徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

「報連相」はパワハラを正当化する危険な概念

 「報連相」という言葉がある。「報告・連絡・相談」の略でホウレンソウと呼ぶそうだ。日本の会社では社会人の基本としてできなければいけない姿勢らしく、これが出来ないと仕事ができないとみなされたり、ひどい場合はADHD等の発達障害だのと言われたりする。

 

 さて、この「報連相」だが、個人的には、仕事を円滑に進めるものというよりも、パワハラの温床となってる印象が強い。その理由をいくつか述べていきたい。

 

 まず第一に、「報連相」は部下から上司に一方的にされるものであるという前提があることだ。これは極めておかしい。仕事における情報を共有する必要がある2者が存在する場合、情報の共有は互いが互いに向けて行わなければならないはずである。それなのに、「部下→上司」の一方のベクトルだけで、報連相の必要性が問われているのである。部下から上司だけでなく、上司から部下への情報の共有という形での「報連相」は必須のはずである。(上司⇄部下) 例えば、何か新しい決まりを作る時に、部下を無視して勝手に上層部のみで話を進め、ある日突然部下に「今日から〜はこうしてくれ」と命令する上司は多いが、これは、部下に対して必要な「報連相」の手順を一切踏まない、トップダウン方式の一方的で乱暴なコミュニケーションである。部下は溜まったものではないだろう。普段自分たちには「報連相」を要求する癖に、重大な決定事項に対しては、部下に一切の「報連相」なしに決められてしまうのだ。そしてそんな上司ほど、部下が必要ないと判断した業務内容に関して「報連相」をしないでいると「あいつは報連相ができない駄目な奴だ」と周囲に吹聴したりする。情報の共有が目的なら、あらゆることに関して上司から部下に対しても「報連相」が積極的に行われるべきである。なのにそれがないのは、情報の共有とは名ばかりの、報連相を通した部下から上司への「忖度」を要求しているに過ぎないということだ。「忖度」はクライアントに対してすべきものであって、上司にするものではない。それは仕事ではないし、そんな仕事に給料を発生させてもならないのだ。

 

 第二に、仕事を円滑に進めるのに必要なものは部下から上司への「質問」であって「報告・連絡・相談」などではない。「この仕事は〜ですか?」という質問に答えられない上司は無能である。仕事が円滑に回らないから。にも関わらず「報連相」に「質問」が含まれないのは、質問されて答えられなかった場合に上司は自分の体裁が崩されたと考えるし、「相談」という形を取らせることで自分を優位に保ちたいからである。ここでも忖度が要求されている。上司は何か優れたコンサルタントか何かにでもなったつもりで、部下に「相談」という形を通した忖度を要求しているのだ。実際に相談する価値がある上司なら分からないでもないが、大抵の仕事は実際にこなしている部下のほうがよく分かってるし、優れた上司は、人に仕事を任せるものなのだ。

 

 第三に、「報連相をしろ」という指示そもののが、恐ろしく曖昧だということだ。「〜の結果が出たらいついつまでに俺に『伝達』しろ」とか、「〜さんから連絡がきたら俺に『伝達』しろ」とか、「〜の仕事で分からないことがあればすぐ俺に『質問』」しろ、とかであれば、まだ部下も実行しやすいだろうが、目的語も期日も設定せずに、ただ「報連相しろ」とだけいうのは、「具体的な指示は出せないけれども業務の間は度々俺に『忖度しろ』」と言っているに等しい。(そもそも報告と連絡って何が違うんだ) このことに限らず、曖昧な指示というのは常にパワハラである。部下が判断に迷うし、自分の判断で失敗すれば責任を負わされ、かといって判断を仰げば「さっき言っただろ」などと恫喝されることになる。「報連相」という曖昧な指示を出す時点で、パワハラをしますと公言してるのと同じだ。「報連相を大事にしましょう」というのは、「パワハラを大事にしましょう」と言ってるのと同じだと思っていい。

 

 以上三つをまとめると、優れた上司というのは、上司から部下に対して積極的に報連相を行い、部下の質問に快く答え、具体的な指示を出せる人間ということである。人の上に立って働くのだからその程度やって当たり前だと思うが、日本の会社では不思議とこれらの当たり前のことを怠り、コロコロ変わる曖昧な指示を出して、部下に忖度を要求して自分の機嫌が損なわれると「あいつは報連相ができない」とか「発達障害だ」とかキレ散らかす上司で溢れている。僕が社会人になってから出会った数少ない優れた上司は、少なくとも僕の知る限りでは一度も「報連相」という言葉を口にしなかった。それでいてその上司は、新しい情報を手に入れる度に僕に教えてくれたり、仕事を頼む時は手法と納期を必ず具体的に伝えてくれたものだ。そんな上司ほど僕の雑で適当な仕事ぶりでも高く評価してくれて、周りに伝えてくれたりした。

報連相」を重視していた上司達は例外なく、周囲の人間に僕の悪口を言っていた。「報連相」を要求する人間としない人間は、こうも違うのだと、優れた上司と部下の悪口を言う上司を見比べて、しみじみと感じたものである。