徒然なる哲学日記

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日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

コロナウイルスについての考察

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 コロナウイルスについての考察が巷に溢れる中、スピリチュアル界隈では「人類への警告」とか「新しい時代になるための試練」とか色々言われている(僕が愛読するブログ「itスペシャリストが語る芸術」でも凡そそう言われているhttp://www.kaynotes.com/)。僕も概ねそういった意見に賛成なのだが、少し違った考え方をしていきたい。それを、「コロナウイルスの危機に対する世界の『捉え方』からみる集合意識についての考察」とでも呼ぼうか。


 ぶっちゃけ、そんなに騒ぐほどのものではないのではないだろうか?コロナウイルス。4月5日現在で、死者は世界で6.3万人。日本に至っては、100人も死んでない。死者の殆どは高齢者で、若い人で亡くなってしまったという人は、基礎疾患があったか、免疫状態が著しく落ちてたかのいずれかだろう。インフルエンザで毎年世界で何十万の人が亡くなっていることを考えると、微々たる数字ではないだろうか?僕からすれば、誤差の範囲内である。


 通常のインフルエンザと違って、熱が4〜5日と長引いたり、肺炎は肺の間質という組織で起こり、固くなってしまうそうだ。まあウイルス科が違うのだし、症状が違うことはあるのだろうが、それを加味しても「ただの風邪」といって差し支えないと思う。 


 で、その「ただの風邪」のことを何故こんなに世界中のメディアで大げさに取り上げたり、死者数を連日報道したりと過剰に反応するかと言うと、そうすることで普段活発に働き回ってる人たちが、「休める」からだと思う。要はみんな、資本主義に疲れてきているのではないだろうか?


 おかしいと思わないだろうか?普段あれだけ、働かざるもの食うべからずだの、仕事してれば偉いだの、人は仕事を通して成長するだの、仕事できる男はモテるだの言ってるなら、この程度のウイルスで、みんな会社を休んだり外出を控えたりするはずがない。普段は命より仕事が大事かのような発言を沢山しておきながら、命に大して影響がないウイルスが流行ったくらいで大騒ぎして、大ががりなイベントを控えたり経済活動を控えている。要はこんなウイルスが流行ろうが流行るまいが、みんなパリピ的な働き方や生き方に既に疲弊していて限界だったということだ。そこにコロナウイルスというそれらしい「悪役」が発生してくれたから、表面上は仕事したいフリを装いつつ、仕事を休んだりイベントをキャンセルしてる訳だ。何というか、それに嫌らしさというか卑怯さのようなものを感じてしまうのは、僕がひねくれているからだろうか?


 大勢が集まって騒ぐイベントや、オリンピック甲子園みたいなスポーツイベントにしても、みんな心の奥底で、それらがあまり楽しくないことに気付き始めているんじゃないだろうか?インターネットが発達して、個人個人が自分にあったやり方で楽しむ娯楽というのは沢山ある。大勢で集まるほうがかえってイライラすることが多く、精神が疲弊する。あいつよりいい思いをしたい。あいつより目立ちたい。あの娘の注目は俺のものだ…そんな精神がすり減るような欲望は人が沢山集まるところで起こる。


 だから、コロナウイルスはきっかけに過ぎない。単に大勢で集まってマッチョな精神を持って仕事したりイベントを開催するのが、実はとても疲れることだったというだけだ。それを認めて人間本来の自然な生活に戻り、あまり働かず、個人の時間を大切にして、豊かな精神生活を送っていればそもそも騒ぐような話ではない。そもそもいい年した大人が多少命に関わるようなことで騒ぐのはとてもみっともないことだと思う。


 だから、コロナウイルスを悪者にして、コロナウイルスが怖いから休むんですというのでなく、休みたいから休むんです。と、皆が言うようになればいいのではないかと思う。これは想像たが、そんな世界になれば、重篤化して死ぬ人も少なくなるのではないだろうか。気張ることがないから、免疫力も上がり、ウイルスに対する抵抗力も強く発揮されるだろう。むしろ、いつまでもイキって、本当は仕事したいのに、イベントを開催したいのにコロナウイルスのせいで開催できないんですみたいな嘘をつく人間には、肺炎で死ぬことより恐ろしい未来が待っているかも知れない。


 余談だが、志村けんは死ぬ直前までお酒に入り浸り、女の子を追いかけ回していたらしい。僕もモテないが女の子が大好きなので気持ちはよく分かるが、70にもなったなら家で静かにネットサーフィンしてエロ動画でも探してたらどうだろうと思う。若い僕が性欲に折り合いをつけて生きているのに、70のおじいちゃんが50億円も資産があって、不埒な生活を送るのもいかがなものか。そんな金があるなら、恵まれない動物達のために寄付でもしてれば、もっと心穏やかでいられたろうに。絶滅しそうな動物の保護とか、行き場のない犬猫のシェルターを作るとか…そういった業界では、若い人達が薄給激務でこき使われているという実態を知らないのだろうか。志村けんよりは、晩年になって「別に動物は好きじゃない」といったムツゴロウさんの方が、よほど誠実で、動物が好きな人間に見えるのだ。


 先日このブログで話題にした会社を辞めた管理職の人にしても、無理して仕事熱心なフリをしなくても良かったのではないかと思う。わからないことはわからない。知らないことは知らない。できないことはできないと素直に言っていれば、辞めずに済んだのではないだろうか。その管理職の人はやたら朝早く出勤して、夜遅く帰る人だった。そんな無駄に「気張った」人間を評価する風潮を作った会社にも責任がある。そんな人を「仕事できてステキ」と評価する女の人にも。


 同じく先日このブログで話題にしたカフェでクチャクチャと物音を立ててエンターキーでデカい物音を立てるオッさんにしても、本当に自分がやりたいことをしてないから、あんなみっともない姿を晒しているのだろう。要するに、他者からの承認だけを生き甲斐にしてきた結果、ああなったのだ。それも、何かを作ってその成果物を評価して貰うのではなく、何かを一生懸命やって「そう」な雰囲気。キーボードを叩いて仕事をして「そう」な雰囲気を出すことで、他人に褒めて貰おうとしてきた。そんなエンターキーをバカでかい音でしばくオッさんはみっともないことこの上ないが、人について表面的な評価しか下せなかった彼の周囲の人々にも、その責任があるのではないだろうか。


 自分に出来ないことを認めるのは勇気のいることだ。僕は随分昔に自分はどうやら人とご飯を食べるのが嫌いらしいとリア充的な生き方を諦めて、ぼっちで行動するようになったが、その方がかえって、信頼できる人達との交流が持てるようになったものだ。大勢でワイワイ騒ぐことはなくても、一緒にご飯を食べることはなくても、人と人とは分かり合い、立派な友情を築くことは出来るとことを知った。そしてそんな人達はきっと、自分で自分を認めることができる人達だ。


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 自分の弱さを認められなかった「ナルト」のうちはイタチは、弟を除く自分の一族全員を殺さざるを得ない道を選んでしまう。しかし彼も、自分の弱さを認め、弟のサスケを頼っていれば、あるいは別の道があったかも知れないと後にこぼしている。


 ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」では、収容所で毎日自分の存在意義が否定されるような酷い仕打ちを受けた人が、自分で自分を鼓舞し、自分自身で意味を見出すよう努力する様が記録されている。


夜と霧 新版

夜と霧 新版

 収容所の看守が認めてくれるだろうか?許してくれるだろうか?希望を与えてくれるだろうか?いや、ない。


 そんな絶望しかない状況でも自分を見失わなかった人達は、自分の中に拠り所をもっていた。そしてきっとそれは、他者に依存した、いわば甘えた心でなく、真の自立心から生まれるものだったのだろう。


 長時間労働をして他人に評価して貰おうとしたり、大勢で集まってイベントに楽しませて貰おうとしたり、東京オリンピックみたいなイベントを開催して若い人に楽しませて貰おうとしたりする心の背景にあるのは、自分で自分に価値を見出そうとせず他人になんとかして貰おうとする甘えた依存心なのである。自分に出来ないことを認めず、見栄を張り、既存の価値観に自分を当てはめるように生きていく。そんな生き方は、これからの時代に価値を持たないだろう。


 今回のコロナウイルス騒動にしても、コロナを言い訳に集団に埋没するような態度をとる人間は同じく、これからの時代に自分の生き方に価値を見出せず、滅ぶことになるだろう。滅ぶというのは、別に死ぬという意味ではないが、もしかしたら死ぬよりもっと酷いことになるかも知れない。言うなれば、霊的な死である。霊界では、物質界のような抵抗がないから、自我を保つのが難しい。現世(物質界)にいる間にアイデンティティを他人に依存していたような人達は、死後に自我が保てず、魂が離散することになるだろう。別に消えてなくなることはないだろうか、もし次の時代があるなら、多分劣悪な星に転生することになるかも知れない。別に大きな目で見れば善も悪もないだろうが、より繊細で霊妙な芸術を味わえる力がないので、粗野な世界に行くということだろう。


 自分の中の想像力を大切にしなくてはいけない。そのためには、自分の感性を大事にすることだ。何を美しいと感じ、何に醜さを感じるのか。何を高貴さを感じ、何に劣悪さを感じるのか。他人に振り回され、他人の評判ばかり気にしているとそれが見えなくなる。幸いコロナウイルスは人が自分にいつてじっくり考え、見つめ直す時間を与えてくれているし、世界の人々の潜在意識もそれを望んでいる。霊学を通してあるいは芸術を通して、自己認識を深めていくことが出来るだろう。