徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

学校は教師のキャバクラ

 キャバクラは普通客が金を払うものだが、学校の場合は逆で、生徒または親が金を払って、教師を接待する場である。小中高大とそんな感じで、キャバクラの客(教師)はアルコールも摂ってないのに言動は支離滅裂で色欲は暴走させ、暴力的で暴言的で、承認欲求や虚栄心のためにみっともない姿を晒す。お触りに固執し指名を何人も変え、嬢(女子生徒)やボーイ(男子生徒)からのお世辞を自分の真実の姿の崇高さだと信じて疑うことがない。

 

 出鱈目な思いつきや支離滅裂な自分の勝手な思い込みを、何か歴史上の偉大な哲学者の思想にも匹敵するほど崇高で雄大な思想だと思ってる教師は多い。彼等は教壇で聞かれてもいないことを好き勝手に喋り出し、何か勝手にハイになって突然キレたり誰かを責めるような強い口調になったり、政治家の演説を始めたりベラベラといつまでも黙る気配がない。勝手に一人で話し出してる時間を考えたらキャバクラの客よりタチが悪いかも知れない。キャバクラのほうがまだ、嬢との会話のキャッチボールが見られるだろう。学校の授業で行われるのは一方的な妄言の垂れ流しで、教師の排泄物や自慰行為を生徒に賞賛させるように強制するものである分タチが悪い。キャバクラというよりは性風俗店という表現のほうが近いかも知れない。テストの答案には教師の排泄物や自慰行為をひたすら賛美するようなことを書かないと点数を与えない教師というのは多い。教科書に書いてることでなく授業中に自分がいったことを問題に出す教師がこのタイプだ。教科書という開かれた勉強道具で生徒が自主的に勉強することが気に食わず、自分が適当に喋ったことを何が何でも賞賛させないと気が済まないという訳だ。

 

 大学の教員で、授業中に自分が喋ったことを口頭試問で答えないと点数を与えないというおっさんがいた。そもそも口頭試問という形式自体が気持ち悪い。可愛い女子生徒と少しでも直接お話する機会が欲しいというおっさんの涙ぐましい努力なのかも知れない。しかし自分より遥かに若い人達に、自分の適当な思いつきを復唱させて喜ぶほど悪趣味なことがあるだろうか。日本の教育はどれもそうだ。教師から生徒への一方通行的な意見や思想の押し付けで、生徒の選択やトライアルアンドエラーは許さない。低学歴で無能で創造力も何もない教師の承認欲求を満たすのに生徒が利用され、女子生徒は教師の慰安婦となっている。気に入らない生徒には平気で陰口を言ったりハラスメント行為を行う。キャバクラの客でももう少し品性や教養があるだろうし、自分を客観的に見られるだろう。

 

 そのように猥褻で自制心のない教師を身近に見て育った生徒は、何の疑問も持たなければ同じように猥褻で自制心のない人間に育つ。即ちいじめやハラスメント行為を平気で行い、自分の適当な思いつきを他人に押し付けることに快感を感じ、創造力の欠如した動物以下の不毛な人生を歩むことになる。

 

 教師の責任というのは本来すごく大きい。生き方の手本でなければならないし、教師は自分の心の在り方に注意深く気づいていなければならない。学校の教壇はキャバクラのように酔っ払って好き勝手を言っていい場所じゃない。一言発するにも慎重に丁寧に考え、自分の発言が全ての生徒にどのような影響を与えるかということを常に熟慮しないといけない。それができないなら教師なんてするべきではないが、それができない人間しか教師をやっていない。学校をキャバクラだと思うのは多くの教師にとって当たり前で、毎年起きる教師の猥褻事件の数の多さがそれを物語っている。さしあたっては、海外の教育法と比較するなどして日本の教育システムがいかにキャバクラのそれかということを、再認識していく作業が大切だ。あとついでに言うと、会社もおっさん達のキャバクラである。