徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

休みの日は一生懸命何もしないに限る

 「休み日何してるの?」ほどイラつく質問ってあるだろうか?別に一日布団の中でスマホいじろうが、ぼーっと近所をあてもなく浮浪者のように徘徊してようが、エロ動画求めてネットサーフィンしてようが僕の勝手だ。


 所が巷では、休みの日はやれスポーツだのフットサルだの、サーフィンだのスキューバダイビングだの、サイクリングだの旅行だの、ショッピングだのグルメだの、仏閣巡りだの、彼氏彼女と動物園だの水族館だの美術館だの遊園地だのディズニーランドだのユニバだのスタバだの行くのか「正しい」休日の過ごし方らしい。意識高い人になるとTOEICの勉強したりスポーツジムに通っている。


 インスタグラムだのツイッターだので意識の高い休日を過ごしてる人が沢山いるが、別に一日寝て過ごして何の問題がある?猫を見てみろ、一生の大半を寝て過ごすが、彼らは可愛らしく、多くの人に癒しを与えている。もし猫が一日中あくせく忙しそうに働いて回る生き物だったら、あんなに愛らしくはならなかっただろう。


 休日に「何かして過ごそう」と気張ると、それが緊張感を生み、交感神経が亢進してストレスが溜まり、かえって休めなくなる。友達と遊ばないとストレスが溜まるという人がいるかも知れないが、その友達は恐らくそんな人といることがストレスになるだろう。何度も書くがインターネットが発達して多種多様の人とコミュニケーションが取れるようになった現代、労力を使って人とface to faceでコミュニケーションをとることに、さほどのメリットはない。そして、人が書いた文章を読んだり、人が作った創作物(漫画や音楽、ゲームや映画など)を味わうことも、立派なコミュニケーションなのである。


 コミュニケーションはface to faceの場合の方がうまくいかない方が多いのではないかと思う。身近で親しい人との会話を思い出して貰うと、殆ど意味のない会話ばかりではないだろうか?少なくとも僕はそうだ。それは家でも会社でも変わらない。上司は何を指示してるか意味不明だし、家族は僕の話なんて聞きやしない。学校でも、教師が何を喋ってるか意味不明な人の方が多いのではないだろうか?


 人が時間をかけて丁寧に使った文章や創作物に比べて、単なる会話から得られる情報は実は驚くほど少ない。いや、手ぶりや身ぶりなど非言語コミュニケーションが大事だという人がいるだろうが、それならアイドルや政治家やお笑い芸人でも目指した方がいい。少なくとも僕にとっては非言語コミュニケーションはいらん忖度を要求されてるような気分になりイライラするだけだ。言語で明快にコミュニケーションをとる方が面白い。そんな人には、人が作った創作物の方が楽しいコミュニケーションに感じられるのかも知れない。


 そして、単なる日常会話には嘘が多く、真理を求めて渇いた魂は疲弊するだけだ。親も教師も上司も、基本的に嘘しかつかないと思って差し障りない。それに比べて、ネットの記事や創作物というのには嘘がない。何故か?基本的に創作物は自分と向き合うことから生まれるし、自分と向き合った人の言葉や表現には嘘がないからだ。常に他者の目線に晒されて自分を見失いがちな現実でのパリピ的なコミュニケーションに対し、創作物を介したコミュニケーションは自分と向き合ってからそれを他者に見せる分、嘘がなく、かえってその方が他者と真に理解し合えるのだ。


 そして、他者と真に理解し合うには、別に面と向かって合う必要はないし、相手に顔を覚えて貰う必要もない。真の親友が離れていても心は一つというのに似てなくもない気がする。霊にとって時間や空間が意味をなさないのに似ている。


 話が逸れたように見えるが別にそれていない。要は休日は何もしなくていいいやむしろ、積極的に何もしないことが大切であるということだ。老子のいう無為自然みたいなものか。優れた創作はかえってそんな状態から生み出されるものだ。太陽のポカポカした光が植物を自然に育てるのに似ている。というか、エーテル体はそういう性質を持ってるのだから、長時間労働なんてホントは言語道断のはずだ。


 「休みの日は何してるの?」と聞かれたら堂々と、「何もしないをしています」と答えられるような社会になればいいなあ。まあ、そんな社会になるよう自然は配慮して、コロナウイルスを生み出したのだろう。神様は本当に賢い。