徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

日本人が真面目なのは快楽主義だから

 

 まあそれを真面目と呼ぶのかどうかはさておき、何故殆どの日本人が学校では真面目に授業を聞き会社では真面目にバカな上司の指示を聞いて意味もない仕事に精を出しているのかというと、何より「快楽」というご褒美があるからだ。それは、所属と承認の欲求が生み出すチンケなものだが、そんなチンケな快楽でも、道徳や勤勉さを投げ捨ててまで価値があるものと考えているらしい。

 

 そんな「真面目」な人達は常に学校の先生や世間や上司の言うことを絶対視してそれに従って生きてきたので、自分の頭で、精神でモノを考えるということができなくなっている。仕事でも勉強でもスポーツでも、試行錯誤を通して自分を鍛える行為は何よりも楽しいことであるはずなのに、ちっぽけな承認欲求のために自分の全てを犠牲にして精神をすり減らして、快楽を追求するのがスタンダードな日本人の生き方なのである。

 

 レールから逸れないように必死なのも、快楽を追求し続けているからに過ぎない。本当の実力というのは、レールから逸れないための力ではなく、レールから逸れても自分を卑下したりしないことであるはずなのに。だから彼等はレールから逸れた人間を嘲笑し、自分が辛うじてレールを走り続けていることに安堵し、快楽を感じる。そして、いざレールから逸れるようなことがあれば、呆然自失して何もかも失ったような気持ちになるのだ。

 

 魂が安定していれば、人生においてレールがどうだのは気にならないはずだ。そして魂は、あらゆる試行錯誤をする癖をつけることで鍛えられる。仕事にしろ勉強にしろ芸術にしろ、その材料は至る所に転がっている。こうしてブログで試行錯誤して色々考えながら書くこともそうだ。思考が整理されるし、精神が鍛えられるし、実際に気分も良くなってくる。自分より立場の弱い人に精神の重荷を押し付けることでしか自分の心を軽くできない惨めな人間よりも、はるかに「健常」な精神を持っていると言っていい。まったく、小学生でさえ自由帳をもってそこに自分のアイデアを書き連ねることでいい生き方をしてるのに、ネットもSNSも無料掲示板もこれだけ発達した時代に、身近な人間関係に依存してしかも弱いものいじめをしなければ精神の安定を保てないというのは、どれだけ惨めなことなのだろう。その惨めさを快楽で必死で誤魔化そうとするのが日本人の真面目さの正体であり、それは本質的には怠惰で怠慢で無責任で日和見主義であるのと何ら変わらない。そんな軟弱な精神は他人の動向をいちいち気にしてビクビクしながら生きるので、自ずとしょうもない噂話に夢中になり、ますます自分の精神を忘れて惨めになっていく。井戸端会議で他人の噂話ばかりしているおばさんがなぜ醜いのかというと、自分の人生を生きていない無責任な存在だからである。

 

 所属と承認の欲求から生まれる快楽は、人をここまでダメにしてしまう。彼等は所属するコミュニティのために高潔に働くこともなければ、コミュニティ内の弱者を助けるために勇敢に働くこともない。いかにして楽に所属コミュニティから所属と承認の欲求を得られるかにやきもきし、コミュニティ内で弱者がいればそれをかっこよく打ちのめすことで同コミュニティ内で英雄視されることを望み、実際にそんな承認欲求からパワハラを行っている人間は数えきれないくらい存在するだろう。パワハラは全て快楽を目的として行われる。だが、必要もない快楽は全て単なる贅沢であり、自然はきっちりと試行錯誤を行う人間には、自分に満足するという自然な快楽を既に与えているのである。それを放棄して、したり顔で真面目な顔して職場で遊んでおしゃべりして弱いものいじめに外注丸投げ中抜きに勤しむ日本人は、エピクロスもびっくりの快楽至上主義者達なのである。