徒然なる哲学日記

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日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡10 一人で生きることについて

 1. 僕は自分の意見を変える気はさらさらありません。大勢を避け、少数を避け、一人でいることも避けて下さい。君が喜んで時間を分かち合いたいと思えるような人を、僕は知りません。そして、僕が君に関してどんな意見を持ってるかというと、僕は思い切って君が君自身と共にいることを、信頼して任せていいと思っています。言い伝えによると、クレテスーー前の手紙で僕が触れたまさにスティルボンの弟子ーーは、一人で歩いている若者に気づき、一人で何をしてるのかと、彼に尋ねました。若者は、「私は自分自身と語り合っているのです」と答えました。クレテスは言いました。「では、気を付けたまえ。心して聞いて欲しいのだが、君は悪人と語り合っているのだ。」

 2. 喪に服して悲嘆の中にある人や、何かに激しく怯えている人がいるとき、私たちは孤独が彼らを悪しきものにしないように、見守ってあげるものです。未熟な者は、一人にされるべきではありません。もしそのようにすると、彼は愚かな計画を立て、自分自身や周りの人にとって将来危険になるものを積み上げるだけです。彼は自分の低劣な欲求を、実行に移します。その心は恐怖や恥じらいが抑圧していたものを表に出し、彼の大胆さを刺激し、情欲をあおり、怒りをかき立てます。そしてついには、孤独が与える唯一の利点、つまり誰にも何も依存せず、密告を心配する必要がないという利点も、愚か者には失われます。彼は自分自身を裏切っているからです。

 ですから、君に対する僕の希望を理解して下さいーーというよりむしろ、僕自身に約束していることをです。希望とは不確かな祝福の単なる名称に過ぎませんからーー僕は君自身をおいて他に、君と付き合って欲しいと思うような人間を知りません。3. 僕は君が、どれほど魂をこめて、そしてどれほど力強く、或る言葉を述べてくれたかを覚えています。僕はすぐに自分自身を祝福し、こう言いました。「これらの言葉は口先から出たものではない。これらはしっかりした基盤のもとに発せられたものだ。この人は大衆の中の一人ではない。彼は本当の意味で彼自身のものを尊重しているからだ。」4. 何事も君を落胆させることのないように注意し、そのように話し、そのように生きて下さい。君の以前の(俗物的な)*1祈りについては、それを神々に願い下げにして貰うことができます。新しい祈りを捧げましょう。健全な精神と健康を願い、まず魂のため、次に肉体のために祈りましょう。もちろん君は、こうした祈りを頻繁に捧げて大丈夫です。大胆に神を呼び求めてかまいません。神は君に、それ以外のことを何一つ求めないでしょう。

 5. しかし、いつものように、この手紙に添えてささやかな贈り物をしなければなりません。それは僕が、アテノドロス*2の書物の中で見つけた真実の言葉です。「君が人前で堂々と祈ることが出来るようにということ以外は何も神に祈らなくなった時*3、君は全ての欲望から解放されるのだ。」しかし、何と愚かな人達がいることでしょう。彼らは最も低劣な願いを、天に囁きます。しかし誰かに聞かれていると分かると、すぐに沈黙します。彼らが神に伝えるのは、人に知られたくないようなことだけです。ですから君は、次のような健全な勧告が与えられるべきだとは思いませんか?「神があたかも見ているかのように人と生き、人があたかも聞いているかのように神と語れ」お元気で。

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 10 - Wikisource, the free online library

 

・解説

 これまでの手紙で大衆をさけ自分自身の満足することを推奨していたかと思うと、今度は孤独の危険性を強調している。こうしたところがセネカは手厳しい。常に内面において恥じることのない動機に従えという、多くのスピリチュアルの教えに通じるものがある。

*1:書簡60に、彼の家族がルキリウスの将来に対し、出世や成功といった俗物的な願いをしていたとの記述がある。

*2:ストア派の哲学者で、キケロ―の友人

*3:人前で祈っても恥ずかしくないことのみを祈ることができるようになった時、という意味