徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

「姑息なこと」を「かっこいいこと」と考える人間が増えた

 トナラーがそうだし、中抜きとかもその類だろう。麻生大臣がオリンピックが「開催されてよかった」という意見に対し「俺の思った通りだよ」と発言して悦に浸っていたそうだが、これだけ中抜きと感染拡大の犠牲の上に成り立った不要不急のお祭りを、恥じることなくも誇らしげに語っていたのもそうだ。彼は政治家の本来の職務である国民に奉仕することを放り出して、このように姑息に悦に浸りながら、単なる感想にすぎないことを、他人事のように偉そうに語ることを「かっこいいこと」だと本気で思い込んでいて、そんな自分は優れた政治家で大勢の人に尊敬されて忖度されて然るべきだと考えている。彼は自分を、B級マフィア映画に登場する渋いご意見番とでも思っているのだろうか。もしそうなら、C級の政治家としての活動なんて今すぐやめて、その財力にモノを言わせて俳優でも目指せばいいのに。税金を自分の金と思ってるようだから、そのために予算を組むことをもしかしたら計画してるのかも知れない。もしそんな発表をしても、誰も驚かないだろう。

 

 歩きスマホというのも随分姑息な行為だ。自分の安全の責任を無関係な周囲の人に押し付けて、自分は何か大変立派で、意義のあることをしてると思い込みながら、スマホゲームのポチポチやツイッターの駄文の熟読に熱中する。

 

 会社でもちょっと見廻すだけで姑息な人間は沢山存在するだろう。僕の周りだと、こんな連中だ。トラブルがあると人事に泣きついて部下を売る産業医大好きなメンヘラ上司、どうでもいい場面で社則だのなんだのを持ち出して現場で一生懸命働く人を妨害する無資格無能無責任の連中、自分の意見も信念もついでに現場経験も何もない癖に、会議の場では自分がマウントを取ってかっこつけることを何よりの最優先事項とし、熟慮の上に建設的な意見を述べる人に横槍を入れる形でネチネチ攻撃する連中…そしてトップに立つ人間が風見鶏だと組織は最早組織の体をなさない。風見鶏は自分の意見がないから、その場その場の多数派や気の強そうな意見の人達に流されて、あっさりと不正に手を染める。ここでいう不正とは、一般的な意味というよりは卑劣さや姑息さのことだ。信念がない人間というのは例外なく姑息だ。何故ならそういった連中は快楽こそが何よりの善であり(それも性欲や食欲、承認欲求と言った低劣な欲求に基づくものだ)、快楽を追求するためならどんな悪徳にも簡単に手を染める。また、信念がないから、「捕まりさえしなければいい。他人に注意さえされなければ、自分はどんな快楽を追求しても許される」と考えている。お天道様が見てるなんて考えは、この手の姑息な連中には縁のないもので、神も仏も、気まぐれに教養人ぶりたいときだけ嘲笑するように話題にするのが常だ。その内容も、神がいないだの仏教はまあ認めるだの、ありきたりで発展性もなく、何の変哲もないたわごとである。

 

 そしてトナラーや歩きスマホといった流行りの行為は、法律上の犯罪にこそ捉えられないものの、道徳に照らし合わせれば立派な悪の行いと言っていいだろう。法律にないから非難するのは難しいと思う人がいるかも知れないが、最低限の道徳心や信念があれば、決してすることのない行為である。ところが、このような恥知らずの人間は、最近本当に増えたし、政治家も、国民の生活をどうよくするか考えるのではなく、どう自分が「かっこつけるか」を四六時中考えてる麻生大臣のような職務放棄した姑息な恥知らずが本当に沢山増えたと思う。彼等は姑息なだけのことを何かかっこいいことと考えており、人を不快にさせることや、他者に迷惑をかけること、「マウントを取ること」と集約されるだろうか、このようなみっともない行為を何よりの生きがいに毎日を生きている。常に他人におんぶにだっこし、自分が忖度されてないと思ったら子供のように泣き喚いたり逆ギレ会見をしたり、自分に逆らえない相手をめざとく見つけては何とかしていじめ抜こうと普段国民のためには一切使わない頭を必死に働かせ、金融機関に働きかけて飲食店を締め付けようとしたり、レジ袋を廃止してコンビニのレジを煩雑にしたり、通勤電車の本数を減らして大混雑させたり、給付金を配ることに駄々をこねたりして、他人を困らせたり不快にさせることに、何よりの生きがいと自己実現を感じているのだ。

 

 彼等は信念がないから、簡単に多数派の意見や権力、その場の雰囲気に流されるし、そんな連中は集団になるか責任の所在が曖昧になると、簡単に残虐になる。責任の所在がなくなれば、マトモな人は自分の信念を頼るのだが、彼等は信念を持たないので、本性を表すのだ。日本人は集団になると残虐になるのではなく、単に本性が現れるだけである。集団になって姑息になるような人間は、普段から充分姑息なのである。