徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

「思いつき」を垂れ流すのは日記かブログか匿名掲示板に留めておけ

 親や教師、上司や政治家やニュース番組のコメンテーターのように、「一方的に意見を押し付けるだけ」の立場に立つと人は、下らない「思いつき」を垂れ流すという悪徳に染まる危険性が格段に高まる。だから、読書や勉強を通して日々自分の考えをアップデートして自分を引き締めることが必要なのだが、快楽主義の日本人にはそんなことをのぞむべくもないか。ただひたすら毎日がマウントの取り合いで、自分の「思いつき」を垂れ流して自分よりたまたま弱い立場にいる人達の頭の上にかけたり、その尻拭いをさせるなど、たまたま人の上に立ってしまった人達の悲惨さと言ったらない。自分の勝手気ままで信念も一貫性もまとまりもない幼稚な思いつきを、エジソン並みの何か素晴らしい「ひらめき」だと本気で思っている彼等の暴走は止むところがない。必要のない会議やどうでもいい雑用を思いつき、それを押し付けることが「マウントの証」になることから必死でそれを押し付けられる相手を探す。時には会社の利益を損なうようなことになってもそれを行う人間がいる。例えば、僕の会社のとあるおっさんは実際に売上に直接関わる大事な仕事をしてる若い人の邪魔をして、下らない会議に無理矢理参加させようとしている。そのおっさんはというと一日中パワーポイントをいじって遊んでるような典型的な無能だが、態度だけは物凄くでかい。現場上がりでもないから現場の知識も経験もないし、かといって地頭がいい訳でも他人に親切な訳でもない。下らない会議を頻繁に開催することを「思いつき」で提案し、それによって真面目に仕事をしている人達を振り回すことでマウントを取っている。いつの時代もマウントというのは、無能が無理矢理真面目に仕事をしてる人達より上の立場にいこうとして取られるものだ。中抜きも一種のマウントだし、麻生のような何もしない無能な政治家も、常に国民にマウントを取っている。まあ、特に女性がそうだが、マウントが上手な人間を何か優れた存在だと評価するような哀れな層は常に一定数存在する。日本が豊かな間はそんな風に遊んでるのも一興かも知れないが、ロクに経済成長もしない昨今、マウントの取り合いで遊んでる暇があったら、少しは実務的な仕事の勉強でもしたらどうかと思う。政治家なら経済とか歴史とか地理とかいくらでも勉強すべき分野があるだろう。会社員ならパワーポイントをいじって遊んでる暇があるなら現場の見学に行って謙虚に勉強するもよし、仕事に関係する本を読んで勉強するもよし、ネットで仕事に関係するニュースを探すもよし、いくらでもすることがある筈である。少なくともどれも、パワーポイントでお絵描きして遊ぶよりは、会社の利益に貢献する仕事だから。

 

 「思いつき」を垂れ流す人間というのは、アストラル次元でいうと恐ろしい犯罪行為をしていることになるだろう。なんせ、シュタイナーによると嘘をつくということはアストラル次元でいうと殺人に等しいらしい。まして、無責任で気まぐれで、不安定で常に不機嫌で、マウント行為が最大の目的になっている「思いつき」の垂れ流しが、霊的な次元で犯罪にならないはずもないだろう。物質次元で返ってくるカルマとしては、恐らく痴呆が1番最初にくるものだろう。ロクに考えもせず、自分の不埒な感情のまま発せられる勝手気ままな「思いつき」を語るその姿は、アホ面をして糞尿を垂れ流しにする痴呆老人のそれと何ら変わりない。いやむしろ、自分を高尚だとすら思ってる前者のほうが、より悲惨かも知れない。シュタイナーは、いかなる思考にしても言葉にしても、現実世界でそれを発する前には熟慮と覚悟が必要だと言った。それは、現実世界に及ぼす影響が大きければ大きいほどそうだろう。ところが、宗教的な縛りもなく世間体が戒律の日本人は、世間にさえ許して貰えれば、どんなみっともないことも、勝手気ままで不埒なことも許されると考えている。だからあらゆる教師は上司は、糞尿を垂れ流すように自分の勝手気ままな「思いつき」を自分より立場の弱い人に押し付け、その糞尿を宝石のように崇めさせることに、至上の喜びを感じるのである。そして糞尿を臭いとか汚いとか正直に言うと、「あいつはコミュニケーション能力がない」などのこれまた稚拙な罵声を浴びせられるのだ。「思いつき」という糞尿を垂れ流した上に、それに対する賞賛まで要求される。日本人というのは歳を取れば取るほど、変態に磨きがかかっていくものらしい。