徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

語彙力が貧困な人ほど「名言」を言いたがる不思議

 ネットでもテレビのニュースでも現実の職場でもそうだけど、ロクに読書もしない、語彙力が貧困でついでに頭も悪い人ほど、何故か自分は世の中や人間一般の本質を見抜く能力を持っており言葉のセンスが優れていると思っているのか、ドヤ顔で「名言」を言いたがる傾向がある。以下は僕が実際に聞いたものの一つだが、ある時自分の部署の管理職に、「噂話というのはね、いずれ本人に伝わるのだよ」とかいう有り難い「名言」を賜った。この管理職のオッサンがこの言葉で何を言いたかったのかはさっぱり分からない。噂話は本人に伝わるから控えろと言ってるつもりなのかは知らないけど、こっちは別に伝わってもいいからわざわざ口にしているのだ。会社の人間関係が陰湿な伝言ゲームで成り立っていると言いたいのかも知れないが、それなら自分は管理職としてその陰湿な人間関係を放置している無能だと公言したいのかも知れない。いずれにせよこの手の「発言することに何の意味もない『名言』」を語りたがる人というのが昨今とても増えたような気がする。ブログでも匿名掲示板でも言いたいことを好きなだけ言えるこの時代に、わざわざ現実の人間関係に影響する場でそういった発言をする残念な輩がそこかしこに存在する。

 

 最近では政治家の語彙力の貧困化も激しい。「勝負の3週間」とか「神のみぞ知る」とか「社会革命は確実に起きた」とか、どこの中学生の妄言だろうと疑うが、これらは紛れもなく日本の政治家達の語録であり、こんな小学生並みの語彙力の連中が国民を主導し、その生活を弄んで下らない思いつきを垂れ流して人を不快にさせ迷惑をかけることで悦に浸っているのである。語彙力が貧困な政治家は、政策の質も貧困だ。

 

 ツイッターで「バズる」とされている名言も、薄っぺらいものが沢山ある。「〜な人は〜だ。でも実はそれって〜なんだよね」とか何とか。この構文に合わせて出鱈目に単語を入れても「バズり」そうだ。たかだか140字程度でロクな解説もつけずに、適当にテレビやネットから拾ってきた言葉をつぎはぎに繋ぎ合わせて名言「っぽく」したものに共感を殺到させる本を読まない人達が、何と沢山世に溢れていることだろう。その「名言」を読んだ所で、彼等は少しも賢くなることもなければ、道徳的になることもない。貧困な語彙力を少しでもマシにすることもなければ、長文を読むことに対する忍耐力を少しでもつけられる訳でもない。

 

 テレビやネットが語彙力の源泉の人達は、物の考え方や生き方についてもそうで、テレビやネットという「世間」に迎合することで所属と承認の欲求を満たして快楽を感じ、それが生き甲斐になる。しかし、人は何十億と世界にあふれていて、物の考え方や言葉の多様性もそれと同じくらいあるし、本来はそんな貧困な語彙力に、多くの人達の思想が閉じ込められるべくもないはずなのである。漫画や映画に対する感想にしても、人間一般に対する考察にしても、何億通りと違う感じ方、考え方があるし、それはそれぞれ尊重されるべきものだ。だから人には、豊富な語彙力というものが必要なのである。読書を通じてそれらを培うということは、あらゆる事象に対しての自分なりの思索・表現の手段を沢山持つということなのである。それができると、テレビやネットで行われているような、幼稚な思考などしなくなるはずなのである。

 

 例えば、「あいつはコミュニケーション能力がない」という言葉一つを見ていこう。これも、テレビやツイッターに毒されて語彙力が貧困になった人達が好んで使う表現だが、「コミュニケーション能力」は定性的にも定量的にも評価できないし、そもそも定義がないあやふやな言葉なので、事物を表象する言葉として、非常に稚拙で曖昧なのである。正しく表現するならば、

 

「あいつの話す言葉の語尾が、声が小さくて聞き取り辛い。もう何デシベルだけでいいから、もう少し大きく発声して欲しい。大きな声を出すことに抵抗があるかも知れないが、俺は大きな声を出されても自分が威嚇されたともバカにされたとも感じないし、そんなことで怒ったりはしない。むしろ、声が小さいことで情報が正しく伝わらないことで起きるトラブルから生まれる不利益が、俺にもあいつにも損失をもたらすから大きな声を出して欲しいと思うのだ。もし俺の態度に何か尊大なところがあって、あいつを萎縮させてしまってるなら俺にも非はあることになる。そういった点がないか、第三者が指摘することは可能だろうか」

 

 と、このように考えることができるのがマトモな人間である。これは決して言い過ぎではないし、特別語彙力や思考力が必要とされるような言葉でもない。普通のことを普通に考えていればこのような意見に行きあたるし、このように考えることのできない人間は異常者と思って差し支えない。ところが、こんな単純な考えさえ、テレビとネットで稚拙な世間の思考に自分の生き甲斐を委ねているような人達は組み立てることはできないのだ。そして今日も彼等は、気に食わない人間がいると、「あいつはコミュニケーション能力がない」と言って思考をストップさせ、数の暴力で押さえつけるか、他の陰湿な手段で貶めようとするのだ。

 

 驚くことに、「あいつはコミュニケーション能力がない」などという稚拙な言葉を使う本人は、自分は素晴らしく人間を見ることができて、状況状況に合わせてぴったりの言葉選びができる、最高に優れた言葉のセンスを持ってる、本質を見抜く能力を持った最高の人間だと信じて疑っていない所だ。彼等は自分の言葉選びのセンスが最高で、もうこれ以上勉強する必要などないと思ってるから、ロクに読書することもないし、過去の偉人や宗教の教えもバカにすることで自分がその上に立っていると思っている。彼等は幸福はどこかから誰か運んで持ってきてくれると信じて疑ってないから、虎視眈々とそれを待つことで常に精神が不安的になりイライラしている。だからテレビのコメンテーターは弱い物いじめを助長するような下らないコメントを垂れ流すし、ツイッターでは幼稚な承認欲求を抱えた哀れな人達が、今日もどこかで何かを一生懸命に作る人達を稚拙な語彙力で叩いて炎上させたりする。

 

 「名言」を言いたいなら、少なくとも毎日何かしらの長文を読む習慣をつけないといけない。本を読むのが時間的に難しければブログでもいい。「itスペシャリストが語る芸術」というブログがおすすめだ。過去の記事にも素晴らしいものが多いし、本当の意味で、人間の本質を見抜いている。何より筆者のkayさんは読書家で、いい本も沢山紹介されてるので、とても勉強になる。

 

 読書しない奴は、人に偉そうに何かを語ってはいけない。語るにしても、日記やブログや匿名掲示板で留めるべきである。しかし、会社やツイッターといった非匿名の現実世界でこそ、下らない「名言」を吐いて恥を晒す人間が尽きない一方で、kayさんのように、匿名のブログで本当の意味での名言を沢山残す人がいるというのは、何とも皮肉なものである。とはいえこれも、必然なのだろうけど。