徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

善意の搾取と試行錯誤

 

 会社でびっくりするくらい仕事をしないのに、びっくるするくらい偉そうな人間というのは沢山いる。また、実力があって立場上仕事をしないのでもなく、本当にただの無能でただ長く会社にいたというだけで自分を何か素晴らしく尊敬されるに値する人物だと思ってる人達がいる。

 

 彼らは適当な出鱈目の思いつきを自分より立場の弱い人に押し付け、時には間抜けな仕事をさせたり、時には責任を押し付けたりしてマウントを取ることで自分の地位を安全なものにすることに、家の手入れでもするような楽しみを感じているのだろう。

 

 彼等もまた例外なく、自分できっちり勉強や努力をしてこなかった人間で、自分自身で何かを絶え間なく試したり、一つのことに一生懸命取り組むということをせずに、その場その場で周囲に合わせて適当にやり過ごし、時に立場の弱い人を見つけては面倒を押し付けたり或いはいじめ抜いたりして、自分の立場を守ってきた人達だ。だから、自分で仕事や勉強をするということができない。一つのことに一生懸命取り組むことは彼等はとっては発達障害の証になるとでもいうのだろう。恥ずかしくてとてもそんなことはできないようだ。実際、コツコツと静かに丁寧に何かに取り組む仕事熱心な人が発達障害とバカにされるのは、仕事をしない日本人の職場ではよく見られる光景だ。仕事や勉強をせずとも会社生活や学校生活を過ごしてきた人間は、隙あらば自分が搾取できる人間をめざとく求めて自分のありとあらゆる面倒を押し付ける。それも、必要のためではなく、快楽という道楽と贅沢のためだ。彼等は自分で試行錯誤が出来ないから、自分で無から有を生み出すことができない。だからその能力がある人から搾取する。

 

 試行錯誤とは無から有を生み出すための一種の魔法のようなもので、一つのことに繰り返し取り組むことで、解決方法が見えてきたり新しい発見が得られたりする。だから、発達障害と呼ばれる人は霊能力者とか魔法使いと呼んでもいのかも知れない。というか人間なら、そういった何かに一生懸命取り組む対象が必要で、そんなもののない「健常な」人生が楽しいかという話であるが、人の噂話や陰口やパワハラにはこの上なく一生懸命になる連中は、ある意味で「人から搾取すること」を一生懸命試行錯誤してるのかも知れないが、他人の成果を横取りして一時快楽に浸ることはできても、そんな実態のない快楽は一瞬で終わるし、またすぐに次の快楽が欲しくなって赤ん坊のように他人に甘える。そうして人望を失って望みの承認欲求のアテが途絶えることに嘆き苦しみ、キレる老人になって街中でみっともない姿を晒すようになるのである。

 

 他人の善意を搾取する人間は、自分で自分の人生を搾取して、無駄遣いしてると言っていい。本来は自分が試行錯誤して鍛えるはずだった能力や問題を、他人に丸投げしてしまっているのだから、そうならない方がおかしい。そうして中身も伴わず手に入れた金や富に囲まれても、魂が空っぽなのだから満たされる術はなく、また絶え間なく周りに要求する悪循環に陥り、ついには魂が死に至る病に囚われるようになる。その悪循環をシュタイナーはソラトと呼んだ。自我の放棄であり、自分の人生をドブに捨てる行為だ。他人の善意を搾取する人間は、自分の人生を自らドブに投げ捨てているのである。一時の快楽と引き換えに、魂にとって大切なものを一度に沢山失ってしまう。それは、家を無くしてホームレスになるよりも遥かに恐ろしいことだ。魂の家とは健全な精神の中にしかないのだから。

 

 ブラック企業とか外注丸投げとか中抜きとか仕事の押し付けとかあらゆる場所で搾取が流行りに流行っているが、搾取してる側は何かを得てるつもりになるのかも知れないが、実際は自分の時間を無駄にしているに過ぎない。その無駄になった時間は誰のものになることもない。だだ宇宙の彼方にゴミとして漂い、アカシャにある一人の愚かな人間の行いの記録として、永久に刻まれるのみである。