徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察

努力の方向性ってなんだ

 「努力は必ず結果に結びつく。もし結びつかないのなら、それは努力の方向性が間違っている」

 という詭弁をあちこちで目にするが、随分な言葉の詐欺だと思う。つまりは、成功できればそれは努力したからで、成功できなければそれは努力してないからと都合よく断定したい訳だ。結局成功してるかしてないかだけが問われている。このような詭弁は自分の成功は素晴らしく崇高な努力によって成し遂げられた立派で賞賛されるべきものだと自分にも他人にも印象付けたい虚栄心の塊のような連中にとってはこの上なく便利なレトリックだが、所詮は詐欺師の手口であることに違いはなく、嘘を語っている訳である。

 

 クリシュナムルティは「努力によっては問題は解決しない」と断言した。努力はあるがままの事実を見つめることからの逃避で、むしろ自分の真実の思いから遠ざかることになるからだ。つまりは自己否定であり、自分を誤魔化してるということだ。

 

 「成功するためには努力が大切」という人は自分も他人も否定しているのあり、そもそも問題を解決しようという意識すらない。ニートを叩く人達も平気で、「ニートは努力不足」だの何だの的外れな批判をして悦に浸っている。自分自身は仕事が出来なかったり低学歴だったり、およそ「努力」してきたとは思えない流されてたまたま手近な職に運良くありつけただけの無能が、何らかの事情があってニートになってしまった人達に、上から目線で罵詈雑言を浴びせる。

 

 そもそも努力の方向性って何だろう。方向性を選んでするならそれは努力とは言わない。何故なら努力とは誰にでもできるものでなければならないからだ。例えばスポーツなら基礎練習や単純な反復トレーニング。勉強なら決まった問題集の周回や英単語の反復勉強。「単純」で「誰にでもできる」ことを繰り返ししつこくやることを努力というのであって、そこに「方向性」の話を持ち込むならそれは工夫やセンスの領域だ。そして工夫やセンスの領域になると、問われるのはセンスや運や環境である。自分が選んだ努力のやり方が結果に結びつくかどうか。これは努力の選び方のセンスや結果に繋がるかどうかの運に左右される。センスや運の問題になってくるなら、それは最早努力とは言わない。誰にでもできるものでないなら努力ではない。ところが、自分がたまたま運や環境に恵まれて成功できた人間は、自分のその運やセンスを勤勉な努力の賜だと自慢したくてししたくて仕方ないから、「努力の方向性」とかいうおかしな日本語を編み出した訳だ。

 

 「努力」の条件は「開かれて」おり、「誰にでもできる」ことである。だから、アフリカの子供達が高等な数学の問題を解けないのは、努力云々の問題ではない。毎日を一生懸命に生きてる彼らに、「努力の方向性が間違ってるから数学の問題が解けないのだ」などとバカなこど言う人もいないだろう。

 

 クリシュナムルティは、努力しないことから創造行為が産まれると言ったが、全くその通りであると思う。ブロガーになりたければ毎日ブログを書けと言う人が一定数いるが、書きたいこともないのに無理に毎日記事を書いたって、ゴミのような記事が量増しに生産されるだけで、自分のためにも他人のためにもならない。週間の少年漫画も、毎週無理に連載するからつまらない回も沢山出てくる。無理をすると途端に創造行為というのは陳腐になるし、作ってる人もそれを見る人もひたすらつまらない思いをするだけだ。

 

 人生を履修するように無理に生きることも同様だ。レールから外れないように、部活だの友達付き合いだの恋愛だの就職だの結婚だのコミュニケーション能力だの何だの…(そもそも人間関係に「努力」を持ち込む時点で、それは相手を否定してるのと同じで、誠実さに欠ける態度である)必死の形相で努力してる人達は生き方も語る言葉も作り物のように無機質で、ひたすら恐怖心に満ち満ちた毎日だ。だからその恐怖から一時的に逃れることができるのならと藁にも縋る思いで必死にニートを叩き、自分は何とか安全な地位にいると思い込むことでギリギリ自分を保ってるのだ。自分は何の取り柄もないが無能でない、少なくともたまたま仕事がないニートよりは努力した立派な人間なのだと必死で自分を慰める。これほど惨めな人間もあるまい。働いてる自分の仕事内容に生きがいを見出せないから、働いてることそのものに何とかそれなりの価値を見出すために、働いてない人と比較することが必要となる自己完結できない連中なんて。

 

 そもそも人間に努力は続かない。大変なことが続くならそれは努力ではないし、続ける方が成功しやすいなら努力しないほうが成功しやすいということだ。成功するためには継続が必要だ。好きなことでないと継続できない。努力は嫌なことだから継続できない。故に成功する人は努力をしていない。全く非の打ち所がない完璧な理屈だ。これを否定する人は頭が悪い。つまり努力を賛美する人は頭が悪い。

 

 だから、「努力の方向性」などという一言で自己矛盾したフレーズなんてそうそうないのである。こんな言葉を使う人間はそれこそ本当の意味で努力したことがない人間であり、努力の方向性を知らない人間なのだ。このような間違った日本語は一つ一つ、丁寧に潰してこの世から消していかないといけない。嘘はアストラル体を破壊し、心身の健全な成長を妨げるからである。