徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

若者は打たれ弱くない。むしろおっさんの欲望に際限がないだけ

 「最近の若い子は打たれ弱くて〜」と、仕事しないおっさんが職場で嘆いていた。しかし、そのように言われている側の人は僕の後輩にあたるのだが、むしろ真面目で仕事熱心で、おっさんのどうでもいい仕事にも文句一つ言わず丁寧に取り組んでいて、メンタルを壊さないかと心配になったものだ。その人がおっさんが振った仕事について、「これ以上はできない」ときっぱり断ったら、おっさんは不貞腐れて周囲の人にその後輩について「最近の若者は打たれ弱く根性がない」と吹聴していた。そもそもおっさんが依頼していたのは必要のないどうでもいい自己満足でしかない書類の作成で、他の仕事でも忙しくしている人に振るのはあまりに無神経だと側で見ていて思った。その後輩はむしろ根性があるから沢山の仕事をこれまでこなしていたのであり、打たれ強いから理不尽にも耐えてそんなクソみたいなおっさんがいる会社にも自殺せずに出社しているのである。おっさんの承認欲求というのはそれだけでハラスメントだ。満たすために会社の若い人を利用する。その様はまるでボケ老人がヘルパーさんに自分の糞尿の処理をさせてヘラヘラ笑っているかのようだ。ボケ老人はまだ仕方ないとして、一般にまだボケではいないとされる年齢のおっさんにそんな人が溢れかえっている。ボケ老人よりボケたおっさんが、金も払わずに自分の介護を若い人にさせているのが日本の会社である。

 

 最近の若い人は、打たれ弱いどころかむしろ、不況の日本に生まれ、小さい頃から習い事だの学校でのカーストだの教師や就活からのコミュニケーションハラスメントだので、あるゆる面でおっさん達より遥かに厳しい人生を生きてきていて、社会に出る頃にはもうボロボロになっていて限界な人も少なくない。それでも、そんな過酷な環境で培ってきた精神力で、呑気なおっさん達の下らない思いつきにも黙って耐えて、懸命に仕事をこなしていく。涙が溢れるほど壊れそうになっているにも関わらず、おっさんやぶら下がりワーママは次から次へと下らない思いつきを押し付けていく。ついに耐えきれず職場から干される恐怖を押し殺して仕事を「断った」ら、おっさんは盛大に逆ギレして若い人の悪口を周囲に吹聴して、そうした形で承認欲求を満たす。あいつを一生懸命指導してるのに裏切られた。自分は一生懸命指導してた(実際はその場のノリで下らない思いつきを押し付けていた)のにあいつは仕事を放りだした。周りのみんな、僕は被害者です労って下さい。女性社員はおっさんの僕に優しくして下さい。会社の重役達は僕を高く評価して下さい。こうして仕事を押し付けるおっさんにしたら、後輩が潰れても潰れなくても、自分の承認欲求を満たせるなんとも都合のいい搾取システムである。おっさんの承認欲求は尽きることがない。楽な若者時代を過ごして楽に評価されて、楽に金を得て楽にチヤホヤされて楽して快楽を得てきた世代である。だから、日本の経済状況がどうであろうと、自分の快楽を追求することをやめない。そのために最も都合よく利用できるのが、自分の会社に入ってきた若い後輩達なのである。若くて何も知らないから、どうでもいい仕事でも押し付けることができる。それを感謝すらさせることができる。だから多くの企業は新卒で採用したがる。外の世界を知らないから自分達を権威づけるのに都合がいい。会社の先輩も学校の教師も同じで、狭い世界しか知らずにそこに長くいることで、後から入ってくる若い人に対する絶対的なマウントをとることが人生における喜びになる。日本のあるゆる組織にそんな風潮があるし、国も別にそれが悪いとは思っていない。だから、圧倒的に優位な立場を利用してわいせつ行為を起こす教師はいなくならないし、今日もどこかで承認欲求の強いおっさんが思いつきのデタラメを若い人に押し付けるパワハラをして自殺に追い込んだりする。若い人にとってはイカゲームもびっくりの理不尽な世界である。殺されることはないが、自殺するまで追い込まれるという意味ではイカゲームより遥かに過酷なのかも知れない。そんな若い人の中には、知的で優しくて、親切な人も多い。そして親切であればあるほど、上記のような卑劣なおっさんに利用され搾取さて、退職に追い込まれるか自殺に追い込まれるという悲しい事態になる。

 

 だからこうしたブログが必要なのである。卑劣で猥雑な欲望を持つおっさんがどんな貧困な語彙力で紡ぐ美辞麗句を使って若い優しい人を退職や自殺に追い込むか、ぶら下がりワーママや20代後半〜40代後半の醜い子持ちおばさん達がどんな風に自分を正当化し、優しい若い独身男女を搾取しているか。彼等の卑劣さと陰湿さと残忍さを、逐一余す所なく文章として記録する。この文章が真実を捉えていればいるほど、その真実はアカシャ年代記(アカシックレコード)に強く刻印され、カルマは巡り巡って、摂理を体現させてくれるのである。

 

 

日本にロクな哲学者がいない理由

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 現代はひとまずおいておいて、近代以前日本にあまりマトモな哲学者がいないことが、日本の国民性を表してると言っていいかも知れない。それは何も識字率がどうとか勉強する環境がどうとかいう問題ではなく、国民性とか信念の話であるように思える。民族魂としてそういったカルマがあるのかも知れないが、それならそれで、グローバル化が進んだ現代では、古代ギリシャやローマの賢人の優れた著作が簡単に手に入るので、それらから積極的に学ぶべきであるのに、高校の倫理で、からかうように触れる程度にしか哲学を学ぶ機会がないのは誠に悲しいことである。日本の哲学者にもロクなのがいないし、現代でも哲学がこれほど軽視されてる先進国もあるまい。これこそが、経済云々以前の日本人の貧しさの原因であり、職場や学校であらゆる悪徳が蔓延る原因なのではないかと思う。

 

 日本人の哲学者というと、何が言いたいのかさっぱり分からない著作しか残してない、まとめると「分かりにくい」哲学者ばかりなのである。2000年以上前のギリシャの賢人達が、現代でも我々の心に響く沢山の哲学書を残しるのに対して、日本の哲学者は、我々に何の印象も残さない、ただひたすらに「複雑なだけ」の取るに足らない存在なのである。そんな人間が偉大な哲学者として称えられる日本では、やはり哲学もただ「複雑なだけ」のものが主流になり、セネカのいう所の、「哲学がいかに偉大かではなく、いかに複雑かを示すことに必死な人々」が溢れかえっているのである。

 

 何故このように、哲学を複雑にすることでより高尚さが増すかのように考える人が溢れているかというと、やはりそれも日本人が快楽と世間体を何よりの教祖とした宗教に支配されていることに由来する。他人に対して物事を簡潔に説明するよりも、何か複雑に説明することで相手を混乱させたり困惑させたりすることでマウントを取って悦に浸ることに快楽を感じることがスタンダードになっているが故である。分かりやすく説明するのは何か相手に対してサービスをしたような屈したような気持ちになって屈辱だとでもいうのだろうか。だから、学校の先生は、簡単なことをいちいち複雑で分かりにくく説明して、生徒達に対してマウントを取る。分かりやすく説明すると、自分の権威が貶められたように感じるのだろう。いつからか西洋哲学でも、人間がいかに生きるべきか、世界とは、神々とは、道徳とはについて簡潔に語ってきた哲学が、何やら難解な用語を沢山開発しては役立たずなものにしてしまった。よく分からん難解な哲学用語を覚えた学生が、どう賢くなるというのだろう。どう道徳的になるというのだろう。どうやって自分の人生の悩みに、弱い心に向き合うことができるようになるというのだろう。そのような複雑な用語によるマウント行為によって学生の精神は擦り減って疲れ果て、有意義な思索に費やすためのエネルギーが根こそぎ奪い取られてしまうのだ。承認欲求のために複雑でどうでもいい用語を残すことが、後世の人たちにとってどれほど有害で罪深い行いかということを、用語の中でしか哲学を語ることをしなかった日本の哲学者達は恥じて然るべきである。

 

 哲学は大衆に開かれるべきで、セネカの言うように、哲学をすることのない人間は病んでいるのである。哲学をするとは自分と向き合うことで、自分と正しく向き合うことを知った人間は世界とも正しく向き合うことができる。哲学をすることがないと人は、生き甲斐を快楽や承認欲求に費やすことになる。そのために必死になって他人にマウントを取り、神経を擦り減らしてハラスメント行為に勤しみ、一瞬で消える快楽のために、一生の全てを費やし、人生を無駄にする。およそ哲学することのない人は人生の真の喜びを知ることがなく、一生を無駄にする。ソクラテスプラトンと、ネットでも書籍でも気軽に親しめるこの時代、2000年もの時を有意義に使うことを許されてるこの時代に、身近な人間関係におけるマウントに人生の全てを費やしてる哀れな人間は、時間をドブに捨てていると言っていい。何せ2000年もの間熟成されてそれでいて新鮮な味わいのある過去の偉人の教えにこれだけ簡単にありつけるこの時代に、あえて刹那的な快楽に身をやつし、あたかも2000年もの歳月は、今の自分の人生の一瞬の快楽に遥かに劣るとでも言わんばかりである。

 

 他人の生活を逐一気にして見張るような田舎の暇人にこれは顕著に当てはまる。ネットでこれだけ時間も空間も超えて広い世界と繋がれるこの時代に、あえて卑近で生臭い人間関係に自分を縛りつけるたり、ドMなのかそれともそうした身近な人間関係の中では自分は王様にでもなれていると思っているか、いずれにせよ勘違いも甚だしいものだ。

 

 だからセネカは大衆は避けよと言っている(倫理書簡集の8)。どれだけ高潔な人であっても、大衆と長く交ればそこから悪影響を受けることは避けられないからだ。一人引きこもり、じっくりと自分や過去の偉人と向き合う時間が必要だ。シュタイナーでも、セネカでも、有名な所だとプラトンでもエピクテトスでも、優れた思想家は沢山いるし後者2人の本は書店で安価に手に入れられる。そうした過去の偉人との交わりは人生における真の財産となるし、生きている時も死んだ後も、魂を豊かにしてくれるだろう。

 

「信念がない癖に女好き」という最低の存在

 天下り無能役員とか、何かの間違いで会社の重役に就いた人がこのタイプだと、会社にとっては悲惨だ。僕の会社がまさにそうなのだが、現場の知識つまり仕事に関するちゃんとした知識や経験がない癖に女好きの無能なおっさんがトップというのは、自分の評判を高めるために何をするかというと、社内の噂話(それも主に女性の)や人間関係のパワーバランスを逐一チェックして、それに媚びる形で社内政治を行う。例えば、社内で女性に嫌われている管理職がいれば、たとえその人が仕事ができようと厳しく叱責する。お気に入りの女性社員がいれば、何かと理由をつけてその人だけ給料を上げる。女性社員が多い部署にだけ特別な手当を増やして金をバラまく。社内で女性ウケのいい人やリア充寄りの人間に媚びて給料を上げたり扱いを良くする。100歩譲ってしっかりした現場経験や仕事の経験があり、会社の将来を思った上でそんな風に暴走しているのなら、情熱故の過ちとして許されるのだが、このオッサンは、現場経験も知識も情熱もなく、ついでにやる気もない日和見主義者である。その癖女好きでかっこつけることには余念がないから、どうでもいいパワーポイントのスライドを作って遊びながら仕事してますアピールをすることは欠かさない。上記の人物は僕の妄想でも何でもなく、実際に存在し、現在暴れている人である。女性に媚びるからか女性ウケはまあまあいいようだ。しかし、本当に仕事をしてる人やちゃんとした知識や経験のある人からの評判はすこぶる悪いので、消えるのも時間の問題だろう。

 

 このオッサンの何が1番問題なのかというと、「信念がない」ことである。信念がないから、社内の噂話を逐一チェックしないと自分の意思決定もできないし、信念がないから真面目な人からは尊敬されない。別に、現場経験や知識がなくても、どんな業界でもどんな仕事でも、ある種の信念を持って仕事に携わることは可能だ。それは、国の大事なプロジェクトに関わる人でも、街角でティッシュを配る人にしても同じである。単純な仕事であっても、そこから何かを学び取ることはできるし、信念一つで、どんな仕事にも徳を注ぎ込むことができる。逆に、信念がないと、どんな仕事でも悪事に変わる。その行いには目的も将来のビジョンもなく、おっさんはただ「その場の」承認欲求つまりは快楽のためにあらゆる発言を行う。業界に対する憂いも顧客に対する敬意もない。ただ無難にその場の仕事をこなしてついでに女漁りにも余念がない。信念がない女好きというのはここまで醜い。しかし、世の中にはそんな人間が溢れに溢れている。

 

 信念がないとは、真剣に生きてこなかった証でもある。物事についても世界についても人間についても、真剣に取り組んでそれについて熟慮したことのない何よりの証である。そんな人間は海に浮かぶ泡のように不安定で移り気で考えや態度に一貫性がなく、それでいて性欲や名誉欲などのしょうもない欲求を満たすことには余念がない。英雄色を好むというが、それは信念のある男が可愛い女の子を好きでも絵になるという意味だ。信念も何もない男が女好きだと、これほどみっともないことはない。世の中に何も役に立たない癖に、繁殖への欲求には余念がないということだ。これほど救い難い人物がいるだろうか?信念がないのに女好き?なんだそれは?そんなのは宇宙人か人の想像の中にしか存在しない生きものではないだろうか?しかし実際に世の中にはいるのだ。信じられないくらい卑劣で、信じられないくらい陰湿で、信じられないくらい意地悪で、信じられないくらい横柄な上に、自分の快楽の追求には余念のないおっさんというのが。

 

 特に日本人というのは特定の宗教を持たない分、ある種の信念や信条を持たずに、世間体や快楽を教祖としたまま大人になってしまった可哀想なおっさんで溢れている。そんなおっさんが、パワハラやセクハラに走ってちっぽけな自己実現の欲求や承認欲求を満たし、何かそれを人間らしい男らしい立派な生き方だと思っているのだろう。だが、信念のない男に自己実現など望むべくもないのだ。自分なりの思想や哲学や正義に基づいて、良心や道徳観に基づいて、それを貫こうと奮闘努力するのが信念だ。そしてそれは、自分が人生の中で悩み苦しみながら見つけてきた答えの結晶であり、一人一人違ったものを持っている筈だ。だから、ドラマやテレビやツイッターから借りてきたようなどこかの誰かが言っていたような名言を言いたがる薄っぺらい人には信念がない。「絆」とか「思いやり」とかを簡単に口にする人間に、信念があると思うだろうか?前の環境大臣に、何か少しでも信念があるように見えただろうか?信念があるかないかというのは直ぐに分かる。自分の言葉で話すか話さないかだ。その場の空気に媚びたり、社内の噂話に逐一迎合するような発言しかできないトップに信念はない。あるのは愚かしい承認欲求と、性欲と名誉欲だけである。そんな人間はどれだけ高い地位にあっても悲惨だし、死ぬまでも死んでからも悲惨である。自分の人生を生きていないのだから。

 

 

 

過労死の背景には必ずパワハラがある

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 過労から来る心臓疾患からの突然死にしても過労自殺にしても、背景には必ず悪質なパワハラがある。そして多くの場合、過労死するほど働いてる人は職場で陰湿な嫌がらせや叱責、陰口や悪口に晒されていることが多い。また、ぶら下がりワーママの仕事を押し付けられたり、上司がマウントを取るためだけの不必要な仕事を押し付けられたりしてる場合もある。

 

 特定の人に業務を集中させるというのは、本人の時間や考える余裕を奪うことだったり精神的にも肉体的にも「押さえつける(マウンティング)」ことであったり理由は様々だが、簡潔に言うと「いじめ」ということだろう。大人の世界ではこんな風に行われて、子供達がそれを真似して行われるのが学校におけるいじめだ。だから、過労死を防ぐという名目で単に労働時間に制限を設けたり、有給の消化義務を設けたりすることでは、根本的な解決にはならないのである。

 

 とはいえ、いじめというのもこれまた根本的な解決は基本的にできない問題だ。ストア派的に言うなら他人の行動や考えは自分の権能の外にあることだし、同じように仕事をしていても褒めてくる人もいれば叱責する人もいる。いじめられる側にも原因があるという人もいるが、いじめる側が常に気まぐれで一貫性がなく、精神が不安定な状態にある以上、それは無意味な指摘だし、いじめにはある種の快楽が伴うせいか、制度で取り締まろうとも、あの手この手と新しい手法を考えて、ルールを掻い潜って必死にいじめを行う連中というのは出てくる。そんな連中は、語彙力は貧困なのに、言葉巧みに自分の行いを正当化するのは得意だ。多分それまでの人生において、ロクに勉強もしないでそういったマウントのテクニックだけしっかり身につけてきたのだろう。会社の利益にも何もならない、本人が一瞬気持ちよくなるだけの不毛な技術だが、そんなのをみんな必死で磨いている。「論破」なんてのに憧れるバカがいるのもその証である。大抵は立場と語気の荒さで無理矢理意見を押し付けているのであり、対等か自分より立場の上の人相手に「論破」できている人間を見たことがない。

 

 そもそも論理的に物を考えて仕事できる日本人なんていない。昔から世間体や場の空気が絶対的な権威を持っていた女子中学生みたいなこの民族が、「論破」なんて人間らしいことができる筈がないのである。2000年も前にギリシャやローマで活発に論理的な議論が交わされていた一方で、その頃の日本人がどんな生活を送り、どんな思想を持っていたかを考えれば、いかに日本人が「考えない」民族かということが分かるだろう。だから、仕事のしかたとか、上の立場の人間が下の人に対する接し方とか、そんなことを丁寧に考える習慣がないから、ただ快楽を求める本能に導かれるままに、機会があればいじめをしたりマウンティングに余念がない。何か高潔な理由があってそうするのはなく、いじめ・マウンティングをすれば自分が「美味しい思い」をできる可能性が飛躍的に高まるからだ。それはちょうど、学校教師がカースト上位のグループに媚びて、クラスの大人しい人がいじめられている時に見て見ぬフリをするのに似ている。学校教師はそうすることで、カースト上位のグループからの「おこぼれ」が貰える可能性が飛躍的に高まるからだ。ロクに勉強もせずに時間も性欲も持て余してる教師からすれば、絶好のアピールチャンスでもあるのだ。そしてそれは、職場にしても同様だ。

 

 会社での過労死や過労自殺というのは、学校でのいじめ自殺と背景は似たようなものだ。被害者は生贄か見せしめとして理不尽な目に合わされ、苦しんでいるにも関わらず職場・学校では被害者が悪者のように扱われる。激務を押し付けられている人がいくら一生懸命仕事しようとバカにされるだけのように、学校でいじめられている人がいくら努力しようと、いじめっ子グループはむしろそれを嘲笑うように手を変え品を変え相手を追い込んでいく。仕事や勉強に関して彼等は工夫することはなくても、陰湿な嫌がらせに関しては次から次へと素晴らしいアイデアやポエムを生み出す。それはきっと、芸術家や素晴らしい作家にでもなったような気分だろう。いじめをする彼等は素晴らしいクリエイターで、何かとても優れたセンスがあると自分たちは思っているし、そのコミュニティに所属する人達も(特に女は)、そんなサル山のボス達に敬意を払って媚びを売るのだ。

 

 だから、過労死の問題は労働時間の問題でなく、人間一般の道徳意識の問題だ。いじめもそうだが、どこかで過度に快楽を追求する人間の駄々が、真面目な人を自殺に追い込んでいるのである。それも、承認欲求であったり過大な自己評価から来る愚かな欲望だ。シュタイナーの言う所のソラトつまりは嫉妬心だ。常に他人を羨ましがり、自分はもっと優遇されて然るべきだ。自分は優れた存在なのだからチヤホヤされないのはおかしい。自分は他人の人生に影響力を行使するほどの力を持った素晴らしい人間である。そういった際限のない欲望の追求を自分に許し、そして自分を磨くのではなく他人に迷惑をかける方向でそういった欲望を満たす人間が、ソラトの支配下にある人間である。ソラトとは悪魔アーリマンの中でも最恐の存在で、アーリマンとルシファーのバランスを常に悪い方に傾ける存在である。(バランスを取る力がキリスト) だから彼等は際限なく世界を破壊するし、道徳を踏み躙ることそのものが何らかのステータスになると思っている。

 

 パワハラを行う瞬間というのは、きっとスリルがあるんだろう。自分はこんなに横柄に振る舞うことを許されてる。こんなに怒鳴ってるのに誰も自分を咎めない。仕事をいくらでも押し付けられる。それはきっと俺が、優れた人間であるからに違いない。

 

 自分で自分の価値を高めることのできない人間は、こうした形で他人に依存して自分には素晴らしい価値があると錯覚する。他人に激務を強いることなんてその際たるもので、気分はまるで古代ローマで奴隷をこき使ってる金持ちの名家の子息にでもなったようなものだろう。こうした悲しい錯覚が、日本の至る所で起きている。だからハラスメントも過労死もなくならない。全ては価値観を自分ではなく他人に依存することが原因である。だが、いい大人なら、他人にチヤホヤされることではなく、自分で自分を認めることを人生において大切にしていきたいものである。それを正しい自己愛といい、シュタイナーのいうところのキリストの力だ。

 

 

18歳以下への10万円配布は公明党の壮大な「パパ活」である

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 単なる人気とりのために、ここまで愚かな政策は思いつかないと思う。多分、ツイッターとかでJCとかJKとかからの感謝のリプが政治家さん達にきて、そこからお知り合いになってあわよくば…みたいなことを考えてる公明党員とか自民党員は沢山いるだろう。前のコロナ担当大臣の西村がかつてベトナムでやっていたことを考えると、それは別に不思議でも何でもない。今や政治家が堂々とパパ活をする時代だ。淫交条例なんてのがあるけど、政治家である俺様達は大丈夫とでも言いたいのだろうか。

 

 そもそも共働きが増えてる昨今、18歳以下の子供がいる家庭が貧困で困ってる訳がないだろう。妻はぶら下がりワーママとして職場で真面目に働く独身の男女からしっかり給料を毟り取っているし、夫は既婚者というだけで無能でも出世できるし風俗に行くだけの小遣いもたっぷりあるし、不倫するだけの金銭的・時間的・精神的余裕も有り余ってる。むしろ独身の男女の方が低賃金でイキイキワーママの仕事を押し付けられて、パワハラ既婚上司のマウンティングに振り回されて過労と激務と貧困で鬱病になって自殺しそうな人が沢山いるのに、まるでその人達に見せつけるかのように既婚子持ちの家庭にだけ10万円を配布するとは、差別も甚だしい。

 

 子持ちは独身に比べてリストラの対象にもなりにくいし、無能でもどんどん出世するし、女ウケもよく、金銭的にも圧倒的に独身より優遇される。そんな圧倒的に優遇された既婚者の夫と仕事しなくても毎月高いお給料が貰えるぶら下がりワーママがいる18歳以下の子持ちの家庭に10万円を配ることに、どれほどの意味があるというのだろう。そんな金があるならホームレスに配った方がマシだし、旅行や風俗や子供の下らない習い事に使う子持ち家庭より、よっぽど切実に困っているだろうから。

 

 そんな背景も無視してこのような愚策を強行する理由はやはり、パパ活だろう。今の時代の政治家は、「勝負の3週間」とか言ってかっこつけて、何とかモテようと必死な連中ばかりで、ついでにロリコンで溢れている。しかし税金でパパ活するとは何とも見下げた性根の持ち主達である。税金でセクキャバに行ったどこぞの議員よりタチが悪い。表向きは、子供のためとか国の将来のためとか言っておきながら、多分JCJKとお近づきになってあわよくばとか考えている奴しかいないということである。

 

 ロリコンが堂々と税金を使うようになるとこのような愚策をとるよい反面教師として、後世に長く語り継がれていくべきである。

 

産休・育休制度が独身ハラスメントである理由

 職場で無資格無能低学歴でついでに性格も悪いブスなアラサーの女性がつい先日産休に入った。その人の仕事が他部署にいる僕の知人の仕事熱心で真面目な独身女性に押し付けられ、ただでさえ忙しかったその独身女性に更に負担がかかることとなった。

 

 そのブスを見ていてこんなブスでも結婚できるのかと不思議に思ったが、無能な上にのうのうと産休を取ったのには更に驚いた。いてもいなくても誰も困らないような部署でひたすら不要な書類を作るだけのどうでもいい仕事をしている女性で、30を超えている癖にぶりっ子の声を出す大変気持ち悪い女性であった。要するに、職場にいることで誰も得をしないブスなのである。そんなブスがのうのうと産休を取って、育休明けにはぶら下がりワーママとしてどうでもいい子供の話や旦那の愚痴を言うためにわざわざ職場に戻ってくると思うと怖気が走る。

 

 M字雇用というのは人間社会の自然な姿だと思う。そうでなくても20代後半〜40代後半の女性というのは、若さも容姿も失って、かといって親としての経験もないから人間として未熟で、要するに何の取り柄も無くなるので、大人しく家庭に引き篭もって子育てに専念するのが世の中のためなのである。それだって大事な仕事だ。母親としてしかできない仕事があるのに、子供が小さいのにわざわざ無理して会社に来るぶら下がりワーママの神経が知れない。多分会社を学校か何かだと思ってるのだろう。だからおしゃべりはやめないし、お菓子パーティには余念がない。M字雇用の曲線は、女性の社会的価値と綺麗に比例している。若くて綺麗な頃は仕事ができなくても男性社員を立てて職場の利益に貢献できるし、子育てをひと段落させて人間的にも成長した女性は、若い人にとって面倒見のいい「おばちゃん」になれる。とこらが、結婚してからまだ子供も小さいあるいは思春期など多感な時期にある20代後半〜40代後半の既婚女性というのは、男性社員のモチベーションアップに繋がるだけの容姿も若さもなければ、若い人の面倒を見てあげるほどの人間性ができた人もいない。要するに、無能な上に性格も悪く、ついでに容姿も劣化してて添え物としての価値もない産業廃棄物並みの無価値な存在なのである。それでも独身女性なら、ずっと仕事をしてることでスキルもついてくるし、会社に貢献できることも沢山あるだろう。これがぶら下がりワーママになると、職場には家庭の愚痴だの自慢だのをしに遊びにくるだけで、仕事では使えないしついでに添え物としても適さない、性格も悪いという救いようのない存在なのである。そんな存在を無理矢理社会進出させて、社会にいい影響なんかある筈がないのである。

 

 何より、結婚して旦那の稼ぎもあって生活にまず不安のない既婚女性達が楽をしてるという構図は、同じ職場で働く独身の男女にとっては耐えがたい存在になる。男性にしてみれば、自分にとって異性としての価値もない、かといって母のように面倒を見てくれる訳でもない女性のために、残業や休日出勤や、キツい仕事を押し付けられる。女性にしてみれば、自分は結婚もおろか彼氏もいないのに、ぶら下がりワーママがキャッキャウフフと職場で楽しそうに子供の話をするイキイキママとして活躍するために、残業や休日出勤を押し付けられて、産休育休の時にはその尻拭いもさせられて、ロクに休みも取れないから婚活もする余裕もない。必死に働いても若さも気力も会社とぶら下がりワーママに搾取されて、一生独身として生きていくしかなくなる。

 

 これら全ての独身に対する陰湿で執拗なまでの「搾取」は、無能なイキイキぶら下がりワーママという存在を無理矢理社会進出させて活躍させるという自然に反することをしたことに対する反動である。男女平等。ジェンダー平等。綺麗事の裏にはいつも必ず搾取される弱者が存在する。SDGsとか環境への配慮もそうである。動物愛護も必ずそういう方向へ走っていく。だから熟慮が必要で、過去の偉人に学ぶ謙虚な態度が必要なのである。かつての日本で男尊女卑の風潮があったのは決して女性を差別していたからでなく、その方が男も女も高潔でいられたからに過ぎない。女性の社会進出を促した結果はどうだろう?不倫は増え、独身に負担を押し付けて平気な「イキイキぶら下がりワーママ」というモンスターを生み出してしまった。一度既得権益を得たら死ぬまでそれに縋りつくのが人間の性だ。ぶら下がりワーママ達はこれからも、真面目に働く沢山の独身男女を搾取していくだろう。それがハラスメントとして認められるにはまだ時間がかかるだろう。M字雇用という自然の摂理に則った雇用形態が回復するのも、時間がかかるだろう。今社会では、女性の人気を取って自分の名誉とパパ活のために沢山のこうした悪事を働くおっさんが溢れに溢れている。彼等は女性に優しい自分が沢山の裸の女性に囲まれる妄想をするのを止められなかった結果、女性の社会進出という悪手を選んだ。悪手の結果は数手先にならないと分からない。欲ボケしたジジイの腐った頭を、もとに戻す薬はないのである。

 

「思いつき」を垂れ流すのは日記かブログか匿名掲示板に留めておけ

 親や教師、上司や政治家やニュース番組のコメンテーターのように、「一方的に意見を押し付けるだけ」の立場に立つと人は、下らない「思いつき」を垂れ流すという悪徳に染まる危険性が格段に高まる。だから、読書や勉強を通して日々自分の考えをアップデートして自分を引き締めることが必要なのだが、快楽主義の日本人にはそんなことをのぞむべくもないか。ただひたすら毎日がマウントの取り合いで、自分の「思いつき」を垂れ流して自分よりたまたま弱い立場にいる人達の頭の上にかけたり、その尻拭いをさせるなど、たまたま人の上に立ってしまった人達の悲惨さと言ったらない。自分の勝手気ままで信念も一貫性もまとまりもない幼稚な思いつきを、エジソン並みの何か素晴らしい「ひらめき」だと本気で思っている彼等の暴走は止むところがない。必要のない会議やどうでもいい雑用を思いつき、それを押し付けることが「マウントの証」になることから必死でそれを押し付けられる相手を探す。時には会社の利益を損なうようなことになってもそれを行う人間がいる。例えば、僕の会社のとあるおっさんは実際に売上に直接関わる大事な仕事をしてる若い人の邪魔をして、下らない会議に無理矢理参加させようとしている。そのおっさんはというと一日中パワーポイントをいじって遊んでるような典型的な無能だが、態度だけは物凄くでかい。現場上がりでもないから現場の知識も経験もないし、かといって地頭がいい訳でも他人に親切な訳でもない。下らない会議を頻繁に開催することを「思いつき」で提案し、それによって真面目に仕事をしている人達を振り回すことでマウントを取っている。いつの時代もマウントというのは、無能が無理矢理真面目に仕事をしてる人達より上の立場にいこうとして取られるものだ。中抜きも一種のマウントだし、麻生のような何もしない無能な政治家も、常に国民にマウントを取っている。まあ、特に女性がそうだが、マウントが上手な人間を何か優れた存在だと評価するような哀れな層は常に一定数存在する。日本が豊かな間はそんな風に遊んでるのも一興かも知れないが、ロクに経済成長もしない昨今、マウントの取り合いで遊んでる暇があったら、少しは実務的な仕事の勉強でもしたらどうかと思う。政治家なら経済とか歴史とか地理とかいくらでも勉強すべき分野があるだろう。会社員ならパワーポイントをいじって遊んでる暇があるなら現場の見学に行って謙虚に勉強するもよし、仕事に関係する本を読んで勉強するもよし、ネットで仕事に関係するニュースを探すもよし、いくらでもすることがある筈である。少なくともどれも、パワーポイントでお絵描きして遊ぶよりは、会社の利益に貢献する仕事だから。

 

 「思いつき」を垂れ流す人間というのは、アストラル次元でいうと恐ろしい犯罪行為をしていることになるだろう。なんせ、シュタイナーによると嘘をつくということはアストラル次元でいうと殺人に等しいらしい。まして、無責任で気まぐれで、不安定で常に不機嫌で、マウント行為が最大の目的になっている「思いつき」の垂れ流しが、霊的な次元で犯罪にならないはずもないだろう。物質次元で返ってくるカルマとしては、恐らく痴呆が1番最初にくるものだろう。ロクに考えもせず、自分の不埒な感情のまま発せられる勝手気ままな「思いつき」を語るその姿は、アホ面をして糞尿を垂れ流しにする痴呆老人のそれと何ら変わりない。いやむしろ、自分を高尚だとすら思ってる前者のほうが、より悲惨かも知れない。シュタイナーは、いかなる思考にしても言葉にしても、現実世界でそれを発する前には熟慮と覚悟が必要だと言った。それは、現実世界に及ぼす影響が大きければ大きいほどそうだろう。ところが、宗教的な縛りもなく世間体が戒律の日本人は、世間にさえ許して貰えれば、どんなみっともないことも、勝手気ままで不埒なことも許されると考えている。だからあらゆる教師は上司は、糞尿を垂れ流すように自分の勝手気ままな「思いつき」を自分より立場の弱い人に押し付け、その糞尿を宝石のように崇めさせることに、至上の喜びを感じるのである。そして糞尿を臭いとか汚いとか正直に言うと、「あいつはコミュニケーション能力がない」などのこれまた稚拙な罵声を浴びせられるのだ。「思いつき」という糞尿を垂れ流した上に、それに対する賞賛まで要求される。日本人というのは歳を取れば取るほど、変態に磨きがかかっていくものらしい。