徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

何事も「他人事」と捉えることの弊害

 「うちの子は発達障害だから〜」とか、「同じ職場の彼は発達障害だから〜」とか言う人達は、その当人に関心がなく、自分の子育てや仕事を他人事だと思っている。上の言葉の続きは「だから私は悪くない。だから私には関係がない」という単なる怠慢と利己主義に過ぎない。それも、よく見られるのは、自分の私利私欲を追求するのを邪魔されたと勝手に思い込んでる輩が、怒りから上のような発言をするものである。そもそも過度の欲望を自分に許すものは、自分自身にすら関心がなく、自分のことを他人事だと思っている。だから、限度を超えて欲望を追求するのだ。

 

 ついでに言うと、「私発達障害だから〜」とか「発達障害の僕が〜」なとどと言ってる人間も、自分のことを他人事だと思ってる。自分を他人に面倒見させようと思ってるから、そんな言葉が簡単に出てくるのである。

 

 さて、自然を観察する経験を持たず、それに類する体験をさせてくれるような本も読まない現代人は、あらゆることに関して思考と感情を非現実的に、抽象的に働かせるようになった結果、あらゆることを他人事と捉えるようになったということは一つ前の記事で述べた通りである。このような人間の醜さは、いくら列挙しても尽きることはない。

 

 面白いことに、自分自身を含めて、あらゆることを他人事と捉えるようになった鈍感な人ほど、いちいち自分への侮辱に敏感なのである。自分自身の感覚や信念というものがなく、外側の出来事や評判や侮辱(と彼が勝手に思っていることだが)に敏感にヒステリックに反応し、自分の価値が貶められたと喚き立てる。時には他人の親切にすら、一々侮辱されたと思ってつっかかる。他者の行動の一つ一つが自分に「忖度」してないとして子どもように騒ぐのだ。そのような「繊細」な方が随分増えたように思う。そしてそんな「繊細」な人ほど、キーボードの音がうるさかったり、トナラーだったり、パスタを啜ったりするのだ。彼等は他者から舐められるのを恐れているのだが、舐められるのを恐れる人間ほど舐められるというのが彼等には分からない。ありもしないものを追いかけ回し、それが満たされないと分かっても見苦しく固執し、周りに当たり散らす。そんな人間が、「こいつなら悪口を言っても大丈夫だろう」と思った相手を「発達障害」などと吹聴し、自分の利益を得るための当て馬にでもしようとする。彼等は本当に救われない人種である。

 

 自然や外界に対し、観察と冷静な洞察によって整えられた思考と感情を持って接する人は、このような悪徳とは無縁である。逆に、そうでない人は、的外れな言動や振る舞いを、自分自身の価値を地の底まで貶めるまで続ける。それは、家庭で、学校で、職場で、あらゆる公共の場で見られる。彼等は最低限のマトモな思考力も持たず、あらゆる問題を他人事と捉え、「いつか誰かが何とかしてくれる」と考え、いつまでも自分の頭で考えようとしない。自分自身に立脚した思考を持たないので、風見鶏のように他人の意見や動向を気にし、他人の一挙一動にみっともなく動揺し、鏡の前では忙しなく髪の毛をいつまでもいじっている。

 

 ほんの少し落ち着いて自分自身の意識に集中して、その後自然な思考を働かせるだけで分かることは世の中に沢山ある。コロナ対策でも一番大切なのは免疫力…つまり無理をしないことで、これまでの長時間労働やあらゆるハラスメントに塗れた社会が間違っていると、コロナは教えてくれているだけだ。だから、そちらを正せばコロナは問題にならなくなるし、実際に、そんな世の中になったら科学的な意味でもコロナは消えていくのである。逆に、自分自身にいつまでも無関心で、自分の思考すら「他人事」のように捉える人が今のまま減らないなら、コロナは永遠に収束しないだろう。

 

 東京オリンピックの開催も、「人間」に対する無関心の表れである。スポーツへの熱中もそうだ。この社会はスポーツ選手を何か聖人君子のように扱うが、彼等は別に我々が打ちひしがれている時に生きる希望を与えてくれることはなく、道徳的に高めることもない。スポーツは所詮、自然に対して不自然で無関心な運動であり、スポーツをやりすぎると、また観戦に熱中しすぎると、思考や感性はどんどん歪になっていくだろう。思考の軸は権威や成功、暴力的に相手を抑えけることや暴力そのものにとって代わり、感性は欲望と虚栄心を追求することに全力を傾けるようになる。実際に、コロナウイルス下でも開催しようとしていることから、スポーツに過度に固執することが、いかに人間を歪めるかが分かるだろう。

 

 自分で自分の内面を豊かに、幸福にする術を知らない人間は、あらゆることを他人事と捉えるようになる。自分の幸不幸ですら、自分ではなく、他人に責任があると考えるようになるのだ。日本が介護大国なのも、老人達のそんな態度が根本原因にある。彼等は自分で自分の精神を介護することでしか、内面的にも肉体的にも、救われないというのにも関わらずだ。