徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

コロナを怖がる田舎者、そんな真剣に生きてるの?

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新型コロナウイルスの感染者に対する差別が、未だに至るところで横行しているらしい。ひどいケースになると、感染者を人殺しと罵るような差別もあるそうだ。ブラック企業で従業員を過労自殺させたり、パワハラで部下を自殺に追い込むような人達が「人格者」と崇められるこの日本では、ただの風邪にかかっただけの善人が「人殺し」と罵られる。相変わらず狂った世界である。

 

 そもそも日本人はネアンデルタール人の遺伝子を持っていないので、新型コロナウイルスに感染した所で重症化しにくい。死亡のリスクがあるのはもともと加齢や基礎疾患で免疫力が落ちている人達で、そんな人達はコロナウイルスがなかった所で、別の理由で死んでいるだろう。

 

 そもそもただの風邪に過ぎない新型コロナウイルスを過大に怖がる時点で、その人は相当な暇人で基礎的な医学のリテラシーも知識もなく、低学歴でロクに本も読まずにテレビから得た知識で日々勉強してると思い込むんでる低脳であることは疑いようもない。そんな輩こそコロナウイルスに罹ってくたばればよいのだが、残念ながらそんな連中ほどゴキブリのようにしぶとく生存権を主張し、周りに迷惑をかけて安寧に包まれた人生を送るのだ。

 

 「仕事が生きがい」「仕事のために生きてる」とか散々のたまってる癖に、新型コロナウイルス如きが怖くて会社を休みにしたりテレワークにしたりする人達も、怠慢の極みである。そんなに仕事が好きならコロナウイルスと心中しろといいたい。仕事が生きがいならコロナで仕事できなくなったら死ねばいい。だのに、のうのうと休みを貪り、おうちにいる自分は命を守って立派だと本気で思い込んでいる。

 

 何度も…何度も何度も何度も言うが、コロナウイルスは「だだの風邪」である。ただの風邪を、バイオハザードなんかの映画に感化されたパニック妄想好きの退屈な人々が騒ぎ立てているだけである。非日常が好き、妄想が好き、だけど創造的なことはしたくないから、手取り早くコロナウイルスを人類最大の脅威であるかのような悪者に仕立てあげて、みんなで立ち向かうことに一体感を感じたいだけである。まるで小学生である。パニック映画を見て寝る前に布団の中でもし大地震が起きたらとかパンデミックが起きたらとか想像している小学生である。

 

 マスクをして皆で一体感を感じて、気休めにもならない仕切りやアルコールの無駄遣いで余計な手間を増やし、非日常を楽しんでいる。ひどいのになるとコロナ禍の記念館まで作ろうとしているらしい。子孫に嘲笑されるだろう。ただの風邪に、子供のように騒ぎ立て、過剰な対策を取り、問題の本質を軽視し、いつまでも夢の中で遊んでいる哀れな日本人として。

 

 そもそもの労働に対する価値観がおかしいのである。仕事が生きがい?仕事を通して成長する?否。労働に生きがいを感じるのは価値観を他者に委ねた自立心のない甘えん坊だけである。コロナに過剰に騒ぎ立てるのも甘えん坊である。自分の人生を自分で楽しませることができない怠惰な大人が、コロナをドラマチックに騒ぎ立て、自分の虚しさを埋めているのである。

 

 コロナから自由になるための方法はたった一つで、それは人々が精神を自立させることである。自分の人生を自分で充実させる術を学べば、コロナウイルスなんぞに慌てふためく必要性はないのである。田舎者は常に暇で他人の噂話が生きがいであるから、コロナの感染者を叩く時に、素晴らしくかっこいい天誅を下す正義の味方にでもなったつもりになるのだろう。その行為がそのまま田舎者の低劣さの現れであり、その低劣さは、たとえコロナが終息した所で、彼らの品性を落とし続けるだろう。