徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡50 われわれの盲目とその治療について

 1. 君が送ってくれてから何ヶ月も後に、君の手紙を受け取りました。ですから、君が今どんな状況か、届けてくれた人に聞くのは無意味だと思いました。彼がもしそれを覚えてるとしたら、彼の記憶力は大したものです!しかし、君がどこにいて何をしていようとも、それらに対して僕が信頼を持てるような生活を、君がしていることを望みます。日々自分自身を改善し、過ちを取り除き、周囲にあると思っている欠陥が実は自分自身の内にあることを理解するといったこと以外、君がしていることはあるでしょうか?じっさいわれわれは、ある欠陥を場所や時間のせいにしがちです。しかし、われわれがどこに行っても、それらの欠陥はわれわれに付いてまわります。

 2. 僕の妻のお抱えの道化の、ハルパステをご存じでしょう。彼女は遺産の重荷としてわが家に残っています。僕としては、そうした酔狂なものには反対です。道化の皮肉を楽しみたいなら、それを遠くまで探し求める必要はありません。僕は自分自身を笑うことができるのですから。ところで、この道化が突然視力を失いました。信じられないかも知れませんが、本当のことをお話しますと、彼女は自分が盲目になったことを知りません。彼女は家が暗すぎると言って、付添い人に部屋を変えてくれるように頼み続けます。

 3. ハルパステのことを笑うわれわれ全員にも、同じことが起きていることは明確に分かるでしょう。誰も自分自身が貪欲であること、強欲であることを知りません。それでも盲人は案内人を求めますが、われわれは案内人すら持たず彷徨い、次のように言います。「私に野心はないが、ローマでは(野心的になる以外の)他の方法では生きていけない。私は贅沢ではないが、都会は住むだけでかなりの出費を必要とする。私が怒りっぽい気質であることや、明確な人生目標を定めていないことは、私の落ち度ではなく、若さに由来するものだ。」4. どうしてわれわれは自分を欺くのでしょう?われわれを苦しめる悪は、外にあるのではなく、われわれの内にあり、われわれのはらわたそのものにあります。このためわれわれは自分が病気だと知ることができず、健全であることはますます難しくなります。

 われわれが治療を開始したとして、いつになれば、これら全ての病気をその全ての悪影響と共に捨て去ることができるでしょう?今のところ、われわれは医者の診察も受けていませんが、病気の訴えが初期段階にあるときに呼ばれていたら、医者の仕事も容易だったことでしょう。若く未熟な心は医者が正しい治療方針を示すことで、その助言に従うことができます。5. 自然に背いた人でない限り、誰も自然に戻ることは困難ではありません。われわれは健全な精神を学ぶことを恥と見做します。しかし、神に誓って言いますが、もしわれわれがこうした事柄の教師を求めることを恥ずべきことだと考えるなら、ただの偶然によってそうした立派な善がわれわれに吹き込まれる、などという望みも捨てる去るべきです。

 そうではなく、努力しなければなりません。実のところ、僕が先ほど述べたように、魂が悪徳によって凝り固まる前に、魂を矯正し、再教育したとしても、その苦労は大したものではありません。6. しかし、この凝り固まった悪人にさえ僕は希望を失うことはありません。粘り強い治療、集約された細心の手当てで克服できないものはありません。どれだけ曲がっている材木でも、真っ直ぐに戻すことができます。歪んだ梁は熱によって真っ直ぐになり、そのままの時は別の形をしていた木も、われわれの用途に応じて形造られます。柔順で、どんな液体よりもしなやかな魂は、どれほどより容易に形作られることでしょう!心とは、ある状態に保たれた精神〔spiritus〕以外の何でしょう?精神〔spiritus〕は他よりも希薄であるため、どの物質よりも高い順応性を持つことが分かります。*1

 7. ルキリウス君、われわれが今でも悪徳に支配されて、或いは長い間取り憑かれているからといって、われわれに関して君が希望を抱くことを妨げるものは何もありません。確かに悪い心よりも善い心を先に受け取るものはおらず、われわれを最初にとりこにするのは悪い心です。しかし、美徳を学ぶことで、悪徳を忘れることができます。8. ですからわれわれは、より勇気を持って、悪徳から自分自身を解放する作業に邁進すべきです。ひとたびわれわれに託されたら、善は永遠の所有物となり、美徳が忘れ去られることはありません。反対のものは、自分が属さないものにしがみつくのは難しいため、取り除かれ、追い払われます。しかし、まっとうにそれらに類する資質を持つものは、確実にそこに残ります。美徳は自然に従いますが、悪徳は自然に反対し、敵対します。9. しかし、美徳は一度受け入れられると離れることはなく、保つのが容易ではあるものの、美徳に近づくための最初の一歩は困難です。というのも、弱くて病んだ精神は、慣れないことを恐れるものですから。したがって、精神はその最初の一歩を強制されねばなりません。そこからは、薬も苦くなくなります。われわれを癒すと同時に、喜びを与えてくれるようにもなりますから。病気の人が喜びを感じるようになるのは健康になった後ですが、哲学は健康によいと同時に、美味でもあるのです。お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 50 - Wikisource, the free online library

・解説

 われわれは自分の悪徳に盲目であり、その治療のために、哲学を学ぶことに邁進する必要がある、ということ。実際読書しない人は、自らを内省する機会を持たないように思える。

 

 

 

 

*1:他の3訳では〔spiritus〕を空気と訳していたが、厳密には精神は空気よりも上の次元のアエテール〔aether〕に近いので、あえて「精神」と訳した。いずれにせよ、精神は希薄な物質なので矯正がききやすい、という意味が通じればと思う。