徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

「一つのことに集中できない」のは健常なのだろうか?

 発達障害の特徴の一つに、「特定の分野に異様なまでの集中力を発揮する」というのがあるそうだが、逆に、何か一つのことにも集中力を発揮できない人間が、他のことに集中力を発揮できるのだろうかと、疑問になる。

 

 仕事ではマルチタスクが要求されると言うが、そんな仕事は大抵専門性がなく、誰でも2〜3日でできるようになる仕事である。だから、女性がマルチタスクに向いているというのは、単にそういった仕事しかできないからというに過ぎない。

 

 発達障害者が職場にいるとトラブルが起きるというが、きっとそんな職場は、発揮障害者が明らかにするまで、大きな問題をかかえており、それを健常者特有の「他人事」主義で蓋をしてきたのだろう。多くの女性は幸福を他人に依存する。故にあらゆることを「他人事」と捉えがちだ。無神経な男もそうで、彼は仕事ができると思われがちだが、単に仕事を「他人事」と捉え、真面目に取り組む発達障害の人に押し付けているに過ぎない。文章にするのも気分が悪くなるような醜悪な事案が、この日本の至る所で起きている。集中して仕事に取り組むことができず、何事もいい加減な態度で「他人事」として誤魔化している連中が、仕事に真面目に取り組むが故にトラブルを生じる人を「発達障害」だと罵っているのだ。

 

 つまり、健常者の多くは仕事に集中できない、仕事のことをよく知らない…怠慢な人間だということだ。片手間に、他人事として仕事に取り組んでいる。だから情報伝達も情報共有もできない(その責任をホウレンソウという謎の用語で発達障害の人に押し付ける)。部下ができても仕事についてよく知らないし責任感もないから具体的な指示もできない。職場には人間関係のゴシップを何よりの楽しみに通っており、仕事のできる、できないもそんなものに由来する職場は沢山ある。そんな会社では、多くの従業員が仕事もせずに、なんたらセミナーとかなんたら研修とかで、何時間もパソコンの前に座り、アホ面を晒している。コロナウイルスは彼等にとって格好のサボりの材料であり、仕事したいんだけどできません感を演出するのに一役買っている。だから、彼等健常者のように怠慢で集中力のない人間が消えない限り、コロナウイルスが収束することはない。むしろ、収束しないほうが都合がいいだろう。だから、コロナ対策には無能な政治家が重宝されるのだろう。真摯に取り組まれてコロナがなくなってしまえば、サボるための言い訳もなくなるのだから。

 

 健常者は仕事が嫌いなら嫌いと素直に認めればいいのたが、無能の癖にプライドが高いから、おしゃべり残業や声をデカくすることで、自分は一生懸命仕事してると周囲にアピールしている。同じように仕事をサボってる健常者同士では評価し合うが、本当に仕事をしてる人にはバレている。この人は結局、注意が散漫で仕事に集中できず、やる気もない。常に仕事を「他人事」と捉え、誰かに何とかして貰おうとする。そんな人間でもせめて人に親切であったり節制があったりすれば見上げたものなのだがが、自分のことすら「他人事」と捉えてる彼等に道徳心などあるはずもなく、絶え間ない欲望の追求を自分に許し、糞尿を垂れ流すように生きる。実際、晩年の彼等は自分の健康についても医療に任せっきりになり、自分の体についても他人に世話させるようになるだろう。それで平気になった彼等は、魂のあり方についても他者に責任を委ねてきたが故、死んでから自分で自分の魂を支えることができず、魂は地獄に向かうことになるだろう。地獄という場所があるのではなく、彼等の魂が周囲を地獄にするのだ。もっともそれは、生前から変わらないのだが。

 

 一つのことに集中できない人間は、瞑想ができない。瞑想ができないということは、内観ができない。内観ができない心は成長することを知らないから、もはやこんな存在は人間ではない。動物ほど純粋でもない彼等は、もはや何者でもない。