徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察

会社は学校と同じ

 

 教育がおかしいから、社会もまたおかしくなるのである。学校では頭の悪い教師が自分の適当な思いつきを生徒に称賛させ、それをテストの問題にして教師が勝手気ままに思うことを生徒に無理やり解答させることで、何も生み出さない教師は自己実現欲を満たす。他人に自分の思い込みを押し付けるのは、彼等のような劣った人間にはたまらない快感だ。また、生徒が受験に失敗すれば彼の悪口を後の世代にまくしたてて侮蔑し、自分に逆らうものは受験に失敗すると脅し、従って落ちても知らん顔をして更に罵倒する。どんなバカでも、他人を評価する立場に立つと、自分が偉くなったと勘違いする。生徒より長く存在しただけの教師が教壇に立つと、自分が神にでもなったと勘違いする。

 

 会社もこれと同じで、長く会社に存在しただけの無能が管理職になり、部下に対して適当な思いつきを垂れ流し、それを部下が忠実に実行することで悦に浸る。「報連相をしろ」というのも自分を気持ちよくしろという意味である。教師が異様なまでに権力を持つ学校と同じように、上司が異様なまでに権力を持つのが日本の会社である。それは、政治とかの場においても同じなのだろう。そして彼等は誰も、仕事をしないし責任を取らない。その癖承認欲求は強く、自分がチヤホヤされないと子供のように泣き喚く。ノドグロの話をしてるのではないと指摘されると子供のように拗ねて不機嫌をあからさまに顔に出した環境大臣がいたが、教師も上司も、自分は生徒や部下に機嫌をとって貰う立場の人間であり、そうならないのはおかしい、と本気で思っており、それが損なわれると思うと怒り狂うのだ。「星野くんの2塁打」という道徳のお話で、監督がなぜ怒り狂ったのかというと、星野くんが自分に忖度しなかったからだ。監督であれは、チームを勝利に導くのが役目だが、この監督は自分の承認欲求が満たされることが一番大事なので、自分の指示に逆らって、2塁打を打って皆に注目されてチヤホヤされた星野くんが許せなかったのである。こんなのが道徳の教科書に載るというのは、もはや教師の承認欲求に基づくハラスメント行為は国家公認という訳だ。まあ国が、レジ袋の廃止やプラスチックスプーンの有料化等を通して公然と国民にハラスメント行為を行っているのだから、別に不思議ではないが。

 

 またそんな教師や上司のいうことをハイハイ聞いてバカになっていく生徒や部下も沢山いる。彼等は「教師・上司の命令の履行」を仕事や勉強だと思っており、それを実行することが正義であり道徳であり、それを信じて疑うことはない。彼等はテレビを好み、テレビのニュースキャスターやコメンテーターが喋る言葉を神の言葉のように崇めており、それを反芻して喋ることを教養だと思っている。故に、仕事や勉強というものをしたことがないのである。自分で何かにじっくり考えて取り組んだり、物事や世の中を深く考察することもない。その結果が円の実力の50年前までの水準の後退であり、うまい棒の値上げであったりする。

 

 彼等の多くはテレビやツイッターから生き方の指標を学ぶので、留まるところを知らない贅沢と強欲に支配されて狂ってしまっている。彼等のいう「普通」は常に贅沢を意味する。教師は自分が有名俳優のように扱われるのが「普通」だと思うし、上司は政治家の偉い先生のように崇められるのが「普通」だと思っている。主婦は仕事もしないで職場にぶら下がって高い給料を貰い、高級グルメや海外旅行に身をやつして子供に無駄な習い事をさせることを「普通」だと思っている。狂った人間が人の上に立っているのだから、当然のように社会も狂っていく。トナラーはそこかしこに溢れかえり、どんな無能でも必至になって他人にマウントをとるようになり、ツイッターでイキり散らかすみっともない大人が溢れ、誰も真面目な人間がいなくなり、真面目であれば仕事を押し付けられたり教師の恫喝の吐け口にされたり自殺に追い込まれたりと徹底的に搾取される。優しい人は舐められ、人を自殺に追い込んだりパワハラ三昧の人間が妻から「本当は優しい人」と聖人のように持ち上げられる。

 

 聖書では、「悪を善のように話し、善を悪のように話すことは許されない」と言われている。僕の会社のパワハラ上司は、パワハラするのを「ケジメ」と大変勇ましく言う人間だった。陰湿な行為を善だと本気で思っているようだった。教師は、クラスのいじめに加担する時必ず、「被害者にも問題がある」という言葉を使う。「僕は怖くない」と格好つけていじめ被害者の家族にいった教師もいたが、彼等が「勇敢」になるのはこんな時だけなのである。

 

 要するに、会社とか学校とかいうのは、そういう場だということだ。スラム街ばりにルール無用で、人間としての尊厳とか道徳とかいうものとはおよそ無縁の嘘吐きと恥知らずの世界であり、徳は徹底的に踏み躙られ、最低の連中が、最高に道徳的な人間として崇められる。

 

 が、古代ローマの哲学者セネカの言葉に、素晴らしいものがある。それは、「悪事を行ったことに対する最も深い罰は、それを行ったことそのものの中にある」というものだ。これはとても深い言葉である。巷のスピリチュアルでよく言われるような、カルマが巡り巡って返ってくるとか、死後に自分が他人にしたことを今度はされる形で全て味わうことになるとか(それはそれで事実なのだが)、そんなみみっちいセコい慰めではない。悪事を行うほど未熟なのが不幸という意味でもない。恐らく、自分のしていることや言っていること、自分の考えを自分で把握できていない人間は不幸だという意味だろうか。たしかに、「ケジメ」とかいう男らしい言葉を使いながら、相手を選んでコソコソと陰湿なパワハラを行ったり、或いは見て見ぬフリをするような人間は、言葉の意味を正しく把握できていないか、自分で自分の言ってることややっていることが分かっていないという意味では、恐ろしく不幸である。それは言葉の意味が分からないのに喋れる赤子と同じである。環境大臣もその類の人間だったのだろう。自分で自分が発してる言葉の意味を理解できていないし、その罪深さや責任の重大さも未だに分からないらしい。

 

 会社や学校には、そんな哀れな人間が溢れていて、彼等から悪影響を受けないのはどれだけ心を鍛えた人間にも至難の業で、伝染病が移るように、心の歪みというのは人から人へと渡り歩いていく。だが、結局人は自分で自分の発言や行いに責任を持つ存在であり、時の幸運によりたまたま出鱈目な言動が許されたとしても、既に理性が破壊されていることそのものはどうしようもないし、それは本人が自分の努力で直していくしかないのである。セネカは言った。知恵というものは、自ずから得られるものではく、努力により勝ち取らねばならないものだと。バカになるのは、自然に誰でもなれるが、理性ある人間となるには、自分で自分を律しないといけない。そのための第一歩はまずは、自分で自分の言葉や行動を把握することである。それには、何が善で何が悪なのかを、見極めないといけない。善と悪を見極める力を、セネカは勇気だと言った。勇気とは、こういうことのために使うのだと、賢者はのべている。

 

「哲学が要求するのはこういうことですーー各人は自己の方式に則って生活すること、言うことと生活が矛盾しないこと、更に、内なる生活そのものが自己のあらゆる行為と一つであって、色の違いがないことです。英知の最高の義務と証拠は、言葉と行動が調和を保つことであり、自己が何処においても自己自身と同等であり同一であることです」

 

ーーセネカ「道徳書簡集」第20(教えの実践について)ーー