徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

不幸な人間の特徴

日記からの引用なので少し文章が短いです。

 

ーーーー怠慢は留まる所を知らず、そのうえ欲望も留まる所を知らない。高潔さと謙虚さを兼ね備えている人間がいる一方で、怠慢と強欲を並立させるという恥ずべき魂の持ち主が溢れているのは面白いことだ…。彼らは過去の偉人に学ぶこともなければ、現代の道徳に従うこともない。偉人を誹謗中傷し、嘲笑し、偉人を貶めることのできる自分が大層立派で偉大な人であるかのように吹聴し、徳を汚し、自らの魂も汚す。怠慢な欲望がどれほどみっともないことかを知らない彼らは常に怒りっぽく、常に自分は不幸だと嘆き悲しんでいる。不幸で惨めであることには間違いないのだが、せめて怠慢くらいは改めたらどうだろう。本を読むなり文章を書くなり、いくらでも怠慢を抜け出すための努力の余地はある。彼らは怠慢そのものが、不幸の正体あることに気づいていない。あるいは、気づいていながらその子供のようなわがままの為に永久に改善できずにいる。彼らは常に制限された考え方を好み、自分の幸福ですら制限されたものの中にしかないと考える。そして、その方法では自分は幸福になれないと分かったら、今度は自分を自由にする方法を考える…のではなく、あろうことか他人を制限して自由を奪うことに腐心するようになる。そんなことをしても、ますます自分が惨めで不幸になるだけなのに、ほんの一瞬得られる刹那的な虚しい支配欲からくる快感のために、己の気苦労の全てをそこに注ぎ込み、怒りっぽく、愚痴っぽく、落ち着きなくなるのだ。彼らは絶え間なく噂話を好み、少しでも自分の下賤な欲望を満たす希望が垣間見えるような情報を必死の形相でかき集め、嘘か真実か定かではないようなことに一喜一憂し、そこで得られる偽物の快楽を、人生のこの上ない幸福のように唯一無二のものとして有難がり、そのくせ麻薬のようにそれらを追い求めて、噂話にまい進する。故に、噂話を求める人間が惨めであることに疑いの余地はなく、そのような人間に徳が舞い降りることもない。徳が近寄らないということは、決して幸福にはなりえないということだ。噂を好むものは、自ら自分自身の中にある幸福をかなぐり捨て、代わりに毒にしかならない他人の動向を、ゴミを家に押し込む要領で、自分の耳垢を押しのけてまで耳の中にねじ込んでいるのである。