徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

日本にロクな哲学者がいない理由

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 現代はひとまずおいておいて、近代以前日本にあまりマトモな哲学者がいないことが、日本の国民性を表してると言っていいかも知れない。それは何も識字率がどうとか勉強する環境がどうとかいう問題ではなく、国民性とか信念の話であるように思える。民族魂としてそういったカルマがあるのかも知れないが、それならそれで、グローバル化が進んだ現代では、古代ギリシャやローマの賢人の優れた著作が簡単に手に入るので、それらから積極的に学ぶべきであるのに、高校の倫理で、からかうように触れる程度にしか哲学を学ぶ機会がないのは誠に悲しいことである。日本の哲学者にもロクなのがいないし、現代でも哲学がこれほど軽視されてる先進国もあるまい。これこそが、経済云々以前の日本人の貧しさの原因であり、職場や学校であらゆる悪徳が蔓延る原因なのではないかと思う。

 

 日本人の哲学者というと、何が言いたいのかさっぱり分からない著作しか残してない、まとめると「分かりにくい」哲学者ばかりなのである。2000年以上前のギリシャの賢人達が、現代でも我々の心に響く沢山の哲学書を残しるのに対して、日本の哲学者は、我々に何の印象も残さない、ただひたすらに「複雑なだけ」の取るに足らない存在なのである。そんな人間が偉大な哲学者として称えられる日本では、やはり哲学もただ「複雑なだけ」のものが主流になり、セネカのいう所の、「哲学がいかに偉大かではなく、いかに複雑かを示すことに必死な人々」が溢れかえっているのである。

 

 何故このように、哲学を複雑にすることでより高尚さが増すかのように考える人が溢れているかというと、やはりそれも日本人が快楽と世間体を何よりの教祖とした宗教に支配されていることに由来する。他人に対して物事を簡潔に説明するよりも、何か複雑に説明することで相手を混乱させたり困惑させたりすることでマウントを取って悦に浸ることに快楽を感じることがスタンダードになっているが故である。分かりやすく説明するのは何か相手に対してサービスをしたような屈したような気持ちになって屈辱だとでもいうのだろうか。だから、学校の先生は、簡単なことをいちいち複雑で分かりにくく説明して、生徒達に対してマウントを取る。分かりやすく説明すると、自分の権威が貶められたように感じるのだろう。いつからか西洋哲学でも、人間がいかに生きるべきか、世界とは、神々とは、道徳とはについて簡潔に語ってきた哲学が、何やら難解な用語を沢山開発しては役立たずなものにしてしまった。よく分からん難解な哲学用語を覚えた学生が、どう賢くなるというのだろう。どう道徳的になるというのだろう。どうやって自分の人生の悩みに、弱い心に向き合うことができるようになるというのだろう。そのような複雑な用語によるマウント行為によって学生の精神は擦り減って疲れ果て、有意義な思索に費やすためのエネルギーが根こそぎ奪い取られてしまうのだ。承認欲求のために複雑でどうでもいい用語を残すことが、後世の人たちにとってどれほど有害で罪深い行いかということを、用語の中でしか哲学を語ることをしなかった日本の哲学者達は恥じて然るべきである。

 

 哲学は大衆に開かれるべきで、セネカの言うように、哲学をすることのない人間は病んでいるのである。哲学をするとは自分と向き合うことで、自分と正しく向き合うことを知った人間は世界とも正しく向き合うことができる。哲学をすることがないと人は、生き甲斐を快楽や承認欲求に費やすことになる。そのために必死になって他人にマウントを取り、神経を擦り減らしてハラスメント行為に勤しみ、一瞬で消える快楽のために、一生の全てを費やし、人生を無駄にする。およそ哲学することのない人は人生の真の喜びを知ることがなく、一生を無駄にする。ソクラテスプラトンと、ネットでも書籍でも気軽に親しめるこの時代、2000年もの時を有意義に使うことを許されてるこの時代に、身近な人間関係におけるマウントに人生の全てを費やしてる哀れな人間は、時間をドブに捨てていると言っていい。何せ2000年もの間熟成されてそれでいて新鮮な味わいのある過去の偉人の教えにこれだけ簡単にありつけるこの時代に、あえて刹那的な快楽に身をやつし、あたかも2000年もの歳月は、今の自分の人生の一瞬の快楽に遥かに劣るとでも言わんばかりである。

 

 他人の生活を逐一気にして見張るような田舎の暇人にこれは顕著に当てはまる。ネットでこれだけ時間も空間も超えて広い世界と繋がれるこの時代に、あえて卑近で生臭い人間関係に自分を縛りつけるたり、ドMなのかそれともそうした身近な人間関係の中では自分は王様にでもなれていると思っているか、いずれにせよ勘違いも甚だしいものだ。

 

 だからセネカは大衆は避けよと言っている(倫理書簡集の8)。どれだけ高潔な人であっても、大衆と長く交ればそこから悪影響を受けることは避けられないからだ。一人引きこもり、じっくりと自分や過去の偉人と向き合う時間が必要だ。シュタイナーでも、セネカでも、有名な所だとプラトンでもエピクテトスでも、優れた思想家は沢山いるし後者2人の本は書店で安価に手に入れられる。そうした過去の偉人との交わりは人生における真の財産となるし、生きている時も死んだ後も、魂を豊かにしてくれるだろう。