徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察

「他人事」と捉える人は頭が悪い

 この世に本当の意味で「他人事」と言えることは、実際には存在しない。どんなことも思考の力で捉え、自分の中で再現して考えられるし、何事も理性(ロゴス)に照らし合わせて熟慮した上で、行動するのが人間の自然の姿だ。自然はロゴスに従って営まれている。だから、自然を熱心に観察する人は自然と頭がよくなる。

 

 「他人事」と考えないとは、別にあらゆる他人の痛みを自分の痛みと考えるように…などという自己啓発系スピリチュアルの本に書かれているようなことをする必要はない。そんなことを言う人がいれば偽善者だと思って差し支えない。そうではなく、あらゆることを「関連付けて」考える癖をつけるようにということだ。

 

 自然界はあらゆるものが関連の上に成り立っており、単独で存在するものは一つもない。例えば、虹の発生には太陽の光の雲と、晴れた空が必要だ。だから晴天の空でも完全な曇り空でも虹が見られることはない。また、雲が発生するには海が必要だし、海ができるには川が必要である。更に、その自然界に住む生き物に思いを馳せてみると、自然界と非常に複雑で密接な関係を持っている。だから、自然を観察し、瞑想と言えるほどまで自然に意識を集中すると、あらゆることをロゴスに基づいた関連の上で考える癖がつく。逆に、この経験がないと、仕事にしても社会問題にしてもひいては人間についても、行き当たりばったりで的外れな論考ばかりしてしまう。言ってみれば、現象を統一から分断してしまうのだ。

 

 あらゆることを分断して考える人は集中力に欠ける。統合を生み出すのは集中した思考力で、これが散漫な人は注意が散漫で、あらゆることを単なる思いつきでこなし、ついでに日常の行動も散漫になり、他人に迷惑をかけることが平気になる。電車ではソーシャルディスタンスを理解せずトナラーとなり、カフェではパソコンのキーボードを物凄くうるさい音で叩き散らす。何故かというと、彼等は周囲の人と意識して調和することができず、分断された思考を持ってるからだ。つまり、あらゆることを他人事として考えているということなのだが。

 

 このような人間は、自然や他者のことのみならず、自分のことも分断して考えるようになる。要は自分の幸不幸を他人事、他人の責任だと考えるようになる。だから、落ち着いて物事に取り組むことができず成功できないし、他人の評判を四六時中気にしてあらゆることにビクビクして怒りっぽくなっているのだ。それで、何か発言の機会があると、待ってましたと言わんばかりに借りてきたようなポエムを披露する。例えば、コロナの危機に対応する政治家であれば「気の緩み」とか「勝負の3週間」とか「神のみぞ知る」とか、どこかのバラエティ番組かドラマから引用したような言葉を放つのだ。彼等は集中力もなく状況に統合した言葉を自分で紡ぐことができない癖に、人一倍自己顕示欲が強いから、このような謎のポエムを披露するのである。自分の発言が、社会全体にどのような影響を与えるか、コロナで生じる社会問題を解決するのに、どのように貢献できるか。そういったことを常日頃から統合的に自分の頭で考えていれば、出てこない言葉なのである。そんな国民のことも自分のことも他人事だと捉える人間が政治家をやり、そんな人間を国民が選挙で選ぶなら、この国はそのうち諸外国に支配されるようになるだろう。

 

 他人の行動に逐一敏感で、噂話が生き甲斐のような人間も、頭が悪く、あらゆることを「他人事」と捉えている。だから、自分が見た訳でもないのに無責任に好き放題をいい、そこに自分の卑しい願望をふんだんに織り交ぜる。自然を観察する時には許されない身勝手な行為が、噂話ではまかり通ってしまうからついつい調子に乗ってしまい、ついには自分の身を危うくするまで止められない。一種の黒魔術のようなものだ。黒魔術であるから、破られた時はそれが自分に返ってくる。白魔術とはロゴスに従った統合された人間の行為のことで、黒魔術とは、あらゆることを他人事と捉える無責任で散漫で不埒な態度から生じる、後ろ暗い人間の行為を言う。

 

 ストア哲学の本は白魔術の術書であり、巷の卑小な自己啓発本やスピリチュアル本はその殆どが黒魔術の術書と考えて差し支えない。中にはシルバーバーチの霊訓などの比較的良書も存在するが、それにもいい加減なことが沢山書かれているので、やはり無責任なのである。現世に生きる人のことを、他人事と捉えているフシがある。他人の黒魔術(無責任や悪い噂の流布など)に苦しめられてる人間は、ストア哲学を学ぶといい。白魔術の本だから、黒魔術を破ることができる。おそらく、苦しみにじっと耐え、自分にできることだけをやれとしか書かれていないが、それで充分である。やることをやれば、黒魔術を仕掛けた人間というのは、必ず自滅するように世界は成り立っている。例えば死ぬまで逃げ切ったように見えても、ロゴスは魂の世界にまで及ぶ。いや、死後の世界の方が、神々に近い分、ロゴスの働きは強くなるだろう。

 

 自然を観察して賢くなるという体験は、生きてる間にしかできないからしておくべきである。それが難しいなら、セネカやシュタイナーの本を繰り返し読んで、統合された思考を育むことを習慣にするといい。調和の取れた思考は、あらゆることを関連付けて考えるようになり、自分自身の思考や心の動きに対しても、自然を観察するときのように注意深くなる。これは、他人事として捉えるのとは真逆で、自分自身に、より親しくなるのである。外界に対しても自分に対しても、より深い理解を得るのだ。

 

 そのように統合された人間にとって、あらゆる断片的で刹那的な幸福や快楽はどうでもよくなっていく。あったらあったで喜んで受け取りはするが、分断された思考を持つ人間のように、みっともなくそれにしがみついて怒ったり悲しんだりしない。幸福は常に自分自身の調和にあることを知ってるから、外側の状況にいちいち振り回されない。それでいて、外側の状況を注意深く観察できてるから、問題が起きても適切に対処できるし、仮に運命のせいでできなかったとしても、そのことで神を呪ったり他人に八つ当たりをしたりはしないのだ。これが、何事をも「他人事」と捉えずに、自分の中で理性を持って統合して考える人間に自然界が与える、必然の恩恵なのである。