徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

アウトプットなんて気持ち悪い言葉誰が使いはじめたのだろう

 「イんプットだけじゃダなんですよ、アうトプットがなぁいとぬうぇぇぇぇ!」なんて言葉を中学の英語教師が言ったのを強く覚えている。内容としては、「英語を勉強するのに、教科書を読んだり単語を暗記したりするだけでは駄目で、実際に英文を書いたり話したりしないと英語力が伸びない」とでも言いたかったのだろうか。それならそうと説明すればいいのに、何故にアウトプットなどという気持ち悪い言葉を使うのだろう。インプットは何だがかっこいい頭のいい人がやるイメージだが、アウトプットという言葉は語感も悪く意識の高そうな響きが含まれていて、どうにも気持ち悪い。エクスプットとかなんとか、もっと格好いい言葉はなかったのだろうか。

 

 要するにトライアルアンドエラー、試行錯誤の過程の一つを意識を高くして言っただけで、別段深い意味合いがある訳ではない。にも関わらず、別に英語に限った話ではないが、巷の意識高い系はこの言葉を好んで使いたがる。せめて、「表現」とか「描写」とか「出力」とか、もうすこししっくりくる言葉を使って欲しい。

 

 第一、英語の「output」の第一の意味は「産出、生産高」であり、「試行錯誤」の意味合いは薄いのである。インプットの対義語としてのアウトプットは和製英語と言っていい。それも、意識が高く捻じ曲げられた歪な和製英語である。

 

 そもそも「アウトプット」なんてのは意識して行うものでもない。質のいい経験や知識を積み重ねていれば、良い植物の種がいい実を結ぶように、自ずと世界に対する働きかけとして何らかの表現を行うように、人間はできている。多様な人生経験を積めば、ブログや芸術といった形でそれを表現したり、世に発信したりするものだ。自然と。それを「アウトプット💦アウトプット💦」なんて必死な顔をしてる人間は、ないものを絞り出して錬金しようとしてるみたいで、すごく無理があるというか、おかしな顔をしている。

 

 だから「アウトプット」という言葉は、教育現場では使用禁止にすべきである。「創造」とか「試行」とかに言い換えた方がいい。「アウトプット」という言葉には強いるような響きがあり、本来は自由である筈の人間の魂を型にハメようとする搾取的・洗脳的な響きがある。「アウトプットしなきゃ」という言葉は相手を緊張させ、逆に相手の自由な表現を奪い、想像力を硬直させてしまう。言ってみれば、発言者が何も創造せずに聞き手にマウントを取るための詭弁なのである。

 

 アウトプットという言葉を使ってはならない。意識してもならない。意識するのは、質のいいインプットだけでいい。小説を読む時、人は小説を書いているのと同じである。音楽を聴く時、人は偉大な作曲家になっているのである。インプットという行為はそのまま、霊的に見れば偉大な創造行為であり、それが更に発展することで、実際に芸術作品となって世の中に働きかけたりする。

 

 「アウトプット」という言葉は表現が質のいいインプットの延長上にあるということを忘れさせる、悪魔の言葉である。こんな言葉は教育現場から一切が駆逐されねばならない。