徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

利他という言葉の気持ち悪さ

 

 別にシルバーバーチを悪く言うつもりはないが、「利他」という言葉はやはり気持ちが悪い。利己主義を克服するというと聞こえがいいのに、利他的に生きるという言葉は非常に胡散臭くて気持ち悪い。自己犠牲を強いてやりがいを搾取するブラック企業のように、ひたすら気力と体力と時間をすり減らさせて、使い捨てるのが目的なのだろう。実際、若者の誰かのために役立とうという気持ちは、余生をエンジョイしようと企てる中高年や老人によって搾取される。ピタゴラスは年長者を敬えといったが、彼らはそのまた年長者(過去の哲人)を敬うことなく、横柄に振る舞っているのだから、ピタゴラスを尊敬する若者は、自分を尊敬させようとするこの中高年よりは優れているということになる。

 

 何かにつけて「人の役に立ちたい」と言いたがる人間の薄っぺらさに言及したのはシュタイナーで、本質を見抜く力のある人とはこういう人のことを言うのだろう。利己主義なしに人は生きることはできないし、利己主義を正しい形で発揮することで、人は善に向かうことができる。やたらと「利他!利他!」と怪しげな呪文のように繰り返す人間の胡散草さといったらない。利他を説くSDGsはそれ自体がなんかもう怪しい宗教団体だし、漫画かゲームだったらもう完全に悪の組織である。もっと他人を思いやれとか、人とコミュニケーション取れとか、利他的に生きなければ人は幸せになれないとか何とか、それっぽいことをいう「聖者」は沢山いるが、それも結局、彼らがいい思いをしたいからで、それは利己主義とは言わないのだろうか?

 

 そういった打算や承認欲求を目標にして人のために生きることなんて苦しいことでしかないだろう。報われないにも関わらず多くの人達が自分の真面目さがいつかは評価されると虚しい期待を抱いて、身も心もすり減らして無益な仕事に身をやつす。しかも賃金もギリギリまで低く抑えられているので、簡単に辞めることもできない。おっさん達は贅沢も性欲も放蕩も何一つ節制しようとする意志は持たないし、そんな醜い自分達を高尚で文化人的だとすら思ってる連中もいる。

 

 こういうと、利他主義が気持ち悪いなら、ひたすら快楽を追求する利己主義が善なのですね、などと言うバカが必ず現れる。利他主義は気持ち悪いが、利己主義もそれに劣らず充分に気持ち悪いのである。人が真の善に達するには、きっかけは利己主義であってもいいかも知れないが、やはり行為そのものへの愛から善を行うのでなければならない。そしてこれは、利他主義とも全く性質の異なるものなのだ。善はその性質上人々を相互に利するが、それを利他主義などと呼ぶのは徳に対する冒涜に他ならない。

 

 「お客さまのため」だの「患者に寄り添う」だの薄ら寒い「道徳」があらゆる企業のスローガンとして声高に叫ばれる。けれども、行為そのものへの愛があれば、そんな気持ち悪いフレーズは絶対に出てこないのである。そして、行為そのものへの愛があれば、仕事それ自体が勝手に動きだし、然るべき善を果たしてくれる。そこには、作為的な善や立派なスローガンの入る余地はない。全てが自然で無理なく、肩の力を入れずにスムーズに行われ、あらゆる理は然るべきところにおさまる。

 

 結局誰かを支配下に置き、害する或いは利益を得ようとする気持ちがあるから、大声で他人に向かって「利他!利他!」などと喚くのである。キリストも、「偽善者は人前で祈る」と言っている。SDGsなんかもう、偽善者の極みでなければなんだろう。