徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

陰湿さは大人っぽさではない

 

 勘違いしてる日本人は沢山いる。不幸な立場にある人をニヤニヤしながら眺めることや、困っている人がいても素通りして助けないことが、大人っぽさか何かだと勘違いしてる幼稚な日本人は。そういう人達は本人は自分達は何か冷静で、落ち着いた判断のできる優れた人間だと思ってるらしいが、落ち着いているのではなく堕落しているのであって、冷静なのではなく冷徹なだけである(もっとも「冷徹」という言葉に相応しいほど何か深く考えてる人間は彼等の中にはいない)。漢字は被ってても意味は180度違う。彼等は大人になったからそうなったのではない。年を取って子供より幼稚でバカになったから陰湿になったのである。

 

 こうした連中の特徴の一つとして、冷静ぶってる割に簡単に快楽や恐怖心に流される所がある。要するに、爬虫類脳が優位で、人間脳が退化している。爬虫類脳に従って本能的に判断することが、人間として何か優れたことの証だと本気で思い込んでいるが、快楽や恐怖心に抗えない、子供より自制心のない連中なのである。

 

 人間関係を、利害や上下関係としてしか見ることができないような連中だ。学校でいうところのスクールカーストにいちいち敏感で、それに媚びることを生きがいとしている人間と言って差し支えない。僕の会社の社長が典型的なこのタイプで、ウェイ系の明るい無能には卑屈なまでに媚びるのに、大人しいが真面目に仕事をする人達にはこの上なく勇猛果敢に恫喝行為やパワハラを行う(決断力も信念もない無能なのに、恫喝する時だけはびっくりするくらい勇ましい姿を見せた西村前コロナ担当大臣を彷彿とさせる)。多分、自分の中でしっかりした判断軸を持たないから、ウェイ系かそうでないか、スクールカーストの中での立ち位置がどうか、そんなことでしか他人を判断できないのだろうと思う。別に何を人の判断基準にしようがそれは当人の自由だと思うが、そうしたただの陰湿さを冷静さか何かと勘違いするのは恥ずべきことなので控えた方がいいと個人的には思う。困ってる人を遠巻きにニヤニヤしながら眺め、何か取り返しのつかない事態になったら自分は安全だとほくそ笑む下劣な心境に似ている。自分は絶対にそのような立場にならないという自信でもあるのか(そもそもそういった人達はとりわけ賢い訳でも有能な訳でもない)、それとも今にもそういった立場に陥りそうな恐怖心に耐えられずにそのように振る舞うのかは分からないが、いずれにせよ傲慢や恐怖心がそうしたみっともない陰湿で悪趣味な悦びの基盤になっていることだけは確かである。

 

 そのような人達と酒を交わす機会があったが、その時に話す内容がこれがまたひどく、下半身の話だの社内で誰の出世がどうだの、下らなく下世話で下品な内容ばかりで、どんな高い酒もこんな連中と飲むとまずくなるとしみじみ感じさせられたものだ。四六時中そんなことばかり考えてるから、酒の席というよりいっそうの会話の内容が大切になる場でそのような下らない話が出てくる。思想も信念も持たない、ただ快楽と恐怖心があらゆる言葉と行動の原因であるような連中だ。世間や序列に媚びることを至上の喜びとし、陰険さ陰湿さを大人の嗜みとする。信念がないから、いざというときはみっともなく慌てふためく。陰湿なときの静けさはどこにいったのかというばかりに狼狽え、周りに八つ当たりをし、訳の分からないヒステリーをぶつける。

 

 陰湿な人間は、大体同時に卑屈でもある。日本人の多くが権威に弱いのもそれだ。そして卑屈さとは、潜在的には傲慢さに由来する。自分を誰よりも尊敬されるべき偉大な人間と考え、神や自然や偉大な哲人といった尊敬すべき存在を足蹴にすることからそうした思考が生じる。バカの癖に自分を誰よりも尊敬させるような学校教育を行う教師なんかが、そうした悪癖の原因の一つであるかも知れないが、いずれにせよ、歴史に残る偉業一つ達成できてないのに、そこまで傲慢になるのはやはり一人間として誉められた態度ではない。傲慢さはやがて橋下徹のような分裂した人格を生み、支離滅裂な一貫性のない言動を発し、狂人の証を自ら世に刻んでいく。

 

 人は、情をなくしたらボケてしまう。自然や生き物を当たり前に愛で敬う能力が失われてしまう。そうすると、物事の本質が分からなくなる。事物は自分自身の秘密を、それを正しく敬うことのできる人にしか教えない。だから、困っている人をニヤニヤしながら眺めるような人間には、生き物も自然も、自分の秘密を開示したりはしない。すると、生きる意味も宇宙の真の姿も分からなくなり、暴走した承認欲求が支離滅裂な行動を起こさせるのだ。別にシルバーバーチを持ち上げてる訳ではないが、やはり他人にはできる限り親切に振る舞うことを心がけたい。冷たくせざるを得ない時でも、信念に基づいてそうしたい。決して快楽や恐怖心に流されてではなく。