徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

無能御用達のソフトのパワーポイントと思考の一貫性について

 

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 僕は読書が好きだが、それは本というものは思想や理念や作者の意見や物事についての知識・見解が一冊の本として長い文章ながら体系的にまとまっていて読んでいて気持ちがいいからだ。特に詩的に書かれた思想書や自然科学の本は、美しい文章の繋がりが奏でる旋律に癒され、人生における喜びを感じるのだ。文章は流れるように繋がり、滑らかなストーリーを描く。一つの段落で一つの音楽作品のようであり、絵画のようであり、建築物のようだ。論理的に整った文章というのには、幾何学模様にも似た美しさがある。沢山の本に触れて沢山の語彙力や文章の流れを身につけると、自分のブログにおける表現力も広がったように感じる。だから、長文のブログというのはそれだけで一つの芸術作品であり、自己実現欲を満たしてくれる。思考に一貫性を持たせ、統一した理念が文章全体を貫いていれば、思想もまた引き締まる。文章にはそれだけの力があるし、文字だけで自分を表現するのはパズルみたいで面白い。長文化するほどにそれは増していく。

 

 文章のもつ、それら全てのいいところを台無しにするのが、パワーポイントのスライドである。四角で囲った単語、箇条書きに羅列される言葉、謎の矢印、フローチャート、なんとか図、突然の無意味なアニメーション、統一感のないフォント、などなど…ひたすらごちゃごちゃしていていて見辛く、中身云々以前に書き物としての統一感が全くない。頭の悪い中学生が作ったまとめノートみたいな感じで、作った本人以外は誰も理解できないだろう。発表者が四角で囲った「単語」を発音すれば、聞き手は何か理解した気分になるかもしれない。しかし、単語を四角で囲って発音しても、文章の中にないと、その単語がどういう目的をもってどういうストーリーの中で、どういう意図をもって使われているのか分からない。ただ四角で囲ってスライドの中に配置させて、適当に矢印で他の単語と結びつけたり、箇条書きで羅列させて情報をブツ切りにして発信するだけでは、何の役にも立たない。そこは発表者が言葉で説明しますというなら、その言葉を文章にして事前にWordで作成して配布しておくなりなんなりするべきだ。なんならそのWordだけで充分である。視聴覚室でアニメ映画を観るのをウキウキに楽しみにしている小学生のような気持ちで会社に来てるおっさんのためにわざわざ、パワーポイントでお絵描きして紙芝居をする必要はないのである。小学生ですら、紙芝居は卒業して自分で本を読むことができる。大人になったら紙芝居が恋しくなるのだろうか。アホ面で会議に参加してパワーポイントに散文的に羅列されたごちゃごちゃした「単語」を見てキャッキャとはしゃぐような大人が日本経済の中心にいるのである。その成長力は言わずと知れたところだ。

 

 パワーポイントはWordなどの文章と比べて、表現に「一貫性」がない。あるスライドでは箇条書きにした一文で、あるスライドでは図だけて、あるスライドではやたら長い文章で、あるスライドでは四角とか三角の中に単語を入れて、それを矢印で巧みに組み合わせて…なんてことを一生懸命やっているが、このように一貫性のない表現手法が好んで使用されるのは、話し手も聞き手も思考に一貫性がないからなのである。思考に一貫性がない人は、人間性にも一貫性がない。人間性に一貫性がない人は、責任逃れを平気でする。昨日言ったことを忘れ、意見をころころ変え、掌を返すことを恥だとも思わない。いなむしろ、彼等にしてみれば、その場の思いつきの感想をダラダラとペラペラと話すだけで、一貫性を持って意見を述べることを何か恥ずべきことのように思っているのだろう。そんな人間にとって、パワーポイントのスライドのように、デタラメで散文的な資料が発言の材料だと大変都合がいいのかも知れない。長い文章だと理解するのは疲れるし、読む場合もそこから何かを汲み取って意見を発する場合も一貫性を要求される。それがパワーポイントであったなら、目の前の一枚のスライドの四角で囲った単語をアホ面しながら眺めているだけでも仕事をした気分になれる。その単語に関連して適当に思いついたことを後で発表者にまくしたてれば、自分は本質を見抜く優れた知見を持つ人間だという自己満足に浸ることもできるし、そんなバカな人間を見て積極的に意見を述べていると感心するバカなおっさんも沢山いる。

 

 「パワーポイントでも一貫性のある表現ができる」という人もいるかも知れないが、それならブログもパワーポイントで書けばいい。一部の図を書くのにパワーポイントを使う人はいるかも知れないが、パワーポイントをブログに載せて売れたブロガーがいたら、ツチノコ並みの発見だと思っていい。謝罪の文章が、Wordで作成したものではなくパワーポイントだったらどう思うだろう?研究ノートはパワーポイントにできるか?人の心を打つ文章がパワーポイントで書けるか?伝説になるような演説にスライドがいるか?調べ物をしてるときにこれだと思ってネットでようやく探りあてた資料がPDFではなくパワーポイントで作られていたらどんな気分になる?

 

 つまりパワーポイントは意見に一貫性を持たない無責任な無能に好まれるアホ面量産ツールであり、思考力を低下させ、人を痴呆に近づけ、無責任の増長という形でハラスメントを横行させ、社内の意思決定力を弱める。だいたい、大事な議論が必要なことをパワーポイントのようなぐちゃぐちゃな資料をもとにして会議をするなんてどういうつもりなのだろう。多分、まともに考えるつもりはないだろうし、仕事を他人事だと思っているのだろう。政治家がドヤ顔でパワーポイントで作られた分かりにくい資料でよくプレゼンをしているが、国民の生活など彼等にとっては他人事なので、好んでパワーポイントを用いるのだろう。

 

 パワーポイントは一貫性のない思考と、無責任の象徴であり、これを使い続けるような人間にも会社にも将来性は皆無だと言っていいだろう。儲けるのは使い勝手の悪いソフトをひたすら量産するMicrosoftだけであり、こうした形でも人は搾取されていくのである。