徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

創造は全て、試行錯誤から生まれる

f:id:potemalu02:20211024102754p:image

 

 だから、失敗つまりは試行錯誤を許さない日本の教育からは、ロクな人材が育たないのである。暗記もうまくすれば試行錯誤の対象になるのだが、やたら暗記量ばかり増えてしまった昨今の大学受験では最早そうもいかない。ましてや、コミュニケーション能力や部活動の経験なんぞが重視されるようになったら尚更だろう。子供達は常に値踏みされてるような窮屈な気持ちになるし、部活をやめて家でじっくり本を読んだりアニメを観たりする人生は全て否定するということである。間違いなく、いじめも増えるだろう。全く、大学の教育関係者すら自分たちに「忖度」してくれるコミュニケーション能力の高い学生を好むようになったということか。中高大と学生は試行錯誤を許されず、ひたすら教師・教授に「忖度」してその自慰行為のような授業を礼賛することを求められるということだ。学校とは国家公認の風俗店のようなものだ。学生は貴重な時間を使って教師の自慰行為の手伝いをさせられるのである。

 

 そうして学生の試行錯誤を否定し、自分の下劣な自慰行為に付き合わせる理由は何かと言うと、言うまでもなく快楽という贅沢のためだ。本当は、教師なら色々な分野を勉強したり色々な勉強法を考えたりと忙しいはずなのだが、全国の教師はさそがし暇なのだろうと思う。暇を持て余してる癖に快楽追求の欲求だけは人一倍で、自分のデタラメな思いつき授業(思いつきと試行錯誤は正反対のもの)を出まかせに垂れ流し、それを生徒に礼賛させることに何よりの生き甲斐を感じ、こんな素晴らしい授業をする自分には、美しい女子生徒があてがわれるべきだと考えるようになり、教師にあるまじき行為に簡単に手を染めるようになる。

 

 要するに、自分の怠慢で惰弱な精神のために、生徒の創造的な生き方を全て否定しているのである。まるで、それを否定することで代わりに自分の人生が創造的になったとでも考えているかのようだ。だが、相変わらず彼の語る言葉は同じで、毎年同じ内容を、同じようにわかりにくく、同じように汚い字で、同じように下劣な表情で述べているのである。このように存在自体が猥褻な教師を見て育った学生は、同じように猥褻な人間に育つ。即ち試行錯誤の癖もついていないのに快楽追求と自己顕示欲だけは異常に肥大し、自分が少しでもマウントを取れる人間を虎視眈々と探して、彼をいじめ抜くことで虚しい快楽を感じ、自分が何かレベルアップをしたと思い込むのである。

 

 しかし、試行錯誤が出来ない人間に、創造することはできない。創造とは、絶え間なく自分と向き合うことでしか行われない。植物が育つのは、自分自身の根や幹にしっかり根ざして、着実に丁寧に枝葉を伸ばすからである。(接ぎ木はおいておいて)どの植物も他人の幹をいちいち気にしてたり干渉したりしない。自分自身に立脚し、自分を基盤として成長する。人間も同じで、まずは自分自身に親しむことでしか、健全な成長や創造は得られないのである。試行錯誤とは、絶え間なく自分の思いを確認する瞑想行為である。自分自身に意識を集中して、自己観察する訓練である。だから、こうした経験がしっかりあって自己観察の癖がついている人は安定した創造活動を行うことができる。自分自身を安定して制御することができるからだ。そんな人は、弱いものいじめをする必要も、仕事を誰かに丸投げする必要もない。そんな風に誰かに頼らなければ自分の心を満足させることができない生き方は、創造性を欠いた惨めな人生だ。

 

 神はこの世界を創造されたが、同じように人間も創造することで、神に近づくことが出来る。即ち試行錯誤とは祈りのプロセスであり、自分の心の中に天国を近づけるための手段だ。それを放棄して他者に丸投げするような人間は、自分の心の中に地獄を建設してるようなものである。そんな人間の魂は、生きている間も死んでからも、何者にもなれない空っぽな存在なのである。