徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

語彙力が貧困な人ほど「名言」を言いたがる不思議

 ネットでもテレビのニュースでも現実の職場でもそうだけど、ロクに読書もしない、語彙力が貧困でついでに頭も悪い人ほど、何故か自分は世の中や人間一般の本質を見抜く能力を持っており言葉のセンスが優れていると思っているのか、ドヤ顔で「名言」を言いたがる傾向がある。以下は僕が実際に聞いたものの一つだが、ある時自分の部署の管理職に、「噂話というのはね、いずれ本人に伝わるのだよ」とかいう有り難い「名言」を賜った。この管理職のオッサンがこの言葉で何を言いたかったのかはさっぱり分からない。噂話は本人に伝わるから控えろと言ってるつもりなのかは知らないけど、こっちは別に伝わってもいいからわざわざ口にしているのだ。会社の人間関係が陰湿な伝言ゲームで成り立っていると言いたいのかも知れないが、それなら自分は管理職としてその陰湿な人間関係を放置している無能だと公言したいのかも知れない。いずれにせよこの手の「発言することに何の意味もない『名言』」を語りたがる人というのが昨今とても増えたような気がする。ブログでも匿名掲示板でも言いたいことを好きなだけ言えるこの時代に、わざわざ現実の人間関係に影響する場でそういった発言をする残念な輩がそこかしこに存在する。

 

 最近では政治家の語彙力の貧困化も激しい。「勝負の3週間」とか「神のみぞ知る」とか「社会革命は確実に起きた」とか、どこの中学生の妄言だろうと疑うが、これらは紛れもなく日本の政治家達の語録であり、こんな小学生並みの語彙力の連中が国民を主導し、その生活を弄んで下らない思いつきを垂れ流して人を不快にさせ迷惑をかけることで悦に浸っているのである。語彙力が貧困な政治家は、政策の質も貧困だ。

 

 ツイッターで「バズる」とされている名言も、薄っぺらいものが沢山ある。「〜な人は〜だ。でも実はそれって〜なんだよね」とか何とか。この構文に合わせて出鱈目に単語を入れても「バズり」そうだ。たかだか140字程度でロクな解説もつけずに、適当にテレビやネットから拾ってきた言葉をつぎはぎに繋ぎ合わせて名言「っぽく」したものに共感を殺到させる本を読まない人達が、何と沢山世に溢れていることだろう。その「名言」を読んだ所で、彼等は少しも賢くなることもなければ、道徳的になることもない。貧困な語彙力を少しでもマシにすることもなければ、長文を読むことに対する忍耐力を少しでもつけられる訳でもない。

 

 テレビやネットが語彙力の源泉の人達は、物の考え方や生き方についてもそうで、テレビやネットという「世間」に迎合することで所属と承認の欲求を満たして快楽を感じ、それが生き甲斐になる。しかし、人は何十億と世界にあふれていて、物の考え方や言葉の多様性もそれと同じくらいあるし、本来はそんな貧困な語彙力に、多くの人達の思想が閉じ込められるべくもないはずなのである。漫画や映画に対する感想にしても、人間一般に対する考察にしても、何億通りと違う感じ方、考え方があるし、それはそれぞれ尊重されるべきものだ。だから人には、豊富な語彙力というものが必要なのである。読書を通じてそれらを培うということは、あらゆる事象に対しての自分なりの思索・表現の手段を沢山持つということなのである。それができると、テレビやネットで行われているような、幼稚な思考などしなくなるはずなのである。

 

 例えば、「あいつはコミュニケーション能力がない」という言葉一つを見ていこう。これも、テレビやツイッターに毒されて語彙力が貧困になった人達が好んで使う表現だが、「コミュニケーション能力」は定性的にも定量的にも評価できないし、そもそも定義がないあやふやな言葉なので、事物を表象する言葉として、非常に稚拙で曖昧なのである。正しく表現するならば、

 

「あいつの話す言葉の語尾が、声が小さくて聞き取り辛い。もう何デシベルだけでいいから、もう少し大きく発声して欲しい。大きな声を出すことに抵抗があるかも知れないが、俺は大きな声を出されても自分が威嚇されたともバカにされたとも感じないし、そんなことで怒ったりはしない。むしろ、声が小さいことで情報が正しく伝わらないことで起きるトラブルから生まれる不利益が、俺にもあいつにも損失をもたらすから大きな声を出して欲しいと思うのだ。もし俺の態度に何か尊大なところがあって、あいつを萎縮させてしまってるなら俺にも非はあることになる。そういった点がないか、第三者が指摘することは可能だろうか」

 

 と、このように考えることができるのがマトモな人間である。これは決して言い過ぎではないし、特別語彙力や思考力が必要とされるような言葉でもない。普通のことを普通に考えていればこのような意見に行きあたるし、このように考えることのできない人間は異常者と思って差し支えない。ところが、こんな単純な考えさえ、テレビとネットで稚拙な世間の思考に自分の生き甲斐を委ねているような人達は組み立てることはできないのだ。そして今日も彼等は、気に食わない人間がいると、「あいつはコミュニケーション能力がない」と言って思考をストップさせ、数の暴力で押さえつけるか、他の陰湿な手段で貶めようとするのだ。

 

 驚くことに、「あいつはコミュニケーション能力がない」などという稚拙な言葉を使う本人は、自分は素晴らしく人間を見ることができて、状況状況に合わせてぴったりの言葉選びができる、最高に優れた言葉のセンスを持ってる、本質を見抜く能力を持った最高の人間だと信じて疑っていない所だ。彼等は自分の言葉選びのセンスが最高で、もうこれ以上勉強する必要などないと思ってるから、ロクに読書することもないし、過去の偉人や宗教の教えもバカにすることで自分がその上に立っていると思っている。彼等は幸福はどこかから誰か運んで持ってきてくれると信じて疑ってないから、虎視眈々とそれを待つことで常に精神が不安的になりイライラしている。だからテレビのコメンテーターは弱い物いじめを助長するような下らないコメントを垂れ流すし、ツイッターでは幼稚な承認欲求を抱えた哀れな人達が、今日もどこかで何かを一生懸命に作る人達を稚拙な語彙力で叩いて炎上させたりする。

 

 「名言」を言いたいなら、少なくとも毎日何かしらの長文を読む習慣をつけないといけない。本を読むのが時間的に難しければブログでもいい。「itスペシャリストが語る芸術」というブログがおすすめだ。過去の記事にも素晴らしいものが多いし、本当の意味で、人間の本質を見抜いている。何より筆者のkayさんは読書家で、いい本も沢山紹介されてるので、とても勉強になる。

 

 読書しない奴は、人に偉そうに何かを語ってはいけない。語るにしても、日記やブログや匿名掲示板で留めるべきである。しかし、会社やツイッターといった非匿名の現実世界でこそ、下らない「名言」を吐いて恥を晒す人間が尽きない一方で、kayさんのように、匿名のブログで本当の意味での名言を沢山残す人がいるというのは、何とも皮肉なものである。とはいえこれも、必然なのだろうけど。

 

みんな読書すらしない癖にマウントを取るのに必死すぎる

 駅のホームとかでポケットに手を突っ込んで歩き、わざわざ転落する危険性を増やしてまで格好つける人が昨今とても増えた気がする。誰に何をアピールしてるのか通学途中の女子高生や女子大生やOLからの逆ナン待ちなのか何なのか知らないが、そこまで必死に格好つけなくてもいいのにと思う。そして一人で線路に転落してくれるならまだしも、ポケットに手を突っ込んでると転んだ時に他人を巻き込んで線路に転落する可能性が高い。本人が死ぬのはまだしも、他人を巻き込んで殺す可能性をわざわざ上げてるのだから完全に異常者である。駅の狭いホームや人の多い階段でポケットに手を突っ込んで歩いてるバカがいたら、人殺しがかっこつけて歩いてると思って距離をおこう。彼等は見計ったかのようにバランスを崩し、タイミングよくあなたを線路に突き落とすことを虎視眈々と狙ってるのと何ら変わらない。

 

 会社のおばさんが未婚の男性の人間性についてあれこれ語って偉そうにしていたが、当のおばさんは低学歴で特に仕事ができる訳でもとりわけ親切という訳でも何か芸術の素晴らしい才能がある訳でもクックパッドに伝説のレシピを投稿してる訳でもない、ただの薄汚いほうれい線の醜いおばさんである。そんなおばさんでもおおっぴらに人間一般について評論し、自分は何か素晴らしく本質を見抜く能力がある特別な人間だと思ってるらしい。せめて読書くらいしてから人間論を語ってくれないだろうか。字が読めないのか。時間がないのか。職場で人の悪口言う時間を読書に充てろ。醜さが幾分マシになって、チンパンジー並みの語彙力が少しはマシになって一石二鳥だ。喋るな。読書しろ。

 

 低学歴だろうと無資格の凡人だろうと、全く読書しない何も芸術的才能のない人間だろうと、誰も彼もが自分は特別な「本質を見抜く力」があると思っており、貧困な語彙力であらん限りのポエムを、職場や教壇など、皆あらゆる場所でかっこよく披露する。それがこんな風に、ネット上のブログならまだしも、職場というのは半公共の場なので、何の取り柄もない凡人が世界や社会や人間について偉そうに語るのを聞かされると日々耳が腐りそうになる。自分が長く職場にいたということで、おばさんは何か自分が後輩よりも世界の真理を深く知っているものと思っているらしい。こういうおばさんを見ていると、一つの職場に長居するということはやはりリスクでしかない。忍耐云々とかいうこと以前に、単純にバカになるのだ。長くいただけで自分が偉くなったと勘違いするようになる。そうならないためにも、機会があれば出来るだけ頻繁に職場を変える方が、ボケ防止にはいいのかも知れない。どんなに親切そうな人でも、3年も同じ職場にいれば腐って噂好きの陰湿な性格になる。それは言ってみれば3年放置されたバナナのようなものだ。腐ってカビが生えて腐臭を放つ。同じ職場には3年はいた方がいいというのがいるが、それはバカになるまで転職するなと言ってるのだろうか。

 

 で、ボケ防止の目的もあって僕は普段からできるだけ本を読むようにしてるのだが、自分を地頭がいいと思ってる低学歴の人達はこれがまあ本を読まないのだ。自分が知ってること、知ってる世界が全てで、自分が知らないこと、学ぶべきことがあるということを認めない連中だ。自分が知らないことはないと思ってるから、いつまで経っても成長しない。同じことを考え続けるしかできない。そんな人間は、感情のマネジメントもやはり下手だ。同じような感情を不埒な心の赴くままに野放しに活動させ、自分のしょうもない感情に何か崇高性があるかのように、他者に八つ当たりをして垂れ流す。分かりやすい例でいうとフェミニストだ。連中は低学歴で勉強しない。理系科目をやってきてないから論理的に考えることができない。ただヒステリックに喚くことが勉強だと本気で思っている。そんなバカでも殺されずに生きていける日本は平和だ。でも有事になれば、フェミニストみたいなバカは真っ先に死んでいくだろう。恐竜映画で最初に食われるのは鼻息の荒い感情的なバカである。状況を冷静に分析して、最後まで学び続ける態度でいると死なない。つまり読書しない人間は死ぬということである。読書しよう。

 

日本人は仕事しない癖に失敗を許さない

 

 要するにそれって、仕事するのを許さないということなのだろうか。よくこんな国民性で経済大国になれたものだと思うが、それほど承認欲求が強かったということか。しかし、経済がグローバル化するとやはり価値のあるものを生み出せる企業が強い。農作物にしろ、電子機器にしろ。ガラパゴスなノリで承認欲求だけをモチベーションに仕事してるフリを続けても、そんなもの輸出できるものではないから、外国人からしたら何それ美味しいのという感じである。

 

 どこの会社にもコンプライアンスとか何とか委員会とかハラスメントとかでうるさく騒ぐ人はいる。そんな人は弱いものいじめは平気で見て見ぬフリをするか加担するような人が多いのだが、それはさておき、そうした連中の失敗に対する怯えようと言ったらない。常にビクビクして必死でサボる理由を探している。「自分の仕事」というものを持たないから、他人に口出しすることや人事で遊ぶことや人を見張ることで承認欲求を満たしている。失敗しない仕事だ。文句を言いだけなのだから。だが、コンプライアンス違反というのはコンプライアンスの問題ではない。単純に、やる気の問題である。やる気があれば多少のコンプライアンス違反が起きてもカバーできる。誤魔化しが起きるのは、上にやる気がなく、失敗を報告したら怒られるからである。やる気があれば怒らない。次にどうするかを考え指示するのが上の仕事だから。だからコンプライアンスがどうこう騒ぐのはその時点で既にやる気がない。やる気がないから問題になるし、やる気がないから他人にケチばかりつける。やる気がある人は常に自分で自分にケチをつけている。

 

 とにかく日本人は仕事をしない。勉強もしない。サッカーも弱い。人間関係も低劣だ。結婚も恋愛も殆ど世間体のためにしてるようなものだ。とかくあらゆることに無気力でやる気がないと言っていい。騒いでうるさい癖に中身はない。朝早く会社に来て夜遅く帰る癖に仕事は何もしていない。ただ大声を出したり大袈裟に体を動かしたり大層な雰囲気で会議をしたり大変見辛いごちゃごちゃしたパワーポイントのスライドを作って遊ぶくらいである。全部、やる気のなさの表れである。せめて読書くらいしろ、生き方に必死さが足りない。

 

 

試行錯誤の大切さと日本人の人任せレール人生について

 

 そこから更に日本の学校教育まで考えを整理する。試行錯誤というのは思考のトライアルアンドエラーの繰り返しで、アイデアを色々現実の問題や仕事に試して、失敗を繰り返しても何度も挑戦し続ける態度のことである。それは、転んでもゴールに向かって走り続けるような青臭いプロセスで、痛みや苦痛は伴うものの、後で振り返ってみればとてと楽しいものだ。学校の勉強や部活動もそんな風に沢山のトライアルアンドエラーができればいいのだが、学校の勉強で大事なのは何より「学校の先生の言うこと」を聞くことで、勉強の仕方一つや勉強のペースについての考えもまるで、一人の頭の悪い教師の単なる思い込みが普遍の真理であるかのように教えられ、脅される。

 

「学校の授業を大切にしない奴は落ちる」

「自分流のやり方でやる奴は自滅する」

「授業をしっかり聞いてれば受かる」

 

 自称進学校に限らず、上記のような有難い「教え」を説く素晴らしい学校教師は沢山いる。そして教科書をノートに写せとか予習をしろとか細かくネチネチと勉強のやり方まで強制してくるのである。別に、落ちて自滅してもいいから、勉強は、自分のペースで好きなように、好きなやり方でやるのが1番いい。そうすると、勉強に限らず、人生のあらゆる局面で、他人に何を言われようとも、自分を見失わない習慣がつく。自分のペースでこなし、自分の頭で考えるから無理がない。無理がないから、無理なく続けることができる。人に勉強のやり方を強制するような学校は、大抵の場合、生き方まで強制してくる。それも、虎視眈々と女子生徒を狙うことしか頭にない恥ずべき生き方しかできない教師が、だ。

 

 部活動にしてもそうだ。日本の学校では、一つの部活に所属したら、辞めると白い目で見られるから、受験の年まで辞めることはできない。サッカー部を途中で辞めて漫画部にでも入ろうものなら、クラス中から白い目で見られることになるだろう。もちろん、運動部を続けることでメリットもあるだろう。クラス内でのカーストが上がるし、異性にはモテやすくなるし、就活にも結婚にも、スポーツ経験は有利に働く。でも、そのために一つのコミュニティに自分を縛り続けるのは、人間として無理がある。無理があるから、運動は内外で陰湿ないじめと常に切っても切れない関係にある。失敗を恐れる精神が基本にあるので、常に不安に苛まれている。だから、部活を途中で辞めた人間は、ヒステリックに叩かれる。

 

 同じようなことは社会に出てからも行われる。電車で刃物を持って暴れる「レールから外れた人」を見ると、待ってましたと言わんばかりに好奇の目で犯人を話題にし、レールに乗っているが故に退屈な自分達の人生に「非日常感」というスパイスを加えてじっくりと味わう。スタンガンを携帯して歩くという小学生のような妄想をして楽しむ人や、ジョーカーが電車内で人を刺している時に、かっこよく美女を守る妄想をする人など、楽しみ方は様々だ。いずれにせよ、悪趣味なのに代わりはないが。だが、普段から失敗を恐れてビクビク生きているが故に、そんなチンケな楽しみしか持たないのである。

 

 仕事の仕方にしても、日本の会社は異様なほど試行錯誤を許さない。その癖、実現不可能な思いつきの要求だけは、子供のようにし続ける。失敗を許さないのと、試行錯誤を許さないというのはニュアンスが微妙に異なってくる。しかし、真の悪弊は、試行錯誤を許さないことである。失敗を許さないというのは一回きりのことに思えて、逆に「何度も失敗することは許さない」というニュアンスに取れる。要するに、「何度も失敗してそれでも繰り返すというみっともない姿は許さない」ということだ。要するに、おしゃれでかっこいい努力をしろと言っているのだろうか。

 

 体育の時間に運動が苦手な人がうまくボールを蹴れないでいるとキレるサッカー部がいるが、だから日本のサッカーは弱いのだろう。練習の段階で何回も失敗することをかっこ悪いこととか何かダサいことだと思って「オシャレに」練習ばかりしてるから、国際舞台で失敗するのである。外国のとある有名なサッカー選手が、「日本人は弱い癖にかっこばかりつける」と評していたのも納得だ。そしてそれは、サッカーばかりではなく、仕事や人間関係でも同じなのである。

 

 特に女性が社会進出してきてからか、職場では「ダサい努力」が蔑視されるようになった。汗水垂らして失敗しても何回も必死に取り組む姿は、どうやら見苦しいものとみなされ、嘲笑の対象になるらしい。逆に、人に仕事を押しつけて涼しい顔をしていたり、大した仕事をしていないのに声だけ大きくしたりすることが「仕事ができる」と見做されるようになった。要するに、見た目の派手さやオシャレさ、雰囲気だけを最優先して評価するようになった女性が社会進出して影響力を持つようになった分、そういうダサい努力をする人がいなくなり、人に仕事を丸投げしたり、外注したり中抜きしたりするようなやり方が流行るようになった。技術者は軽視され、代わりに社内政治で強い影響力を持つ「イケてる」人が好待遇を得るようになった。その結果、失敗する姿を見られることを恐れる人達ばかりになり、何回も失敗する「試行錯誤」をする人がいなくなり、日本経済から「いいモノづくり」が消え失せてしまった。

 

 人間関係にしても同じである。人間誰しも欠点があり、それでも互いに持ついい所をどうやって高め合うかが大切であるのに、「陰キャ」や「チー牛」といった言葉で人の差別心を煽り、人間関係に関しても初めから「オシャレ」で「イケてる」「陽キャ」な人でないといけないかのような風潮が広まった。また、女性にしても、「こういう男はモテない」「こういう男は無理」だの何だのもっともらしい適当な理屈をこねて、この世には「オシャレ」で「イケてる」「陽キャ」な男が溢れているべきで、そうでない男は差別されて淘汰されてしかるべきだという、男の「失敗」を許さない風潮を作り上げた。

 

 だが、勉強にしろ部活にしろ仕事にしろ人間関係にしろ、「試行錯誤をしない」ということは、「向き合ってない」ことと同義なのである。勉強のやり方を教師に言われるがままにする人は勉強の楽しさを知ることがないし、部活動を自分の好きに辞めることもできない人は狭いコミュニティに閉じ込められる。仕事において試行錯誤をする機会のない人は毎日を死んだように生きるしかないし、そんな人の楽しみや生きがいになると自分より立場の弱い人にパワハラやセクハラをしてスリルを味わうくらいしかなくなる。完成された男としか付き合いたくないという女性は勿論、恋愛や結婚における様々なチャンスを失うことになるだろう。

 

 試行錯誤をしない人は問題と向き合っていない。何故問題と向き合わないのかというとやる気がないからだ。つまりレールの上を走り続けることを目標にしている日本人は、勉強にしろ部活にしろ仕事にしろ人間関係にしろあらゆることにやる気がないのである。実際彼等は、学校を卒業したらもう自分で勉強することはない。哲学や自然科学を興味を持って自分で本を買って勉強することもないし、日本のサッカー選手は引退したら社会人サッカーをするのではなくゴルフをするかバラエティ番組にでも出演して承認欲求を満たす。部活動の上に地域スポーツに参加すれば強くなれるのにそれはしない。何故なら学校内の人間関係の内でしかスポーツをする意味がないから。仕事においてもあるゆるやり方を試してみようとはしない。だって面倒臭いから。思いつくのは他人の悪口か部下に押し付ける不要な仕事ばかり、そうでなければどうやってお気に入りの新入女子社員にアピールするか。恋愛・結婚のパートナーはクラスや職場内のコミュニティでカーストの高い男。そうすれば恋愛にも結婚にも「失敗」しない。教科書に載るような「幸せな」人生を楽しむことができる。旅行やグルメみたいな試行錯誤の余地のない「与えられた」娯楽があれば、自分の人生は充分に幸せある。

 

 上記のような歪んだ考えの人達がいて、彼等があまりに必死に自分のレールにしがみついているが故に、電車にジョーカーみたいなのが現れてしまう。あれが彼なりの試行錯誤の一つだったのかも知らないが、レールにしがみつく異常者達に毒された結果、あんなことをしてしまったのだろう。

 

 余談だが、「発達障害」という概念も、レールの人生観から生じた歪んだ差別用語である。「人は人間関係をスムーズにこなさないといけない」「おしゃれなコミュニケーションをしないといけない」「人前で楽しくおしゃべりしたり騒がしく振る舞えないのは正常に発達してない証に他ならない」などなど…全くここまで歪んだ思考がどうやったら育つのだろう。モノづくりがここまで衰退しても尚、コミュニケーション能力神話というのは根強い。多分、その根幹は、会社の上司や学校教師が、「イケてる男なら、自分に可愛い女子高生や新入社員女子を斡旋してくれるかも知れない」という気色悪い期待である。だから、人望のないおっさんはリア充DQNに媚びに媚びる。現在僕がたまたま所属してる会社では社長がそのタイプである。恐ろしく曖昧な指示しか出せない癖に、恐ろしく承認欲求と性欲は強い。だから、試行錯誤を繰り返す「ダサい」社員を嫌う。しかし、頭の良さも見識の深さも、試行錯誤を繰り返すことでしか得られない。パフォーマンスでは、人は決して成長しない。レールに乗ったバカのまま生き、バカのまま死ぬことになる。地獄に真っ直ぐ繋がっている連中がどうなるか、僕の知ったことではない。悪事はそれ自体の中に罰を含むものであるから。

 

 

 

子供への過干渉は、世間に対する過度の承認欲求から生じる

 

 毒親というのは子供が憎いとか子供に関心があるとかとは真逆で、子供には無関心だが、自分が世間とか職場の人にどう見られてるかということを、とても気にしていつもやきもきした気持ちで落ち着かずに生きている人達だ。いや、もっというなら、自分は世間や職場の人によく見られる「べき」で、チヤホヤされる「べき」だと考えている人達だ。だから、子供の行動に逐一干渉してくる。それは自分が世間や他人から、どう思われてるかをとても気にして生きているからだ。子供の行動を把握することで、少しでもその不安を軽減しようとする。それは、他人の行動を覗き見ることで、何か安心感が得られると勘違いしているバカの考えることなのだが。いくら子供の行動が把握できたところで、親自身の精神が思春期特有の自意識過剰精神をもった女子中学生のままでは、不安など収まるべくもない。もっというと、彼等が不安になるのは、よく見られたいという余計な欲望を持っているからなのだが。まあ要するに、子供の行動がいちいち気になるのは、自分の行動が他人にどう思われているのかをいちいち気にしているからなのだ。誰も関心がないというのに、愚かな彼等は自分がとても注目されていると思っているのだろう。

 

 大半の日本人は職場でマトモに仕事していないのによろしく、所謂毒親と呼ばれる人達は専業主婦主夫であるを問わず、仕事というものをしたことがない人達だ。正しい仕事とは試行錯誤で、それは絶え間ない自己の観察であり自己認識である。つまり、自分自身に集中しないと本来マトモな仕事はできないのである。自分こそが仕事をする上でもっともよきパートナーにならなければならず、それは人生におけるあらゆる試練について言えることである。

 

 ところが、毒親と言われる人達は強い承認欲求故に自分自身から目を背け、自分が惨めで不安な気分になる責任を全て子供にぶつけてきた人達だ。こんな連中は、結婚することも子供を産むこともなく独身で静かに暮らしている方が、よほど世界にとってはよい生き方だっただろう。自分がチヤホヤされるためだったら、人間というのは大抵の醜いことができるが、毒親と呼ばれる人達はそれをとてもよく教えてくれる。彼等がどれだけの金銭欲を、名誉欲を持っていることか。どれだけ強い性に関するコンプレックスをいい歳になっても抱いていることか。自分がどれだけチヤホヤされるべきで、素晴らしい見識を持ってる人間だと思い込んでいることか。どれだけ有名になる権利があると思っていることか。

 

 かの、子供をめった刺しにしたという事務次官も、強い強い名誉欲を持っていたし、自分が世間にどう思われるかを逐一気にする人間だったのだろう。だから、子供のやることなすことを一々否定して、無気力状態に陥らせ、最後には殺すことで、自分の世間に対する承認欲求を最大限に満たすことに成功した。「やむを得ず子供を殺した悲劇のヒーロー」を演じることはそんな人間にとってどれだけ心地いいことだったろう。自分の事件に関する報道を目にする度に、どれだけ彼の承認欲求が満たされただろう。だが、そんな歪んだ承認欲求は結局のところすぐに飽きを感じ、次から次へと不満のタネを見つけてはすぐにまた不機嫌になるのだ。承認欲求とは、穴のあいたバケツで、いくら他人から関心を貰おうと、心という容器に強欲という穴が空いているのだから、満たされるべくもない。彼は仮に捕まることがなくとも、充分に惨めだっただろう。なんせ、長く生きていても自分自身の友になることは出来ず、世間のみんなにお友達として認めて欲しいのだろうから。

 

 毒親とは、子供をいたぶることで、世間の「ダチ」になりたがっている人達のことである。ちょうど、学校で友達ができずに焦っている思春期の中学生が、誰かの悪口を言ったりいじめを通して結託するように。だが、自分自身を友達にすることが出来ない人などと、本当は誰も友達になりたいとは思わないのである。

創造は全て、試行錯誤から生まれる

f:id:potemalu02:20211024102754p:image

 

 だから、失敗つまりは試行錯誤を許さない日本の教育からは、ロクな人材が育たないのである。暗記もうまくすれば試行錯誤の対象になるのだが、やたら暗記量ばかり増えてしまった昨今の大学受験では最早そうもいかない。ましてや、コミュニケーション能力や部活動の経験なんぞが重視されるようになったら尚更だろう。子供達は常に値踏みされてるような窮屈な気持ちになるし、部活をやめて家でじっくり本を読んだりアニメを観たりする人生は全て否定するということである。間違いなく、いじめも増えるだろう。全く、大学の教育関係者すら自分たちに「忖度」してくれるコミュニケーション能力の高い学生を好むようになったということか。中高大と学生は試行錯誤を許されず、ひたすら教師・教授に「忖度」してその自慰行為のような授業を礼賛することを求められるということだ。学校とは国家公認の風俗店のようなものだ。学生は貴重な時間を使って教師の自慰行為の手伝いをさせられるのである。

 

 そうして学生の試行錯誤を否定し、自分の下劣な自慰行為に付き合わせる理由は何かと言うと、言うまでもなく快楽という贅沢のためだ。本当は、教師なら色々な分野を勉強したり色々な勉強法を考えたりと忙しいはずなのだが、全国の教師はさそがし暇なのだろうと思う。暇を持て余してる癖に快楽追求の欲求だけは人一倍で、自分のデタラメな思いつき授業(思いつきと試行錯誤は正反対のもの)を出まかせに垂れ流し、それを生徒に礼賛させることに何よりの生き甲斐を感じ、こんな素晴らしい授業をする自分には、美しい女子生徒があてがわれるべきだと考えるようになり、教師にあるまじき行為に簡単に手を染めるようになる。

 

 要するに、自分の怠慢で惰弱な精神のために、生徒の創造的な生き方を全て否定しているのである。まるで、それを否定することで代わりに自分の人生が創造的になったとでも考えているかのようだ。だが、相変わらず彼の語る言葉は同じで、毎年同じ内容を、同じようにわかりにくく、同じように汚い字で、同じように下劣な表情で述べているのである。このように存在自体が猥褻な教師を見て育った学生は、同じように猥褻な人間に育つ。即ち試行錯誤の癖もついていないのに快楽追求と自己顕示欲だけは異常に肥大し、自分が少しでもマウントを取れる人間を虎視眈々と探して、彼をいじめ抜くことで虚しい快楽を感じ、自分が何かレベルアップをしたと思い込むのである。

 

 しかし、試行錯誤が出来ない人間に、創造することはできない。創造とは、絶え間なく自分と向き合うことでしか行われない。植物が育つのは、自分自身の根や幹にしっかり根ざして、着実に丁寧に枝葉を伸ばすからである。(接ぎ木はおいておいて)どの植物も他人の幹をいちいち気にしてたり干渉したりしない。自分自身に立脚し、自分を基盤として成長する。人間も同じで、まずは自分自身に親しむことでしか、健全な成長や創造は得られないのである。試行錯誤とは、絶え間なく自分の思いを確認する瞑想行為である。自分自身に意識を集中して、自己観察する訓練である。だから、こうした経験がしっかりあって自己観察の癖がついている人は安定した創造活動を行うことができる。自分自身を安定して制御することができるからだ。そんな人は、弱いものいじめをする必要も、仕事を誰かに丸投げする必要もない。そんな風に誰かに頼らなければ自分の心を満足させることができない生き方は、創造性を欠いた惨めな人生だ。

 

 神はこの世界を創造されたが、同じように人間も創造することで、神に近づくことが出来る。即ち試行錯誤とは祈りのプロセスであり、自分の心の中に天国を近づけるための手段だ。それを放棄して他者に丸投げするような人間は、自分の心の中に地獄を建設してるようなものである。そんな人間の魂は、生きている間も死んでからも、何者にもなれない空っぽな存在なのである。

 

 

日本人が真面目なのは快楽主義だから

 

 まあそれを真面目と呼ぶのかどうかはさておき、何故殆どの日本人が学校では真面目に授業を聞き会社では真面目にバカな上司の指示を聞いて意味もない仕事に精を出しているのかというと、何より「快楽」というご褒美があるからだ。それは、所属と承認の欲求が生み出すチンケなものだが、そんなチンケな快楽でも、道徳や勤勉さを投げ捨ててまで価値があるものと考えているらしい。

 

 そんな「真面目」な人達は常に学校の先生や世間や上司の言うことを絶対視してそれに従って生きてきたので、自分の頭で、精神でモノを考えるということができなくなっている。仕事でも勉強でもスポーツでも、試行錯誤を通して自分を鍛える行為は何よりも楽しいことであるはずなのに、ちっぽけな承認欲求のために自分の全てを犠牲にして精神をすり減らして、快楽を追求するのがスタンダードな日本人の生き方なのである。

 

 レールから逸れないように必死なのも、快楽を追求し続けているからに過ぎない。本当の実力というのは、レールから逸れないための力ではなく、レールから逸れても自分を卑下したりしないことであるはずなのに。だから彼等はレールから逸れた人間を嘲笑し、自分が辛うじてレールを走り続けていることに安堵し、快楽を感じる。そして、いざレールから逸れるようなことがあれば、呆然自失して何もかも失ったような気持ちになるのだ。

 

 魂が安定していれば、人生においてレールがどうだのは気にならないはずだ。そして魂は、あらゆる試行錯誤をする癖をつけることで鍛えられる。仕事にしろ勉強にしろ芸術にしろ、その材料は至る所に転がっている。こうしてブログで試行錯誤して色々考えながら書くこともそうだ。思考が整理されるし、精神が鍛えられるし、実際に気分も良くなってくる。自分より立場の弱い人に精神の重荷を押し付けることでしか自分の心を軽くできない惨めな人間よりも、はるかに「健常」な精神を持っていると言っていい。まったく、小学生でさえ自由帳をもってそこに自分のアイデアを書き連ねることでいい生き方をしてるのに、ネットもSNSも無料掲示板もこれだけ発達した時代に、身近な人間関係に依存してしかも弱いものいじめをしなければ精神の安定を保てないというのは、どれだけ惨めなことなのだろう。その惨めさを快楽で必死で誤魔化そうとするのが日本人の真面目さの正体であり、それは本質的には怠惰で怠慢で無責任で日和見主義であるのと何ら変わらない。そんな軟弱な精神は他人の動向をいちいち気にしてビクビクしながら生きるので、自ずとしょうもない噂話に夢中になり、ますます自分の精神を忘れて惨めになっていく。井戸端会議で他人の噂話ばかりしているおばさんがなぜ醜いのかというと、自分の人生を生きていない無責任な存在だからである。

 

 所属と承認の欲求から生まれる快楽は、人をここまでダメにしてしまう。彼等は所属するコミュニティのために高潔に働くこともなければ、コミュニティ内の弱者を助けるために勇敢に働くこともない。いかにして楽に所属コミュニティから所属と承認の欲求を得られるかにやきもきし、コミュニティ内で弱者がいればそれをかっこよく打ちのめすことで同コミュニティ内で英雄視されることを望み、実際にそんな承認欲求からパワハラを行っている人間は数えきれないくらい存在するだろう。パワハラは全て快楽を目的として行われる。だが、必要もない快楽は全て単なる贅沢であり、自然はきっちりと試行錯誤を行う人間には、自分に満足するという自然な快楽を既に与えているのである。それを放棄して、したり顔で真面目な顔して職場で遊んでおしゃべりして弱いものいじめに外注丸投げ中抜きに勤しむ日本人は、エピクロスもびっくりの快楽至上主義者達なのである。