徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

過労死の背景には必ずパワハラがある

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 過労から来る心臓疾患からの突然死にしても過労自殺にしても、背景には必ず悪質なパワハラがある。そして多くの場合、過労死するほど働いてる人は職場で陰湿な嫌がらせや叱責、陰口や悪口に晒されていることが多い。また、ぶら下がりワーママの仕事を押し付けられたり、上司がマウントを取るためだけの不必要な仕事を押し付けられたりしてる場合もある。

 

 特定の人に業務を集中させるというのは、本人の時間や考える余裕を奪うことだったり精神的にも肉体的にも「押さえつける(マウンティング)」ことであったり理由は様々だが、簡潔に言うと「いじめ」ということだろう。大人の世界ではこんな風に行われて、子供達がそれを真似して行われるのが学校におけるいじめだ。だから、過労死を防ぐという名目で単に労働時間に制限を設けたり、有給の消化義務を設けたりすることでは、根本的な解決にはならないのである。

 

 とはいえ、いじめというのもこれまた根本的な解決は基本的にできない問題だ。ストア派的に言うなら他人の行動や考えは自分の権能の外にあることだし、同じように仕事をしていても褒めてくる人もいれば叱責する人もいる。いじめられる側にも原因があるという人もいるが、いじめる側が常に気まぐれで一貫性がなく、精神が不安定な状態にある以上、それは無意味な指摘だし、いじめにはある種の快楽が伴うせいか、制度で取り締まろうとも、あの手この手と新しい手法を考えて、ルールを掻い潜って必死にいじめを行う連中というのは出てくる。そんな連中は、語彙力は貧困なのに、言葉巧みに自分の行いを正当化するのは得意だ。多分それまでの人生において、ロクに勉強もしないでそういったマウントのテクニックだけしっかり身につけてきたのだろう。会社の利益にも何もならない、本人が一瞬気持ちよくなるだけの不毛な技術だが、そんなのをみんな必死で磨いている。「論破」なんてのに憧れるバカがいるのもその証である。大抵は立場と語気の荒さで無理矢理意見を押し付けているのであり、対等か自分より立場の上の人相手に「論破」できている人間を見たことがない。

 

 そもそも論理的に物を考えて仕事できる日本人なんていない。昔から世間体や場の空気が絶対的な権威を持っていた女子中学生みたいなこの民族が、「論破」なんて人間らしいことができる筈がないのである。2000年も前にギリシャやローマで活発に論理的な議論が交わされていた一方で、その頃の日本人がどんな生活を送り、どんな思想を持っていたかを考えれば、いかに日本人が「考えない」民族かということが分かるだろう。だから、仕事のしかたとか、上の立場の人間が下の人に対する接し方とか、そんなことを丁寧に考える習慣がないから、ただ快楽を求める本能に導かれるままに、機会があればいじめをしたりマウンティングに余念がない。何か高潔な理由があってそうするのはなく、いじめ・マウンティングをすれば自分が「美味しい思い」をできる可能性が飛躍的に高まるからだ。それはちょうど、学校教師がカースト上位のグループに媚びて、クラスの大人しい人がいじめられている時に見て見ぬフリをするのに似ている。学校教師はそうすることで、カースト上位のグループからの「おこぼれ」が貰える可能性が飛躍的に高まるからだ。ロクに勉強もせずに時間も性欲も持て余してる教師からすれば、絶好のアピールチャンスでもあるのだ。そしてそれは、職場にしても同様だ。

 

 会社での過労死や過労自殺というのは、学校でのいじめ自殺と背景は似たようなものだ。被害者は生贄か見せしめとして理不尽な目に合わされ、苦しんでいるにも関わらず職場・学校では被害者が悪者のように扱われる。激務を押し付けられている人がいくら一生懸命仕事しようとバカにされるだけのように、学校でいじめられている人がいくら努力しようと、いじめっ子グループはむしろそれを嘲笑うように手を変え品を変え相手を追い込んでいく。仕事や勉強に関して彼等は工夫することはなくても、陰湿な嫌がらせに関しては次から次へと素晴らしいアイデアやポエムを生み出す。それはきっと、芸術家や素晴らしい作家にでもなったような気分だろう。いじめをする彼等は素晴らしいクリエイターで、何かとても優れたセンスがあると自分たちは思っているし、そのコミュニティに所属する人達も(特に女は)、そんなサル山のボス達に敬意を払って媚びを売るのだ。

 

 だから、過労死の問題は労働時間の問題でなく、人間一般の道徳意識の問題だ。いじめもそうだが、どこかで過度に快楽を追求する人間の駄々が、真面目な人を自殺に追い込んでいるのである。それも、承認欲求であったり過大な自己評価から来る愚かな欲望だ。シュタイナーの言う所のソラトつまりは嫉妬心だ。常に他人を羨ましがり、自分はもっと優遇されて然るべきだ。自分は優れた存在なのだからチヤホヤされないのはおかしい。自分は他人の人生に影響力を行使するほどの力を持った素晴らしい人間である。そういった際限のない欲望の追求を自分に許し、そして自分を磨くのではなく他人に迷惑をかける方向でそういった欲望を満たす人間が、ソラトの支配下にある人間である。ソラトとは悪魔アーリマンの中でも最恐の存在で、アーリマンとルシファーのバランスを常に悪い方に傾ける存在である。(バランスを取る力がキリスト) だから彼等は際限なく世界を破壊するし、道徳を踏み躙ることそのものが何らかのステータスになると思っている。

 

 パワハラを行う瞬間というのは、きっとスリルがあるんだろう。自分はこんなに横柄に振る舞うことを許されてる。こんなに怒鳴ってるのに誰も自分を咎めない。仕事をいくらでも押し付けられる。それはきっと俺が、優れた人間であるからに違いない。

 

 自分で自分の価値を高めることのできない人間は、こうした形で他人に依存して自分には素晴らしい価値があると錯覚する。他人に激務を強いることなんてその際たるもので、気分はまるで古代ローマで奴隷をこき使ってる金持ちの名家の子息にでもなったようなものだろう。こうした悲しい錯覚が、日本の至る所で起きている。だからハラスメントも過労死もなくならない。全ては価値観を自分ではなく他人に依存することが原因である。だが、いい大人なら、他人にチヤホヤされることではなく、自分で自分を認めることを人生において大切にしていきたいものである。それを正しい自己愛といい、シュタイナーのいうところのキリストの力だ。