕はキケロの先例に従っただけだと理解して下さい。

11. おお、父にしていと高き天空の支配者であられる神よ、

いずこなりともあなたのお望みのところへ、私をお導き下さい。

私は逡巡することなく、直ちに従います。

そして、私の望みでなくとも、苦しみながらでも従い、

善き人であれば許可されたことを、悪しき者として行いましょう*3

運命は、意志ある魂を導き、意志なき魂を引きずるのです*4

 12. このように生き、このように語りましょう。常に運命に対し備え、警戒をしておきましょう。ここに、偉大な魂が、運命に身を委ねた人の魂があります。これとは反対に、あの軟弱で堕落した人の魂は、暴れ回って宇宙の秩序に反抗し、自分よりも神々を変えることを望むのです。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 107 - Wikisource, the free online library

・解説

 ストア派らしい、運命を受け入れるべきであるという教え。とはいえもしルキリウスが架空の人物なら、奴隷に逃げられたのはセネカ自身で、必死で強がって書いた文章なのかも知れない。セネカは何だかんだ怒りっぽそうである。

 

 

 

 

*1:広場や浴場やトイレ

*2:「アエネイアス」6.274~275

*3:善き人であれば、どんな出来事でも苦しむことなく自ら進んで受け入れるので、まだ未熟な悪しき者である自分は、苦しみながら受け入れます、という意味。

*4:「初期ストア派断片集」1.537におけるクレアンテスのゼウス賛歌。原文はギリシャ語。なお、セネカが言及したキケロラテン語訳は散逸している。