徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

信念のない奴は人間じゃない

 

 信念のない奴が随分増えたように思う。承認欲求だけで生きてるからそうなるのだろう。電車内のトナラーとか、金融機関に働きかけて飲食店を脅す大臣とか、自分は会食を満喫しながら物凄く勇ましい(と自分で思っている)喋り方で緊急事態宣言を発令する首相とか、とくに政治家は「勇ましい音読」の練習でもしているのか、全く中身が伴わない発言をかっこよくする人間がとても増えたように思う。まあこれは政治に限らず、会社でもそうで、僕の会社でもまるで信念のないアホ面の他人事社長が、コンプライアンスの徹底だの感染対策の撤退だの下らないどうでもいいことをさかんに社員に呼びかけている。仕事内容の具体的なことへの矜持や信念がないからコロナ対策などの安全牌を取って自分は危機に真摯に取り組んでいるアピールをするのだろう。だが仕事においての真摯さは具体的な問題解決に取り組むことでしか発揮できない。コロナ対策だのコンプライアンスだのはあくまで仕事の副次的に来るもので、それ自体は仕事でも何でもないのだ。無能な上司が曖昧な指示しか出せない癖に、社内ルールがどうとか社会人としてのマナーがどうとか言って部下に因縁をつけるのと同じである。何故そんな惨めなことができるのかというと、信念がないからだ。

 

 ストア哲学とは信念の塊のようなもので、死を受け入れ、運命を受け入れ、苦難に勇敢に耐え抜き、問題に理性的に立ち向かう、まさに人間の理想の姿である。ストア哲学の入り込む余地のない哲学は須く信念に欠如してると言えるだろう。

 

 信念がない奴は平気でくだらないおしゃべり、ひどい場合は他人の悪口に夢中になり、みっともない姿を晒す。そしてそんな人間は、自分を正義だと信じて疑わない。信念と正義感は同じであると思う人がいるかも知れないが、似て非なるもの、いやそれどころか全く逆のものである。信念は自分で自分を律する心のことだが、正義感は自分の勝手な思い込みで他人を抑圧する身勝手な思考のことである。どこぞの経済再生大臣が飲食店を脅す時も、環境大臣がレジ袋の手間を国民に強要する時も、正義感はあったかも知れない。しかし、彼等に信念はまるでないのだ。何故かというと、他者を抑えつけたい、自分は何一つ苦労することなく注目されてチヤホヤされたいという自分の不埒で残忍な心や名誉欲・虚栄心を律することがまるでできていないからだ。それどころか、彼等にとってそういった浅ましい欲望は満たされて当然で、それが果たされないなら、自分は逆ギレしたり不機嫌になったりする権利があると思っている。これは電車内でマナーが悪い人間やトナラーにも共通することで、彼等はいつもイライラしたように口元の突き出た幼稚なアホ面を晒し、自分の下等な欲望が満たされないことに常に不満を抱きながら他人に依存するのである。

 

 信念がある人間は決して幸福を他人に依存したりしない。どんな環境であっても困難であっても工夫してそれらと向き合い、そこから幸福を汲み取っていく。例え拷問にかけられても強制収容所に捕らえられても大勢の前で恥をかかされても、信念があれば自分を惨めだと思うことはない。これが、脆弱で壊れやすいガラスのような正義感だと大変だ。割れやすいから慎重に扱うよう自分にも他人にも強制するし、割れたら多くの人にケガをさせてしまう。ちょうど、世界史上の虐殺者が脆い正義感を暴走させて、多くの人を殺したように。信念は柔らかくしなやかだからこそ頑丈だし、どんな環境にも適応できるが、正義感は曲がることを拒むガラスのようなものだから、ちょっとの刺激であっさり崩れるし、それを維持するには周囲に多大な負担を強要する、惨めで迷惑なものなのだ。それでも、正義感を満たす(と自分で思っている)ことは承認欲求を満たすための手っ取り早い手段だから、この麻薬に飛びつく人が後をたたない。政治家、教師、医者、経営者、宗教家、著名人…承認欲求に飢えたあらゆる職業の人達が、「合法的」に承認欲求を満たすために、正義を振りかざし、自分の私利私欲を満たそうとする。今風の言葉を使うならチンポ騎士団というものであり、痴漢を過剰に痛めつける正義漢のようなものをイメージして貰うといいかも知れない。自分の存在意義を見出すのに、いちいち他人の悪事を必要とするあたりがこの連中の情けない所だ。だからこの手の人間は部下など下の立場の人ができると一々難癖をつけて部下を「悪」もの扱いし、それをかっよこく指摘する自分を正義だと思って悦に浸るのである。繰り返すが彼等に信念などというものはない。信念は決して弱いものいじめをしない。自分で自分を認める術を知ってるから承認欲求に依存することもない。他者に過度にチヤホヤして貰いたいという甘えた感情が、薄っぺらい正義感と卑しい承認欲求を産み出すのである。いい歳をした大人なら、自分で自分を認めてあげることで承認欲求を満たすべきだ。そしてそんな人間ほど、他者から真の意味での尊敬も集め、承認されるのである。もっとも、真の賢者にそんなものは必要なく、あくまでオマケ程度のものに過ぎないのだが。