徒然なる哲学日記

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日常生活の出来事にたいする考察

「ストア哲学」〜対毒親の最強兵器〜

 毒親育ちというのは所謂発達扱いみたいなのを受けて、職場や学校でパワハラやいじめのターゲットにされたり、舐められたりすることが多い。結婚できない人も多く、スクールカーストでは所謂「下位」属することも多い。まあシンプルに言うと、毒親に惨めな人生を強要されて、そこから抜け出せなくなっている所謂「詰んだ」状態である人も多いだろう。

 

 だが、この苦しい状況も、その原因となってる毒親もろとも、一瞬で消し去る素晴らしい方法がある。それが、ストア哲学を学ぶことだ。ストア哲学のもっとも基本の教えは「自然に従って生きる」ことである。過度の承認欲求を自分に許しどこまでもそれらから得られる快楽を求めるようになった歪な魂を持ってしまった毒親からすると、許し難い思想なのである。

 

 ストア派の代表的な哲学者セネカの言葉に、次のものがある。

 

「自分を幸福だと思えない人間は、幸福ではない」

 

「幸福な人生は、徳なしにはありえない。快楽は、幸福な人生に必要ではない」

 

 これらの言葉の意味に繰り返し集中して沈潜することで、毒親の呪いというのは自然に解けていく。何故なら、毒親とは承認欲求という快楽を求めて自ら不幸になる存在であり、それゆえ自分を決して幸福とは考えないからである。そしてそんな、道徳心の欠如した生き方は、それ自体で不幸だ。たとえ毒親が、何らかの偶然で、世間からの多大な賞賛を集めることがあっても、(もっとも、毒親というのは子供を通してそれらを得ることを日々楽しみに生きているので、彼らが集めるという言い方はおかしいかも知れないが)、株やギャンブルで成功して大金を得ることがあっても、決して幸福になることはない。何故なら彼らは道徳を欠いているからだ。高潔な精神、敬虔な信仰心、親切さ、信念、賢慮、謙虚さ…そういった様々な徳から自分を遠ざけ、自ら進んで不幸になりたがるのが毒親という生き物だ。彼らは常に、他人を羨ましがることしか知らない。職場で、ママ友の集まりで、親戚の集まりで、世間の中で、自分がチヤホヤされないなんてことはありえないと、常に呆然自失している。チヤホヤされるために何か特別な技能でも磨いていたり、絵や文章の訓練を日々してるという訳でもない。彼等は自らの感情を垂れ流すことを恥とも思わず、ただ不機嫌に大きな物音を立てたり、子供に過剰に干渉することで、いつかは自分が職場や世間から、あるいは最も気持ち悪いことだが、子供の人間関係から、自分が素晴らしい賞賛を浴びる日がくるのだということを、信じて疑わない。別に、彼等が、とりわけ熱心に、敬虔に、子育てに取り組んだという訳でもない。ただその場その場での快楽であったり、世間体を気にした承認欲求であったりに従って繁殖活動の延長を続けているに過ぎない。たかが子供を産んだ程度で自分を特別な人間だと思っているなら、勘違いも甚だしい。そんな人間が、職場で周りに負担を押し付ける逆マタハラぶら下がりワーママになるのだろう。彼女らは家庭でも職場でも、自分の承認欲求のために他人に負担を強いるのだ。

 

 子供を産んだなら、その幸福は自分が子供を産んだという事実そのものに依存するべきで、産んだ子供や、増してや子供の人間関係を通して、自分が何か利益を得ようなどと恥ずべき考えを持つべきじゃない。ところが、毒親に限った話ではないが、快楽こそこの世で最も価値のあるもので、幸福な人生とはもっとも多くの快楽を味わったものであるとする考えが、日本でもどこでも、退廃した国ではお盛んである。従って、毒親についても同様、少なくとも自分は、自分の子供よりは沢山の快楽を味わったと思って人生を終えたいのである。まったく、快楽のために子供に嫉妬するとは情けないにもほどがある。それはちょうど、大学のサークルのOBである社会人が、迷惑がられてるのも知らずにサークルに頻繁に顔を出してうざがられるのと同じである。社会人には社会人のするべき活動がある。大学のサークル活動は、もうOBとなったら何も関係ないのである。

 

 人は親になったら、自分の子供時代を再体験できると勘違いし、それが子育ての醍醐味と考える人も多いが、それは愚かなことだ。子育ては自分の人生の再確認ではあっても、決して再体験ではない。子供を通して学ぶことはあっていいが、子供を通して快楽を得ようとするならば、そんな人は親になどならないほうがよかった。全て幸福は、徳のあるところに生じる。子育てが幸福となるのは、親がそこに徳を注ぎ込んでる限りにおいてである。子供を通して快楽を得ようとするならば、たとえそれが得られようと、既に親は幸福ではなく、充分に惨めな存在なのである。

 

 ストア哲学を学ぶことは、このような頭のイカれた毒親の呪いを解くのに、この上なく有用である。毒親イカれた考えを毎日聞かされていると、快楽に何か価値があるという、歪んだ人生観を植え付けられることになる。まずはそれを解除する必要がある。そのような考えに囚われていると、毒親と同等のレベルの承認欲求や性欲や名誉欲に囚われて、無限に不幸になってしまう。毒親の呪いを解く最初の一歩は、まずは自分で自分が幸福だと思うということと、徳なしに幸福にはなりえないということを知ることである。毒親は、子供が恋愛や金銭面で不自由を感じることがあると、優越感による快楽を得ることに成功する。だが決して、そんな価値観に張り合ってはならない。恋愛にしても金銭面にしても、不自由することは徳とは何ら関わり合いがない。つまり、幸福とは何ら関わり合いがないということだ。親が子供の不幸を喜んでいても、自分を不幸だと感じる必要はない。そうであることができれば、親であれば我を失うような幸運や順境に恵まれることがあっても、自分を見失うようなことはない。幸福とは、順境にあっても逆境にあっても、自分らしくいれること、自分の信念に従うことができることなのである。だから、常に自分の外の世界をキョロキョロして、職場でも家庭でも他人に嫉妬してばかりいるような毒親が、幸福になることなどできないのである。

 

 毒親は絶えず自分を不幸だと喚き、大きな声を立て、大きな物音を立て、テレビの言葉を神の啓示のごとく有り難がり、職場でもママ友の集まりでも承認欲求と自意識過剰のためにいらない気苦労とストレスを抱え込み、常にそわそわして落ち着きがなく、執着心は強くそのくせ飽きっぽい。絶えず彼等は欲求不満で、絶えずないものねだりをしている。だが、彼等は望むもの全てを与えたところで、さらにもっと欲しがるだけだろう。あの人は私より金持ちだ。あの人は私より皆にチヤホヤされている。あの人は私よりいい思いをしている。あの人は私より沢山の異性に囲まれる。などなど…。

 

 彼等の欲望は、限度を知らないので決して満たされることはない。自然に従うことも、徳を目標として生きることもできない。ただひたすらに、承認欲求の充足という死海の林檎を求めて、永久に彷徨い歩くゾンビなのである。